第8話 相棒 3 拉致
陽が心地の良い居眠りから意識を取り戻すと、世界は熱い陽光を失いつつあり、青ざめた空気が部屋を優しく包んでいた。
「随分寝てしまったな……」
陽は、ソファの上で軽く伸びをする。
軽い昼寝のつもりが夜になってしまうとは、昨日の仕事の疲れが残っていたのだろう。陽は、一回夜の就寝を経ただけで全身の疲労が解消される生命力に溢れた人間ではない。
「千景は……」
陽に体を密着させていた少女は、何故か床のラグマットの上で猫のように丸まり寝息を立てていた。よくわからないやつだな。
つい毛布をかけたくなってしまうが、魔人は風邪をひかぬためその必要はない。昔、同様の状況で毛布をかけたことがあるのだが、毛布いらないよーでもありがとうねと優しく返された。
さて、出かけるか。徒歩数分の知人の家に菓子を持っていくだけだ……旅行に行ったわけでもないのに菓子を渡す、今になってやはり迷惑ではないかと思えてきたが、面を合わせて渡すと言った以上なかったことには出来ない。
陽は勢いをつけてソファから立ち上がり、さっと準備を整えて……そのまま家を出る前に、そっと千景の傍らにしゃがみ込む。彼女の微かな寝息の音と、それに伴い膨らみを繰り返す腹部を少しだけ眺め、なんとなく安心感を得てから陽は玄関の扉をくぐる。手には紙袋をひとつ携えて。
既に夜へ移行中の住宅街では、街灯達が無言で働き人々へ安全な視界を提供していた。陽は軽い足取りで見慣れた景色を歩いていく。
ご近所なので迷うことはない。この十字路を曲がれば落葉が住むアパートであり、しかしそこで陽の足は止まる。
「アレはっ!」
目的地とは反対側の車道の上。一人の少年が、なにもない空間から伸びた腕に首を掴まれていた。それは間違いなく鏡獣の腕であり陽が見間違えるはずはない。
少年が、魔鏡空間に連れ去られようとしていた。
行動判断に微塵の思考もいらない。陽は全速で駆けその腕に渾身で殴りかかる。腕は怯んで少年を解放し、そして、
別の手が陽の腕を掴んだ。
「なにっ!?」
不意を突かれた故に陽は僅かな時間だが硬直を見せる。その硬直は、殴り怯ませた腕からの反撃を許す。
二本の腕に掴まれた。
「しまっ……」
二本分の力で陽の体は強引に引きずられ、空間に空いていた魔鏡の穴に誘い込まれる。
まるで抵抗出来ずに穴をくぐってしまい、しかも引っ張り込んだ勢いのママ陽の体はアスファルトの道路へ放り投げられる。危うくザラついた道路で顔面をすりおろすところだったが、脚部に力を集中し姿勢を立て直した。
驚異へ身構え、そして周囲に視線を巡らせる。
「まずいなこれ……」
標識が宙に浮いている、その標識の文字が左右反転している。一戸建て住宅が、芝生の豊かな敷地ごと道路の半分ほどまではみ出ている。普段は三階建ての家が、一階しか存在しないように見えるほど地面にめり込んでいる。
残念ながらどう見ても異空間だ。陽は魔鏡空間に入り込んでしまった。そして、目の前には雑魚とはいえ二体の鏡獣がいる。鏡獣には、通常の攻撃は通用しない。怯ませるのが精一杯だ。
自分の手に視線を落とすが、そこに紅の剣は存在しない。暁月それ自体は陽の魂を基盤とするが千景がいなければ取り出すことは出来ない。つまり今の陽は丸腰であり、ついでに言うと菓子の入った紙袋も見当たらない。現実世界に落としたか。
二体の鏡獣が、抵抗手段を持たない獲物へにじり寄る。
「ハハハ……こういうときはだな」
陽のスニーカーの踵が、砂粒を擦り小さな音を立てる。
武器を持たぬ者に出来ること……
「逃げるしかねえ!」
そんなものはない。陽は身を翻し脱兎と化した。




