鏡を狩るは黒衣の者
ただ、歩いていただけだった。
バイト先のコンビニから、疲労に塗れた足で独りトボトボと家路を歩いていただけだった。
自宅のアパートとバイト先はごく普通の住宅街にあり、そこは家とアスファルトばかりが広がるだけのなんの変哲もない地域だ。
日が沈み、地表の熱が藍の空へ消えゆく頃。変哲もないはずの場所で私は今、呆然と立ち尽くすことを強いられている。
それは、ほんの数秒前のこと。不意の突風を顔面に叩きつけられ、私は目を閉じ立ち止まった。
風という自然現象に対し心の中で軽く悪態をつきながら、すぐにまぶたを開き直す……私が視界を失っていたのはそのごく僅かな時間だ。
しかしその間に住宅街の景色は盛大に狂ってしまったらしく、開いた目に異様な光景を映して、私はいま声を失っている。
立ち止まっている私のすぐそば。私が目を閉じる前はごく普通に佇んでいたはずの一戸建て住宅が、どういうことか重力に逆らっている。
塀や庭はそのまま地面に置き去りにして、家屋だけがスッパリと切り取られて宙に浮かび上がり、電柱の背よりも少し高いくらいの高度に静止している。なぜか上向きにねじ曲がっている外灯に照らされたその家屋の底面は、まるで磨き抜かれたように平坦だった。
逆に、屋根の高さが私の腰程度になるまで地面に沈んでいる家もある。周囲が地盤沈下している様子はなく、それは機械によって精密に掘られた大きな穴に住宅がスッポリハマって落ちているようであった。
まともに建っている家はほとんど見当たらない。私の視界内の住宅のY座標がほぼすべて狂っている。みんな好きなように重力も地面も無視してバラバラの高さでそこに存在している。
道路も、大地震でも起きたかのように途中で大きく裂けて上下にズレているのだが、その断面はやはり人工的に美しく、熟練職人が丁寧に加工したのかと思うほどだ。
非現実的な光景だ。疲労がひどく溜まっているのだろうか。
流石に幻覚を見るほどではないと思いながらも、恐怖を覚えた私はスマートフォンをバッグから取り出し、そしてさらなる危機を覚える。
反転していた。ロック画面が、鏡に映したように完全に左右逆になっていた。
指紋認証は何故か正常に通ってロックが解除されホーム画面が映し出されるが、アイコンも壁紙のイラストもすべていつもと反転している。
訳のわからない状況でスマホまでおかしくなると、頼るものがまったくない。私は助けを求めるように道の奥へ視線を逃し、そしてスマホの状態を気にしている状況ではないことを知る。
クケ、クケケケ
人型の、ヒトではない何か。黄色い鏡を複数張り合わせて構成された動く人形と言えばいいのか。大きさは大人の男程度だろうか。その関節部は板一枚のみで出来ていて、中に誰か人間がいるわけではないことは明らかだった。
ソレは曲がり角からぬるりと現れ、そしてこちらを見つめる。滑らかな顔には口以外はなにもなく目玉すら存在しないが、確かにこちらを認識していて、
クケアアアアアア!
突然私に飛びかかった。理解が間に合わず私は無抵抗に押し倒されアスファルトに強く背中を打ち付けた。衝撃に、一瞬息が止まる。
クケケ、ケケ
その鏡人形のようなナニカは倒れた私に馬乗りとなり、そのまま私の腹部に躊躇なく自分の手を突き刺した。
激しい痛覚に襲われ、私の体から悲鳴が無理矢理絞り出される。なぜ手が腹に刺さるのか、鋭利なそれは間違いなく私の肉を深く貫いた。
その手は静かに抜き取られ、ゆっくりと持ち上げられると私の顔の前で静止する。血液が付着したその様を、まるで私に見せつけるようだった。
理解不能な恐怖に、身も頭も固まり、私は何一つ抵抗出来ず、自分の血の雫を頬に浴びた。
血に濡れた鏡人形の手が、大きく振り上げられる。
そして、風を切り私の顔に直接叩きつけ
「行けーくらえぇ!」
叩きつけられなかった。突然その腕が砕け散り、私の顔に触れることなく失われた。破片は私の顔に降り注いだが、不思議と痛みはなく傷つくこともない。
なにかが高速で腕に衝突していたのだが、その正体を認識する余裕など私にはなかった。
「今だよヨウ!」
響く甲高い少女の声、のけ反る鏡人間。そしてその反り返った身に大きな黒い影が衝突し鏡は全身まるごと吹き飛ばされた。
「フッ。いい狙いだぜ千景」
少し気取った男の声。
影は、人間だった。黒い人間が、紅色の剣を携えた男が、鏡と対峙する。
「さあ、砕けな!」
ただ一振り。紅の剣は容易く鏡人形を切り砕き、一瞬の間に破片へと還してしまった。
鏡人形は破壊され、しかし景色はイカれたままな住宅街の道の上。黒い男の黒いマントが、音を立て翻る。
彼は、私の傍へ静かにしゃがみ込んだ。
「大丈夫だ、安心しな。傷は治るよ」
……少し萎れた、けれど母の慈しみのような彼のその笑顔は、私の記憶に深く刻まれることとなった。
これは、邪悪な鏡から生まれる魔物と、それを破壊する男とその相棒の少女と……あとついでに私の物語。