幸せのチョコレート~幸福をあげます。大切に使って下さい~
今日も同じ相手とぶつかった。薄毛を隠そうと必死そうな鬘が不自然に黒い中年。
それから、今日は真っ赤なスーツケースにも当たられた。不細工の上に更に油を塗り固めたみたいな化粧が臭くて、痛む脚を無理やり動かした。
やっとの思いでたどり着いた。
いつも通り。丸印と【4】の文字につま先を揃える。すると、革靴に傷があるのを認めてしまった。あのバケモノ女の所為だろう。
普段以上に苛立つ朝だ。
面をあげると、向かいのホームの看板広告が目に飛び込んでくる。歯医者、老人ホーム、整形外科──あんなブスでもマシになるのだろうか──それから、私立中、予備校、大学……チョコレート会社。
それを遮るように、反対方向の電車が滑り込んだ。しかし、その車体にも女優だかアイドルだかわからない少しマシな顔をした女が【HAPPY Valentine!】等といったロゴマークとともに笑顔を振りまいている。
こんな世の中、とっとと無くなってしまえばいいと思う。
それが無理なら、俺が消えればいい。
頭の上の電光掲示板を見ると、俺が乗る電車はあとひと駅で此処に来る事になっていた。
遺書とか用意して無いけれど、飛び込んでしまおうか。そうだ、あのラッピング電車と同じのが来たら飛ぼう。
そう決意して、俺はリュックサックの肩紐をぎゅっと握った。
先月、衝動買いしてしまった時計をチラと目に入れる。高かったから使っているが、どうしてこんな物を買う気になったのか。
【Feb.2/14.2016】
何がバレンタインだ。クソ喰らえ、とホームを出ていく電車に毒づいた。
「あのう……ちょっと」
くい、と服の裾を引かれた。そこで初めて俺に掛けられた声だったと気付いた。慌てて目線を落とすと、小柄で痩せた女がいた。
「あの、これ」
「え、あ、はい」
こんな人混みの中、物を落としてしまうことは偶にあるし、本当に偶に拾ってくれる人だって居る。
俺はてっきりそういう事だと思って手を伸ばしてしまったんだ。
「えぇと、これは俺のじゃ……」
「受け取ってくれて、ありがとうございます」
さっきのラッピング電車を彷彿とさせる赤い箱。御丁寧にリボンまでついている。
拍子抜けした俺はもう一度、その女をマジマジと見た。ブラウンのダッフルコートに、チェック柄のモノトーンなマフラー。病的に細い事を除けば悪くない容姿。
そんな彼女が何故、俺に。
更に、彼女は痩せこけた頬に笑窪を浮かべて目を細めていた。
次の瞬間、女の笑顔が視界から消えた。
ドゥン────
低い、くぐもった、何にも形容し難い低音が鼓膜を揺らした。
腹の底でそれは何度も、何度も何度も再生される。
「キャアアアアアアアアアア」
耳を劈く悲鳴で、正常な音というものが雪崩込んできた。いつから聞こえなかったのか、俺の背後の人集りのざわめきと乾いたシャッター音。
目の前には、あのアイドルか何かが小聡明い微笑を浮かべている。
ガラスの扉にはピンク色のステッカーが貼られていた。俺が乗る車両では、無い。
赤い箱は確かに手の中にある。
怖くなった。無性に、怖くなった。
「すみません、通してください」
そう言えたかどうかも定かでないけれど。
前に出たい人混みは俺なんか視界に入っていない。寧ろ、それを好機と数歩前進した。
何人とぶつかったかは分からない。どうやって改札を出たかも曖昧だ。
だけど、気づけば1LDKの玄関を入った所に立ち竦んでいた。
指先から滑り落ちた鍵の音でハッと我に返る。
テレビをつけたまま家を出ていたらしい。見た事のある赤い電車が映し出され、ブルーシートに包まれた何かがストレッチャーに乗せられて人混みを掻き分ける。左上の数字を見ると、正午を回っていた。
そうだ、途中で気持ち悪くなって公衆トイレで吐いたんだ。
【──亡くなったのは、付近に住む女子大学生。以前から交友関係に悩んでおり、過去にも自殺未遂を……】
【最近多いですねぇ、若者の自殺は。バレンタインだってのに。僕もこの前、乗っていた電車がね──】
【──安全柵の設置も間に合っていませんからねぇ】
【いやぁ、そういう問題でもないでしょう】
青を背景に小さく切り取られた中に居たのは正しく彼女だった。いや、彼女だが、俺が見た時よりもずっと虚ろな目をしてる。
頭の悪そうなコメンテーター共の声が耳に障って、すぐにテレビを消した。バレンタインだから何だ。若者だから何だ。
カーテンも開けていない薄暗い部屋は外よりも寒い。かじかんだ手を見下ろす。
「ひぃっ」
すっかり忘れていた。
いや、忘れていたのに……何故か手の中にはあの赤い箱があった。支えを失ったそれは乾いた音をたててフローリングを転がる。
なんだってあの女は俺にこんな物を……。
開けるべきか逡巡した。
だが、ふと脳裏をよぎったのはあの屈託のない笑顔だった。
死の直前だと言うのに、彼女は笑ってた。
それの前に正座して、恐る恐る開く。リボンを解き、意を決して蓋を持ち上げる。四つに仕切られた空間に黒い宝石のようなモノが整然と並んでいる。そして、蓋の裏に何か文字があった。
「“幸福をあげます。大事に使って下さい”?」
角のない、女っぽい字。
「いやぁ、ね? リア充爆発しろーとか言う人間が多いからさぁ。このキューピットさんがそんな絶望気味な君達みたいな人に幸福をあげようと思ってね?」
「はぁ?」
呆然とする俺の目の前でいつの間にか、露出が多めの服を着た幼女が無い胸を張っていた。どこから湧いて出たのか。
「この世には絶望が多すぎる! 圧倒的に愛が足りない! だからね、アタシ直々にそれを知るきっかけをあげようってのよ!」
「いや、待って? どこの子ですか」
「だーかーら、アタシはキューピットだってば」
チワワのようにキャンキャンと甲高い声で話す、その言葉は理解出来る。だが、夢見る少女にしてはイタすぎる。大手を振って力説する此奴は、何だ。
チリチリの髪の毛は金色だし、白い肌に映える青い瞳とかも現実離れしている。
「んもー、信じてないなぁ。でも、もう君は選ばれちゃったから仕方ないね」
「はい?」
「君に与えられたのは幸運よ。幸運とは言っても、宝くじを買っても無駄」
俺の思考を先読みしたような彼女は黒い瞳をバチン、と閉じてウインクもどきをしたつもりらしい。
「君はこれから、死ぬことは許されないわ」
「なんだそれ」
「そのままの意味よ。疑ってるならそこの窓から飛び降りてごらん。痛いけど死なないわ。幸運が君を死なせないから。君に此れを渡したあの子はその幸福を放棄したってこと」
「なぁ、それ、呪いって言うんだぞ」
「そんなに死にたい?」
名も知らぬ幼女は真ん丸な目を不気味に輝かせて、正座した冴えない男を見下ろす。
「この世の中生きてる必要あるやつの方が少ないだろ」
「あの子も同じこと言ってたなぁ。人間ってホント良く解らないわ」
お前なんかに解られて堪るか。
睨み付ける俺を歯牙にも掛けない小悪魔は勝手にリモコンを触り、テレビをつけた。まだあの話題をしていた。やめてくれ。まだあの音が耳にこびりついて離れないんだ。
「どうしても死にたいんなら、あの子と同じようにしたら良いのよ」
「飛び込むのか」
「その前よ」
その、前?
「バレンタインがこんなに楽しみなのは初めてだなぁ、ってホントに嬉しそうだったわよ。手作りのチョコレートなんだからちゃんと食べてあげなさいよぉー。んー、んまっ!」
更に、彼女はマイペースにもチョコレートを一粒つまんで口に放り込んでいる。
「さ、次は君の番だよ」
□◆□
【──列車は十二両で参ります。黄色い線の内側に二列に並んで……】
向かいのホームでは、既に赤いラッピング列車が客が乗り込むのを待っている。去年までのアイドルだか判らない女は年末のスキャンダルで降板した。何を思ったのか、今度は流行りの子役。子供の癖に、頭の弱そうなタレントよりは真っ当な受け答えをする。生意気だ。
然しそんなことはもうどうでも良い。
次に来た電車に俺の全てを委ねるのだから。
丸印を見下ろし、【4】の数字に足先を揃える。すると、ぴったりと寄り添うように女物の茶色いローファーが並んだ。
見上げた電光掲示板。電車は前の駅を出発した。注意を促すアナウンスが響き始める。
「あの」
「これ、受け取ってください!」
懐に伸ばそうとした手を物凄い力で引っ張られた。何かの角が悴んだ掌に突き刺さる。
アイシャドウにしては大きすぎる痣をくしゅ、と潰しながら彼女は笑っていた。
「えっ」
雪みたいに白い肌で、垂れ目が仔犬みたいだ。セーラー服を着ているから、多分女子高生。
呼び止めようとした俺の声は絶叫のような甲高い金属音に遮られ、腹の底で、再びあの低い音を聴いた。
目の前で止まった女性専用車。沢山の不安顔を閉じ込めた赤い箱の側面で、何時かの少女がイヤミったらしく嘲笑っていた。
チョコレートを受け取るのは今年で三回目だ。
彼女は本当に気紛れな女神キューピットだったのか、若しくは、天使の皮を被った小悪魔か。
是非、ご感想等お聞かせ下さいませ。