表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

灯火の命題

作者: 佐伯
掲載日:2017/10/05

ありもしない噂話を信じたのは、何でもかんでも信じてしまう私の悪い癖で、いつもの帰り道から遠のくたび、踏みしめたアスファルトを照らす夕日は灯火の色のようで綺麗だった。

『学校の近くに心霊スポットがあるの知ってた?』

私は、学校の休み時間。独りぼっちの私にいきなり面白おかしく話し始めた彼女の言葉を思い出していた。

『幽霊って、病院とかにいるんじゃないの?この辺、そんなのあったっけ?』

まるで、秘密を共有するみたいにこそこそと話すそんな彼女につられ、私もなぜか小声になってしまう。友達ではない、ただのクラスメイトと話す感覚はいまだになれない。

『えー、違うよ。確かに病院とかにはよく幽霊とかいるって言ってるけど、こういう何も無い場所にも出るんだから。私、幽霊研究部に入ってるから情報は確か。これすごく面白い話じゃない?』

『うん、すごく面白そう。』

『でしょ? 私、誰かに話したくてうずうずしてたの!

その場所の名前はねーー』

彼女はそれだけ言うと話しきって満足したのか『これ、二人だけの秘密ね!』そう言って、きりのいい休み時間のチャイムとともに離れていってしまう。

学校の七不思議とか、数学の先生に最近彼女が出来たとか、クラスで一番可愛い子が援交してるとか、噂話はいつの間にかクラス中に広まってしまう。噂話を最初に話した人はたちまちクラス中の注目のまとだろう。

噂話は広めないと意味無いじゃないか。学校の近くに心霊スポットがある。それだけでみんなの注目を集められるのに何故、彼女はほかの人ではなく私を選んだのか。


ふと見上げた空は、眩しくてクラスの隅っこでひっそりと生きる私とは大違いだった。1歩1歩と歩く度、彼女の言っていた心霊スポットが見えてくる。

やっぱり行くんじゃなかった。なんて、期待はしてない振りをして、私の心臓は爆発してしまうんじゃないかってほど高なっていた。

初めてだった。こんなにドキドキすることも、噂話でも誰かと秘密を共有することも。

『着いた...』

思わず声を出してしまって顔が熱くなるのわかった。ひっそりと佇むその場所は夕日に照らされてちっとも心霊スポット感はなくて、私は踏み外さないように入口前にある階段を上がって、綺麗に整備された自動ドアを潜った。


―――南港野鳥園


大きく記された施設の名前。中に入ると目の前にこの園内の模型があって、もっと奥に行くとその名の通り、野鳥を見るため大きな窓が円型の不思議な構造の建物に沿っていくつも取り付けてあった。その窓から見える見慣れた景色。港に広がる海。そして、ふと気づく、窓に沿って置かれている椅子の一つに座る誰かの後ろ姿。

得体の知らない何かに不意に足を掴まれたように体が硬直した。彼女の言葉が何度も何度もリピートされる。

幽霊が出るんだって―――

『やっぱり、彼女の話しは本当だったんだ』

まだ、決まってもないのにそう思い込むのは夕日の眩しさのせいで彼の後ろ姿が透けて見えたような気がしたからだ。

『あの...』

いつの間にか、私はこの雰囲気に飲み込まれたように彼に声をかけていた。

窓の向こうを見ていた彼はピクッと私の声に気づいて振り返る。

『あなたって、幽霊? 何ですか……』

なぜ、そんな言葉を選んでしまったのか分からなくて、そんな私の不安げな問に彼は最初、ポカンと口を開いて驚いていたが、それは数秒だけで、彼は誰かにスイッチを切られたかのようにぷはっと吹き出すとお腹を抱えて笑い出す。

今更になって、恥ずかしくなる。彼が幽霊だなんて確かめる方法もないし、なにせ私は幽霊なんて見たことがない。

『僕が幽霊と思う?』

初めて聞いた彼の声はとても綺麗で、振り返った彼の姿はまるで夕日とともに消えてしまうんじゃないかってほど寂しく見えた。

返事を返さない私に彼は手を振って『来てご覧』そう言って笑っている。

神秘的な光景だった。私と彼を阻むものなんて何も無かった。

彼はあの窓から何を見ていたのか気になって私は彼に1歩と近づいていく。

まるで、物語の1ページのように始まろうとしている私と彼の出会いは、どうしても運命のように思えてしかたがなかった。


日常に現れる、真っ黒な闇は何の予告もなしに僕に突きつける。

運命だとか、奇跡とか、そんなどうでもいいものは置いといてその残酷な結末はナイフのように鋭く、気づく間もなく僕の背後に近寄ってその体を貫いていく。

生きるという事は、その苦しみを一生背負うという事だ。

出会いがあると、別れが必ず訪れる。そんな事当たり前なはずだったのに、何故僕は誰かが側に居なくなるたびこんなにも感情にしがみついてしまうのか。


灯火のように染まる閉館間際のこの施設に、彼女は何の前触れもなしに現れた。

『あの‥』

夕日はこの円型の建物にそった窓から反射し、見慣れた、つまらないこの日常に入り込んでオレンジ色に染まっている。

僕は反射的にその声をした方を振り返った。

ぽつんと不安げにたたずむ制服を着た女子高生。この辺では有名な学校の制服だと分かったのは彼女の胸ポケットの紋章がその学校のものだったからだ。それぐらい、彼女と僕の距離は近い。

いつのまに、こんなにも近づいていたのだろう。

『あなたって、幽霊? なんですか』

僕に話しかける言葉は多分、国語の授業で先生に質問された答えよりもたくさんあるはずなのに、何故彼女はその問いを選んだのか。

『僕が、幽霊だと思う?』

何ておかしな子だろうか。クラスには一人ぐらいいる謎めいた不思議ちゃんに彼女はぴったりと当てはまるような気がする。

―――大丈夫。怖くない。

僕は、恥ずかしそうに俯く彼女に手を振って『来てご覧』そう言っていつもの営業のときに向ける表情で彼女に笑いかけた。

彼女と出会うことが、運命ならば僕と彼女はどんは別れをするのだろう。

近づく度、一歩踏みしめる度、あらかじめ定まった人生を歩いているように思ってしまう。

『しょうがない。運命なんだもの』

大切な人がいなくなってしまった悲しみや苦しみを運命として片付けてしまうのならば、傷ついた自分の心はどこに寄り添えばいいのだろうか。

『綺麗』

彼女は隣に座って呟いた。

見慣れた景色。それなのに、全てが夕日の色に染まった瞬間何故こんなにも心惹かれるのだろう。彼女の目線の先に、アオサギが大空に飛び立とうとしている姿があった。

大きな翼を広げてアオサギは大空に飛び立つ瞬間を今か今かと待っている。それはとても綺麗で美しい。

『あれは、アオサギっていうんだ』

『なんの鳥だろう』

首をかしげて窓の上にある野鳥の描かれたポスターを見ながら疑問そうにしている彼女に、そう呟くと彼女は嬉しそうに笑った。

『また来てもいいですか?』

彼女は僕の目をしっかり見つめて真っ直ぐに答える。

少し考えて『またおいで』そう呟いた。

ここには誰もいない。静まり返った空間に彼女の存在だけが浮き彫りにされて影を落とす。

何故、自分はそんなことを言ってしまったのだろうか。それは、彼女がいなくなったあとも分からないままだった。


いつも彼はその場所にいた。

私が学校帰り、息を切らしながら自動ドアをくぐると、私に気づくなり缶コーヒー片手にいつも笑顔で彼は手を振った。彼の座る席はいつも同じだった。こんなにも座る椅子があるのにここが定位置と言ったふうにそこに座る。缶コーヒーも一緒だ。いつもの微糖。私には苦すぎて飲めないけど、1度私があまりにも彼のコーヒーを見つめるものだから彼は『これなら飲めるかな?』とクリームのたくさん入ったコーヒーを買ってくれたことがあった。

彼は大人の余裕というものがあった。もちろん彼のことは全然分からないけど、いつも来ているグレーのスーツで社会人として働いていることは分かった。

名前は真木。とても珍しい名前だ。

『あっ! あれは、ミサゴっていう鳥だ』

彼は窓から見える港の向こうを指さして嬉しそうに私に言うのを隣で、私は首にかかっている双眼鏡を持って彼の指さした方をレンズ越しに眺めた。

真っ白な大きな鳥。強い風のせいでその鳥は体制をくずして飛ばされてしまいそうだった。

何故こんなにも美しいのだろう。バランスを崩しそれでも前へ前へと進もうとする鳥たちはほかのどんな美しい景色よりも力強く儚いものだった。

『鳥が好きなんだね』

彼がふいにそう言った。双眼鏡から顔を離し隣を見ると彼は寂しそうに鳥が飛んでいってしまった夕日が沈んでいく空を眺めていた。まるで、生きることを拒絶しているように真っ黒に染まる彼の瞳に私は彼がいつかいなくなってしまうのではないかと思った。

彼のことを何も知らない私が彼の抱えたものを支える力はない。

でも、何故だろう。どうしても彼が気になってしまう。


『あっ! あれはミサゴっていう鳥だ』

僕が指さすと彼女は首にかけてあった双眼鏡を覗いて僕が指さした方向に傾けた。

最近になって彼女が双眼鏡を持ってきたことは気づいていたが僕が指さす度に双眼鏡を持って楽しそうに鳥を眺める彼女の姿に僕は驚いていた。

『鳥が好きなんだね』

 僕はそう言って彼女が振り向いたのを気付かないふりして空を眺めた。日は港の向こうに見える船を染めながら沈もうとしている。

『あーあ、行っちゃった』

 女はそう残念そうな顔で持っていた双眼鏡の紐を手持ち無沙汰にくるくると回していた。

『水鳥はね、海が下がる時に一番多くこの場所にいるんだ。ちょうど、昼ぐらいかな』

『詳しいですね。鳥が好きだからですか?』

『まあね』

 僕は立ち上がると、彼女の足音が聞こえて『どこ行くんですか?』そう言って僕の一歩前に来るとクルッと回って僕の顔を覗き込んだ。

『いや、ちょっと違う場所に行こうと思って、もう一つ水鳥が見える場所があるんだけど、行ってみるかい?』

『行きます!』

 好奇心に満ちた目。僕達は自動ドアから外に出て夕日の沈んでいく少し肌寒い中歩き出す。あの建物から階段を降りて、左の木が生い茂った道に入る。もう見慣れた道だった。だから、まようことは無かった。ずっとまっすぐ歩くと思っていたとおり分かれ道の真ん中に場所を示す名前の掘った木が1本、その場所に佇んでいる。

『あの建物は五時に閉まるんだけど、ここは十二時まで空いてるんだ。あっ、ほらここが分かれ道』

『北観察所?』

 彼女は木に掘られた名前を声に出す。

『そう。こっちに行ったらもう一つの観察所があるんだ』

 僕は分かれ道の左側を指さした。

『けっこう広いんだー』

 彼女は秘密基地を見つけたときのような好奇心溢れる目であたりを見回した。その光景があの時の彼女とそっくりだった。僕は泣きそうになって顔を背けてぐっと唇をかんだ。今更涙を流したって彼女は戻ってこないのに、そう心の中で呟いた。


 スマートホンで『南港野鳥園』と検索すると一番上にはその施設の紹介があり、その下に心霊スポットというあの場所には似つかわしくない検索結果が引っかかった。

 教室の隅っこ。カーテンは窓が空いているせいで円を作るように靡き、その影がスマホの画面に映りこんだ。

『学校の近くに心霊スポットがあるの知ってる?』

『あー見た見た! あれでしょ? もうすぐ取り壊されるって』

 教室は近くにある心霊スポットの噂で賑わっている。前までは私と彼女しか知らなかった噂がまた誰かが聞いて広めたらしい。

『あーあ、広まっちゃったね』

 彼女はそんなクラスを眺めながらつまらなそうに答える。

『噂話って広めるものじゃないの?』

そんな彼女に尋ねると

『私は広まって欲しくなかったの!』

彼女はそう言って駄々をこねながら頬を膨らました。

私はそんな彼女に気にもとめずスマホに目を向ける。噂なんて誰かが面白おかしく広めてちっとも本当のことを知ろうとしないのだ。

心霊スポットだの、幽霊が出るだの言っているあの場所はとても綺麗な場所なのに誰も足を運ばない。今では、学校の休みの日にあそこを訪れても本当に幽霊屋敷みたいな雰囲気を漂わせていた。だからあの場所の美しさを知ってるのは彼と私だけ。

『まーた、調べてるの?』

彼女が私の机に平然と来て私のスマホを除きこむ。

『うん。どうしても気になって』

私はなれないスマホ画面のキーボードをたたきながら検索ワードを変えていく。今になって調べだしたのは立ち壊されるというクラスメイトの噂を聞いたからだ。

『そんな君に私からのアドバイスだ』

いつものテンションの高い彼女に『はいはい』と返そうとした瞬間。私の目の前に新聞紙が広げられた。

大きく広げられた新聞の1面。私がいつも足を運ぶあの場所の名前。

『なにこれ……』

あまりの唐突な出来事に頭が回らない。ザワザワとうるさいほどに賑わっていた教室が止まってしまったように静かになる。

そこには、二年前。あの場所で一人の女性が自殺したことが記されていた。

『心霊スポットって噂があるなら必ず死が関係している。案の定、ほらここに』

彼女は楽しそうに新聞のある一つを指さした。

―――真木 十香

小さく記された名前。病気、自殺、最後に訪れた場所。たくさんの言葉たちの中で目に付いた恐ろしい言葉の数々。

そして一番はじめに気づく真木という珍しいみよじ。彼のみよじとぴったり重なる。

『なんで、こんな前の事件なのに今更になって噂話が広がったのか』

彼女が面白いことを見つけたあの時の表情で私を見つめた。

『私、この噂知らなくてさ。ある人からあの場所で聞いたんだ。なにか裏があると思わない?』

彼女の瞳は好奇心に満ち溢れている。

『そうかもね』

曖昧な返事をしながら私は思った。

彼は何かを隠してる。もし、この亡くなった人が彼の大切な人だったのなら。

彼は今までどんな心情を抱えてあの場所にいたのだろうか。


『しょうがないよ。これは運命だったんだよ』

そう誰かが言った。

目の前に綺麗な花で飾られた棺桶があって、泣くこともなく呆然とその光景を眺めていた。不思議な光景だった。昨日までこの世界で存在していた人が今目の前で眠っている。そして、一生目を覚まさないことも分かっているつもりだった。それなのに、悲しみというものは自分の感情を通り過ぎてもっとずっと遠くにいる。呆然と立ち尽くす僕を遠くで嘲笑うかのように存在している。

ついていけなかった。

自分の心も感情も。そこだけぽっかりくり抜かれて何の感情も持てないロボットのようだ。

『なんで、自殺なんて……』

彼女の母親が泣きながら言った。ハンカチを差し出すと『ありがとね』そう言って僕の肩をぽんと叩いた。

『ほんとにごめんね。咲、貴方のプレゼントしてくれた指輪とても喜んでいたの……』

『……はい』

『結婚式の前日だったのに、本当にごめんね……』


『しょうがないよ。これは運命だったんだよ』

彼女があの場所で言っていた言葉を思い出していた。

重苦しい空気に耐えきれず外に出て空を見上げた。

『これも、運命?』

僕は心の中で彼女に呟いた。もしこれも運命ならば形を持たず、僕が進む度付きまとうものだとしたらいっその事ここで終わらした方がいいんじゃないだろうか。

彼女が亡くなったことも、人の死も運命という二文字で表されたのなら命の重みも分からないじゃないか。

いつのまにか感情は僕の中にあった。

ボロボロと涙を流す僕は、不甲斐ないその一言で簡単に表せるような気がした。


『しょうがないよ。これは運命だったんだよ』

僕に向けて笑った彼女。

『私ね、貴方には迷惑かけたくない。』

夕日に染まった彼女はどこに消えてしまうのだろう。

『幸せになってね』

こんな時なのに彼女の姿は美しい。

『さよなら』

彼女は余命一ヶ月だった。病気は進行していて治せない状態だった。結婚式の前日だったのに、彼女はこの世界から散るように消えていった。僕に迷惑をかけたくないという理由で。気づいたときにはもう遅くて、残ったのは彼女の死を止められなかった後悔だけだった。


『なにか隠してませんか』

私は彼に尋ねていた。いつもの場所。自動販売機でコーヒーを買っていた彼は一瞬バッと私を見てからいつもの営業マンみたいな笑顔で微笑んだ。

『君に隠し事?』

真剣に尋ねたはずだったのに、彼に避けられた。そう思った。

『教室でここに幽霊が出るって噂話がひろまってるんです』

なぜ今まで彼に言わなかったのか。私は微笑しながら目をそらした彼に尋ねた。

『真木さん、知ってるんじゃないですか?』

『知らないなぁ』

彼は知らないふりをする。それが、逃げているように思ったのは、彼の手が震えていたからだ。

いつもの夕日に包まれた空間。カコっと音を立てる缶コーヒーの蓋の音さえも新鮮に聞こえるぐらい静かだった。

『真木十香』

私がそう口にすると彼の顔色が曇った。視線は私の方を向かず漂わせている。

静寂の中、彼の震えた手から滑り落ちた缶コーヒーの落ちる音。

彼の缶コーヒーが落ちて私はとっさにしゃがみこむと、彼と視線がぶつかった。

『君はいつから知ったの?』

彼の瞳は私を写した。缶コーヒーを拾う彼の手と重なる。冷たく、大きな彼の手は私が触れたと同時に避けるように離れていく。

『貴方と初めて会った日。私、クラスメイトの子に教えてもらったんです』

『そうなんだ』

苦し紛れに笑った彼の表情。私はどうしたらいいか分からなくてぎゅっと彼の袖を掴んだ。離したら彼が消えてしまいそうで怖かった。

『教えてください』

『君には関係ないことだよ』

重なった声。彼の言葉に私は何も出来なかった。掴んでいた手は彼が立ち上がると同時に離されてしまう。

彼は何から逃げてるんだろう。

何から逃げて何を守ろうとしてるのだろう。

その時、私は彼のことを全く知らないことを知った。彼の抱えている過去も。その時に抱いた感情も。

「『なんで、こんな前の事件なのに今更になって噂話が広がったのか』」

彼女の言葉を思い出した。何故、今頃噂が広まり出したのだろうか。もしかしたら―――


『貴方が広めたんじゃないですか?』

彼の後ろ姿。バッと振り向いた彼の表情に怒り悲しみが含まれていた。

日が落ちていく。辺りは暗闇に包まれて私たちの影が溶け込んでいく。

その瞬間、円形に沿った窓にそって、綺麗な線を描くように、アオサギが大空高く羽ばたいた。

ーーー美しい。

そう言葉に表すには足りなすぎてなんの形にもにならずに消えていく。

空を自由に飛べたのなら人は苦しさから逃れられるのか。苦しさがあるからこそ、人は生きる意味を見つけるのではないだろうか。

彼も私と一緒、大空に飛び立っていくアオサギを眺めていた。

彼の頬から流れた涙も美しい、そう表せないほど清く儚いものだった。


『貴方が広めたんじゃないですか?』

彼女が真剣な顔でそう言った。静寂の中で唐突に放った彼女の問に驚くことは無かった。

僕は振り返って彼女を睨んだ。しがみついた感情は未だにあの時の彼女を捉えていて、この場所にあるのは後悔。ただそれだけだ。

僕は口を開こうとしたその瞬間、今まだにないほどの近さで鳥の羽ばたく音が聞こえて振り返った。アオサギが円型の建物に沿って付けられた窓に沿って線を描くように美しく羽ばたいた。何故だろう。涙が止まらなかった。

『そうだよ』

僕はそう言って彼女に笑いかけた。

この場所は彼女との思い出の場所だった。噂を広めたのはこの場所を誰かに汚されたくなかったからだ。

『ずっと……この感情にしがみついてこの場所にいたかった。唯一楽に呼吸できる場所だった。』

自分の感情を言葉に表すのは以外に難しい。誰かに自分の過去を話すのは初めてだった。

『僕は、誰にもこの場所に入って欲しくなかった。ダメなことは痛いぐらい知ってた。ここが取り壊されるって知ってるかい?

人が来ないとこの場所は成り立たない。これはきっと僕に向けての罪なんだ』

諦めたように解き放った自分の言葉は弱々しい。こんなにも、美しい場所なのに何故こんなことをしてしまったのか。今の僕はそんなことさえも考えることが出来なかった。

もう、彼女は死んでしまったのに、何故ずっとこの感情にしがみついているのか。

『私はーーー』

彼女は真っ直ぐに前を向いていた。

『私は、貴方に感謝してるんです』

『えっ?』

突然の彼女の言葉は、僕の予想外なものだった。

『私、ずっと独りで友達もいなくて、でもあなたの噂のお陰でクラスメイトの子が話しかけてくれたんです。それが嬉しくて、あなたが噂を広めたって分かったのもあの子がヒントをくれたんです。だから私、あなたに感謝してるんです』

『ありがとう』

そう言って笑った彼女の瞳はとても綺麗だった。

『だから私は、あなたに後悔して欲しくないんです。出会ったことが運命なら、この場所がなくなって欲しくないんです。大切にしたい。あなたもそうでしょ?』

僕は止まらない涙を袖で拭った。何度も何度も頷いて、それでもまだ止まらない涙にもう止まらなくていいと思った。

泣いてでも生きていける。ずっと過去を引きずっても、彼女がいない世界でも。

どこかで前を向けるのなら。それでいいのだと。

『君と出会ったことは運命?』

泣きながらそう聞くと『だったらいいな!』そう言って彼女は笑った。

僕もいつの間にか笑っていた。この場所に残った後悔を一生抱えて、それでもこの場所に立って生きている僕をあの時の彼女は笑うだろうか。

きっといつか僕たちは終わりを迎えるだろう。でも、今はその時ではないのだと、ここが僕と彼女の出発点なのだと誰かに訴えかけていた。


見慣れた景色。でも、特別で大切な場所。

あるからどれぐらい経ったのだろうか。南港野鳥は名前が変わって野鳥園臨港緑地に変わり、その場所はたくさんの人が来るようになった。

大きなレンズが付いた一眼レフを構えて写真愛好家の人たちが朝早くから場所取りをしていて、高そうなそのカメラを自慢げに話している。

私はその光景を眺めながら誰かを待っていた。

窓から見える港町。台風が来た次の日だからかいつもより賑わっていて、水鳥が止まるために設置された止まり木にはたくさんの鳥たちが羽を休ませに来ていた。

『ちょっと、お姉さん』

誰かの声がして振り返ると、私よりも背の低い可愛らしいお婆ちゃんが私の服の袖を引っ張って『来てご覧。すごく綺麗に写ってるの』

そう言いながら嬉しそうに私を見上げていていた。私はそれに釣られお婆ちゃんが持ってきたバードウオッチング用のフィールドスコープに方目をつぶって顔を近づける。

『すごく綺麗に写ってる...』

思わずポロリとこぼれた私の声にお婆ちゃんは満足しながら『私、最近ここに来るようになってね、水鳥の勉強をしてるのよ』そう言いながら手に収まるほどの図鑑を捲っている。

『私、今待ってる人がいてね。もうすぐ来るんだけどその人にも見せてもいいかな』

私がそう言うとお婆ちゃんは嬉しそうだ。

どれだけこの場所が賑わっても彼と私が出会った場所に変わりはない。色褪せることなく輝き続けている。

『ごめん、仕事が長引いてしまった』

自動ドアが開いて、いつもの聞きなれた声に私は振り返った。

『もう、遅いですよ!』

ここは、私と彼が笑える場所。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ