せーので絶望しよっ
僕は無知でした。いえ、今でも無知です。僕は、世間知らずです。生活能力がありません。
僕は、生まれた時から無知でした、生まれた日のことは覚えていませんが、弟が生まれたときの記憶をもとにして、想像することはあります。
たぶん、僕は、雨の日に生まれたでしょう。それも、土砂降りだったと思います。父は仕事の電話でイライラしている。
母親は、めいっぱい力んでいます。僕はといえば、頭から出るか、足から出るか、悩んでいるのです。結局頭からでましたが。
僕の誕生はさぞ祝福されたでしょう。生命の誕生は何よりも尊いものです。右も左も上も下もわからない僕は、医者に抱きかかえられます。本当に医者は
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
なんて白々しいセリフを吐くものなのでしょうか。想像上の僕の医者は、僕を無言で抱きかかえます。そして、無言で母に、うやうやしく、手渡します。
母親は僕を抱きしめ、泣きます。僕も一緒になって泣きます。まるで悲劇です。人間が泣きながら生まれてくる理由をご存じですか、お母さん。僕は知りません。
僕は、ミルクの代わりに、コカ・コーラを飲んで育ちました。理由は分かりません。たぶん、僕がミルクを飲むのを拒否して、コカ・コーラを選んだのでしょう。
人間が、首を、横に振る動作は、世界共通で、NOを表すらしいのですが、生まれたときから、否定の契機が人生に含まれているというのは、悲しいことです。
コカ・コーラの二酸化炭素を摂取しながら、僕は平和な家庭で育ちました。父親と、母親と、3人で暮らしていました。父親が祖父から譲り受けた家に3人で住んでいました。
もともとは、祖父の大家族が住んでいた家なので、少し広すぎましたが、好奇心旺盛な僕には、ちょうどいい広さでした。家の押し入れから、屋根裏部屋に行けることを僕は知っていました。
庭には、名前のわからない木が、3本だけ、生えていました。たまに庭師が来て手入れするのが、僕は嫌いでした。
僕の身体には、たくさんの人間が住んでいました。いえ、住んでいるというより、一つの「場所」に集まっていました。この「場所」は今の僕にはなくなってしまいましたが、ほんの片鱗だけ覚えています。
一番大きい顔をしていたのは、「ぶたこ先生」という名前の、女教師でした。その「場所」は、何物でもなかったのですが、ぶたこ先生がいるときは、学校に変身するのでした。
この、ぶたこ先生が、僕に干渉するのは、僕の内面世界だけでした。僕の意志を操るということはありませんでしたが、僕とぶたこ先生は、「学校」で二人、会話をすることが多々ありました。
断片的に、コーラの泡のように、儚くなってしまった、茶色い、思い出について語ろうと思います。
保育園のころ、寝つきが悪くて、布団を足で持ち上げて遊んでいたら、先生に怒られたのを覚えています。
足を突き上げて布団を張って、テントみたいにするのが楽しかった。ほかの子供が昼寝をしている中、一人寝ないで遊んでいるので、田中先生は僕に仕事を振ってくれました。
内職みたいなことをした気がします。
小学生のころは、布団の中は宇宙でした。目を閉じて宇宙のことを創造(誤字だけど詩的なのでそのままにしておく)していました。
宇宙の果てのことを考えると、崇高な気持ちになって、どちらが上か下が分からなくなり、世界がぐるぐる回転しました。
比喩ではなくて、軽いめまいを起こしたときのように天と地が目まぐるしく入れ替わっていました。身体がなくなって、意識だけの存在になりました。
ぐるぐるまわるのが楽しくて、わざと宇宙のことを考えていた記憶があります。今は布団の中で宇宙を想像しても何も起こりません。
「死」が僕の心をとらえたのは、まさにこの、布団の中でした。
死
「オーイ、ミンナ、なんかキレイなのが落ちてるよ。」
どれどれ、川底を覗いてみると、たしかにカラフルな石がピカピカ光っている。僕はそんなものに興味があるタチではなかったが
、Mくんの声につられてみんなが宝石を拾い出したので、僕も拾うことにした。川(今思えば用水路だが)の底まで降りるのは、小学生の僕には少し手間取る作業だった。
背が低かった僕は、手でフチをつかみ、ウンと足を伸ばしても、用水路の底に足がつかないので、思い切って飛び降りることにした。自分では体操選手のように上手く着地できたつもりだったが、ぴちゃぴちゃと水が周りへ飛び散った。あーあ、このズボン買ったばかりなのになあ。
「なにしてるんだよお前。罰として俺の分の宝石も集めろよな。」
Mくんのズボンにも飛び散ってしまった。僕は特段、この色石がほしくなかったので、拾った石はMくんに全部渡した。これが慰謝料ってやつだ。
みんなで、夕方のチャイムがなるまで2時間ほども、石を拾っていた。
途中、僕を含めた3人ほどは、石拾いに飽きて、カニを追いかけていたけれど、石は全部で100個以上は集まったと思う。
誰かが正確に数えたわけではないけど、Mくんが自信満々に100個だと言っていたので100個なんだろう。
チャイムがなると家へ帰らなければいけないという校則があったのだが、僕たちはそんなのは無視してMくんの家に石を届けに行った。自転車のカゴが宝石だらけで、夕暮れの色と相まって、幻想的だったような記憶がある。僕の町は段差が多い。ガタガタ自転車が揺れるたびに、宝石がぽろぽろと道路に落ちた。誰も拾わなかった。
「お母さん見て みんなで拾ったんだよ」
Mくんがお母さんに宝石を見せると、お母さんは笑い出して、こう言った。
「あのね、これはトイレのタイルよ。」
僕たちはみんなで笑った。トイレのタイルを宝物と勘違いして何時間も水浸しになったわけだ。たまらなく面白かった。
思い出というのは、一つの幻想です。青少年の希望と、老人の追憶は、本質的に変わるところがありません。理想化された、イメージが、人間の現在を惨めにします。
イメージというのは、言語以上の凶器です。
中学生になると、僕の身体の中に、また、非我が住み着きました。いえ、非我ではなく、非自我です。僕自身が、僕に憑りついていました。
ハッキリ申しますと、僕には、意志というものがないのです。僕には、魂がありません。何をするにしても、身体が、自然と動き出します。
もっと言えば、欲求というものもありません。僕の意志や欲求を司っているのは、「Kクン」なのです。僕は、逆説を弄しているつもりはない。
言葉通りに、受け取ってもらえたら嬉しい。この、Kクンは、もしかしたら「ぶたこ先生」の亡霊なのかもしれない。
僕は、この中学時代を思い出すと、まるで壁が鏡でできた部屋に入ったような気分になる。僕は、鏡の中の視線に、殺害されたのでした。
1月28日、MクンとSクンとEクンと、男子トイレで談笑をしていました。偏差値の話をしていたような気がする。
「おい、おまえは何点だったんだよ。」
「僕は、78点でした。」
「私は45点。」
僕は、テストを仮病でサボっていたので、話に入れませんでした。だから、Eクンが、ブツを引っ張り出して、小便をしているところを眺めていました。
そのとき、僕の中の、Kクンがこう言ったのです。
「おい、おまえ、Eクンをちょっとイジメてみろよ」
その瞬間、嗜虐心に乗っ取られた僕は、Eクンで遊ぶことにしました。
「ねえEクン?Eクンは週に何回オナニイをするんだい」
「そりゃもう○○回はするよ」
虚栄心が大きいEクンが、見栄を張ることは分かっていたので、そのまま僕は言葉を続けました。
「それじゃあ、今日の朝にもう一発抜いたのかい」
「いや、それはまだだよ。起きた時にはもうパンパンだったのだけれどね」
「じゃあ、ちょっとひとつ、パンパンなところを見せておくれよ」僕は、なんでもないことのように、そっと、そう言いました。
「いいぜ」Eクンはトイレを終えて、おちんちんを僕たちの見えるほうへ向けていました。
お調子者のEクンは、そのまま、自分のおちんちんをシゴき始めました。
僕は急に恥ずかしくなって、目を背けました。中学校の、トイレの窓は、小さかった。その小さい窓から、鳥の大群が見えて、消えた。
僕は、窓を眺めながら、オナニイの語源になったという、キリスト者の逸話を思い浮かべていました。昨日、本で読んだばかりでした。
「おい、もっと早くシゴけよ」
誰かがそういうと、Eクンは、機械みたいに、手を早めました。僕は、取り返しのつかない罪を犯したような気持ちでいっぱいでした。
Eクン……………。Eクンのおちんちんの先っぽは、手首から流れる血のように真っ赤でした。
今日も学校を休んでしまった。みんなみんな死んでしまえばいいのに。先週はGに、虫を食べさせられた。虫と言ってもよく分からない細切れにされた物体で、多分バッタか何かだったんだと思う。Gとその周りの取り巻きは、笑いながら僕がその物体を口に入れるのを見ている。その笑い声がトイレの中に反響していて、糞尿の匂いと、バッタの屍骸と、下品な笑い声で充満したトイレの中は、禍々しい雰囲気を帯びていた。5ミリほどに細分化された、バッタの頭部を口に入れると、野次馬が跳ねるように笑った。う、おええ。目の部分がを噛むと、柔らかい死臭が漂ってきて、吐き気、吐き気、吐き気。イクラみたいに、バッタの目がぷちんと弾ける。おええ。次はGに足を口に突っ込まれる。筋肉の部分にギザギザの毛のようなものが生えていて、舌触りが最低だった。太ももの部分を噛むたびに、糞尿の匂いと混じったバッタの死臭が鼻をついて、思わず嘔吐しそうになった。前に、木を食べさせられた時は、あまり吐き気はしなかったのだが、生き物は独特の匂いがして、僕はもうギブアップかもしれなかった。
おええええええええ。
吐いた!吐いた!アハハ!アハハ!吐いたぞー!
おえええおえええええおえおえええ。
アハハハハハハハハハハハハハハハハ!
☆
私はもうきっと死にますから。100年後にきっと戻ってきますから、ここで待っていてください、と言い残されて、ぽつんと100年待っている。まだかなあまだかなあと待っていると、百合の花が咲いていて、そのとき「もう100年は経ったんだな」ということにはたと気づいた。
☆
万引きをした。別にGにそそのかされてやったわけじゃない。別に欲しかったCDじゃない。CDショップをうろついていると、昨日の笑い声と便所の死臭が思い出されて、涙をこらえようと思ったが、涙をこらえようとすると、煮えたぎった負の感情が心臓から溢れ出て、左の腕を、僕じゃない僕が、さっと動かして、CDを盗った。涙をこらえるには、この方法しかなかった。憎い、憎い、何もかも憎い。なんで僕が…。帰り道、土手を歩いていると、自転車に乗った警察官とすれ違って、また涙があふれそうになった。僕の横をさっと通り過ぎた警察官の後ろ姿を見ながら、生まれてきてごめんなさい、と心の中で呟いた。
家に帰って、知らない歌手の知らない歌を聞いた。くだらない恋愛の歌だったけど、僕の盗むものはこれぐらいくだらないもののほうがよかった。聞いているとやるせない気持ちになってきて、僕は数時間眠ってしまった。
☆
夢を見た。夢の中で、僕は、たばこ屋のお姉さんに恋をしているらしかった。僕はまだ18歳でたばこは買えないので、たばこ屋のそばで本を読むふりをして、お姉さんを見ていた。するとお姉さんがこちらに気づいて、たばこを吸いながら、僕のほうにとぼとぼと近づいてくる。君も一緒に吸おうよ、と言われて、僕はたばこを吸った。僕たちのたばこは二つの煙になって、町を見下ろしていた。二つの煙は一つの煙になって、神様のいる場所にまで行ったみたい。ここで一生お姉さんと寝ていたいな、と思った。
☆
母親に手を引かれて、精神科に来た。何度この看板を見ただろうか。何も分かっていない母親と、何も分かってない医者に、特に何も変わりません、と何度言ったか分からないセリフを吐く。そうですか、と医者は興味なさそうに相槌をうって、いつもみたいに3分で診療は終わりそうだった。「最近夜眠れないんです…。」僕は嘘をついた。では睡眠薬を出しときますね、と無機質な診療室に無機質な声が響いた。
医者は真っ白だから、嫌いだ。
母親と別れて、一人で歩いていると、Gがいたので、逃げようと思ったが、先に声をかけられてしまった。僕はダッシュで逃げようとしたが、野球部の向こうのほうが足が速い。急に怖くなって、立ち止まると、停止している僕にGが激突して、Gはずっこけた。Gの足は血だらけだった。僕はこのあとたくさん殴られるんだろうなあと思った。
☆
その晩夢を見た。死んだおばあちゃんが出てきた。おばあちゃん!と叫んで、僕はおばあちゃんの胸に飛び込んだ。おばあちゃんは何も言わずに、僕の頭を撫でてくれた。おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん。Mはいいこだねえ。先に旅立ってごめんよ、おばあちゃんはMがいじめられてることも全部知っているからね。でも負けちゃあかんよ。あんたは強い子やから大丈夫、おばあちゃんがついとるから。何があっても大丈夫よ。Mはいいこやねえ。おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃんは、目が覚めると消えてしまった。
☆
日曜日で学校が休みだったので、朝から睡眠薬を飲んで、1日中眠った。
☆
この前のたばこ屋のお姉さんと、花火大会に行く夢を見た。夢の中で見る花火は少しモヤがかかっていて、現実で見るよりも少し薄暗かったが、お姉さんと繋いでいる手の現実感が心地よくて、そんなことはどうでもよかった。花火大会が終わると、お姉さんは、こんなのもあるんだよ、と言って、僕に大麻を吸わせた。頭がとろんとしてきて、眠たくなってきちゃった。お姉さんのほうを見ると、お姉さんもぐったりしている。お姉さんに覆いかぶさって、一緒に寝て、同じ夢を見ようと思った。二人でぐったりして、同じ夢を見た。夢の中で二人は結婚して、いつまでも幸せに暮らしました。
☆
教室へ入ると、Gの背中をコンパスの針でぶっ刺した。Yシャツに一筋の血がたらりと流れて、Gは悶絶していた。あはは。Gの取り巻きは僕の行動に引いていた。僕は用事が終わったので、家に帰った。
赤い睡眠薬を、全部飲んだ。1分すると、意識が混濁してきた。あれ、目が開かなくなってきた、ほんとに寝れるのかな、あれ、やけに目が乾くな。あれ。意識にノイズがかかって、僕は、病院にいるのか?イセンジョウという声が聞こえた。医者の声だ。あれ、なんかやけに目が乾くな。あ、ようやく眠くなってきた。母親が、死なないでと叫んでいた。大丈夫。僕はずっと寝るだけだよ、お母さん。
☆
僕は青いパジャマを着て、お姉さんはピンクのパジャマを着て、手を繋いで、二人で新宿を歩いた。でもその新宿は、どこまで行っても新宿で、僕たちは、パジャマのまま、永遠に新宿を歩き続けた。
<blockquote>倦きた。僕はいつでも勝利者だ。
そこで僕は賭博場を飛び出した。外に出れば寒かった。
もはや僕の信ずるのは、自分の肌の感覚だけだ。</blockquote>
僕は、好きな時に、好きな場所で、ゼロになることができる。荘厳な場所で、下品な言葉を叫ぶこと、これが自意識だ。今まで自分が熱中していたことを笑い飛ばすこと。これが自意識だ。僕は信仰することができない。信仰者の道を歩んでいても、結局一本の指も使わずに、ドミノ倒しをすることができる。自意識が怪獣になり、自己自身を嘲り、一段高い場所へのぼる。もしくは、一段低い場所へ降りる。
僕の前には選択肢、賭けるべき数字が恐ろしく多く存在し、どの数字も、もっともらしく思えるし、どの数字もくだらなく見える。家業の数字、学問の数字、信仰の数字、ヒモの数字、自殺の数字…。数字は時とともに減るが、今の僕にはまだまだ多く感じられて、自分の「生命」をどの数字に賭けたら良いのか、さっぱり分からない。
当たりがあるのかすらも分からず、何が勝利なのかも分からず、悶々と部屋で哲学書を読み、聖書を読み、自慰にふける。
地球は広くて、多分、アメリカ大陸があって、中国があって、ドイツがあって、フランスがある。緑がたくさんあって、世界遺産がたくさんあって。僕は何も知らない。
☆
ジャポンの首都、トキオの道端、眼鏡の少女が一人で何か呟きながら、カウンターをカチカチと押している。太陽でビルは溶けかかっていたが、相変わらずトキオは人通りが多く、スーツを着たニヒリスト、主婦の顔をした精神病患者、うつろな人間たちの雑踏で溢れかえり、僕と少女だけが静止していた。
軍隊が歩く。僕は、この人たちのように、軍人ではないという意識に襲われ、疎外感というか、惨めというか、やり切れない思いになり、雑踏の中で、体育座りをした。人間たちは僕を怪訝な目で一瞥して、どこかへ歩いていく。僕は気狂いなんだ。僕は気狂いなんだ。もっと憐れんでくれ、人間の歩く音は、冷たい。無慈悲な太陽の下で、冷たい目線、冷たい音を聞くのは心地よかった。
誰か殺してくれないかなあ。ねばつく気温が、抑うつを加熱する。もう実家へは帰らず、ずっと体育座りをしていよう。そうしよう。誰かに肩を叩かれる。僕はこの手がだれか知っている。先ほどの少女だ。
「なにをしているの、そこで、一時間も」
抑揚のない声が後方から聞こえる。振り返ると、女がいた。近くの高校の制服を着て、いかにも文学少女といった風貌で、眼鏡をかけている。あまりオシャレには興味がないようで、化粧もほとんどしていないし、髪の毛もボサボサだ。僕は黙って女のカウンターを引っ手繰った。9999まで測定できるカウンターだったが、数字は145だった。僕と女は少し見つめあって、カウンターを返した。
「君のほうこそ何をしてるんだよ。僕よりずっと前から花壇に座って何を数えていたの?」
「聞きたい?」
「気になるね」
「人間」
そうだろうなとは思っていたけれど、それにしては145というのは少なすぎる。
「ああ、これね、9999を超えたら0にリセットされちゃうの」
なるほどね。じゃ、僕はこれで。さようなら。
☆
アダムとイブになりたいと思ったことがある。世界は滅亡して、僕と、ただ一人の女だけが生き残る。そこはきっと楽園ではなく、岩だらけの荒野なのだけれど、僕はただ一人の女以外が滅亡すれば面白いなと思う。面白い、以上でも以下でもない。だから世界を滅亡させようと思ったことがある。そのとき好きな女がいたのだ。ガンかエイズの特効薬を作れば、人口爆発して、人類は滅亡すると考えた。結局薬学部には落ちたけれど…。
☆
「数を数えるというのは人間を抽象にすることで、その人間から具体性を奪い、無力化しているんだよ。君は人間が怖いんだよ」と僕は"セフレ"に教えてあげた。
「そんなこと言われても知らないわよ。私は暇つぶしでやっていただけだし」
ムッとした表情でセフレが言う。「知った風なこと言わないで。」
「知ってるから言ってるんだよ。1人殺せば殺人犯だが100万人殺せばなんとかって言うだろ。あれからお前、ポケットの中でずっとカチカチやってるじゃん。数字がリセットされるから分かんないけどさ、もう数万人は殺してるだろ。」
「だから勝手な解釈しないでよ。いい加減にして。あなたも数えるわよ」
「おお怖い」
カチ
☆
虚脱感に襲われた僕が真っ先に口にした言葉「死にたい」安物のラブホテル、不思議な女子高生、安っぽい劇、安っぽい言葉。「死にたいね」
さらさらとした肌が、全く汗をかいていないお互いの体が、2つの体が、ベッドの上にあった。少女の肌は白く、先ほど作った青あざが余計目立つ。
「僕たちはもう…」言い終わらないうちに、キーンという音が耳をつんざき、世界は真っ白になった。
☆
もっと、垂直的で目に見えない、小麦畑のような話。形而上学的な初恋の話。
☆
おそらく、死後の世界は真っ暗なのだろうけど、生前の世界はそれとは対照的に、真っ白になり、僕と佐伯さんの色だけが気味悪く発光していた。大地らしい大地もなく、空らしい空もなく、雲もなく、緑もなく、白い平面が、見渡す限り広がっていた。星空もなく、ラブホテルもなく、太陽も月もなく、巨大なコピー用紙のような世界だ。佐伯さんは全裸に痣という恰好で、僕も縮みこんだ陰茎を出しっぱなしという情けない恰好だった。
「よかった…」「これでよかったのかな」「これでよかったのよ」
佐伯さんが言った「ここがどこか知ってる?」「知らない」
「ここはね、夢の世界なの」「夢?誰の?」
「私の夢」「それは違うよ、だって僕が…」「これは私の夢」そう言って、彼女は例のカウンターをカチカチと2回鳴らした。
☆
真っ白になったトキオを、2人で散歩する。"現実"では夏なのだが、ここは少し肌寒い。そうね、少し肌寒いわね。彼女の貧相な体をこれ以上見るのは忍びなかったし、僕の縮こまった陰茎を露出しっぱなしなのも、なんか癪だった。じゃあ、こうしましょう?
いつのまにか、彼女はピンク色のパジャマを着ていて、僕も青色のパジャマを着ていることになっていた。気づけば、高層ビルが立ち並び、道路に車も走っている。通行人は僕たちに気づかずに、歩道を歩いているが、僕たちが少し小突くと、頭にクエスチョンマークを浮かべながら、振り返るのだった。
「なんで、あなたが生きてるのか、知ってる?」陳腐でチープな質問、ぽつんと漏らす佐伯さん。「さぁ…………」
「答え、私が夢を見ているから、でした」眼鏡の奥で、眼が細くなる。微笑み。
違うよ、これは僕の夢だ。僕の目に、佐伯さんが映っていて、僕の耳に、トキオの汚い音が聞こえて、僕は夢の登場人物などではない!青いパジャマのポケットを探ると、名刺が出てきた。
【佐伯 由紀子】
複雑観念である二人の男女は単純観念にまで分解され、色と形と名になった僕と佐伯さんは、二人で同じ夢を見ているのかも知れなかった。
☆
<blockquote> 君たちは、信仰を持たないと公言して誇らしい顔をするが、それは少しも自慢すべきことではない。
僕は信仰を尊敬する。何故なら、信仰はおしゃべりをしないからだ。</blockquote>
☆
無限の外には有限はない。無限の外にモノが存在するならば、無限に限りがあることになってしまうから。無限の外に有限はなく、有限は無限の内に存在するのだ。有限が無限に至る道程は多種多様だが、僕にとってそれは佐伯さんであるのかもしれなかった。性行為そのものではなく、行為後に見る夢、2人で見る、同じ夢。僕の胸で赤子のように眠る佐伯さんと同じ夢を見て、夢の中で、平板な世界を二人で歩く。平坦で真っ白な世界は、退屈で、僕の退屈を察知した佐伯さんは、垂直にスーッと飛び上がって、僕に話しかける。
「見て。私、神様みたいじゃない?」そう言う佐伯さんの頭上には金色の輪っかが乗っかっていて、神様というより天使のようだった。
「神様っているのかな?」「いないんじゃない?」「どうして?」「なんとなく」「この夢は僕たちが作ったものでしょ、そういう意味では、僕たちは創造神なのかもしれないよ」「現実も、誰かが見てる夢だったりするのかな、東京を歩いてる、名前も知らないスーツを着た男の人、あの人は誰なんだろう」「東京の空が落ちてくればいいのにね」「死にたいなあ」「アイス食べたい」「東京」「?」「お母さん」「生まれてきてごめんなさい」
首を吊った。
目が覚める。今日も佐伯さんのカウンターは2だった。
☆
池袋を歩いていると、佐伯さんが、30代の男と手を繋いで歩いているのが見えた。一瞬父親かと思ったが、それにしては様子がおかしい。和気あいあいと話している親子ではなく、なにかこう、佐伯さんが怯えているような、ただならぬ違和感があった。駅前から彼女を尾行する。彼女はセーラー服を着て、僕には全く気付かずに、男との空疎な会話を続けていた。風俗の看板、案内所、ラブホテル、彼女たちはラブホテルに入った。僕はホテルの入り口で、二人が出てくるのを待っていた。太陽がチリチリと髪の毛を焦がし、汗が生き物のように全身から吹き出てくる。ホテルの入り口の近くにある噴水のヘリで、体育座りをしながら、2人が出てくるのを待った。おそらく2時間ほどだったと思うが、ラブホテルを一途にジッと見つめていると、自分の卑小で矮小でみみっちい欲望、他人への憎悪が胸の奥から噴水のようにわきだしてきて、僕は知らない間に泣いていた。涙が噴水に落ちるたびに、ぽちゃん、という音と同時に、なんの意味もない波紋が広がって、存在の邪悪さ、惨めさ、いや、こんな風に普遍的・抽象的な言い方はやめよう、僕の惨めさがこの世界に際立ち、何もかも、終わった気分になった。
「あれ、Mくんじゃん」水を眺めている僕に、佐伯さんが声をかける。「こんなところで何してたの?」「別に」死にたかった。
「今さあ、パパからお金貰ったから、美味しいものでも食べにいかない?」心臓と脳みそが直通し、涙腺が崩壊した。僕は佐伯さんの胸で赤子のように泣いていた。助けて。神様、佐伯さん。助けてください。
ここは東京で、君は佐伯さん、僕は誰なんだろう。佐伯さんの貧相な胸で号泣する。佐伯さんは何もかも分かったような手つきで、僕の頭を撫でる。
「死にたいよ、死にたい、酷い、残酷だよ、とても生きていけない。何もできない、死にたい、助けて、佐伯さん、死にたい、死にたい、もうだめだよ、死にたい、駄目だよ、生きたくない、苦しい、佐伯さん、捨てないで、捨てないで、好きだよ、死にたい、好きだよ」僕の吐く言葉は全て嘘で、全て本当だった。佐伯さんはこう言った。「大丈夫だよ」僕の吐く言葉は全て嘘で、全て本当だったが、佐伯さんの言葉は、全て本当だった。
☆
ソファで、マイスターエックハルトの「神の慰めの書」を読んでいると、キッチンで料理をしていた佐伯さんが、熟れ切ったトマトを僕めがけて投げてきた。ウワッ。反射的に右腕でトマト爆弾をガードしたが、服や髪の毛や「神の慰めの書」は血だらけになった。
「あは、いい顔してるね」とかいいつつ、佐伯さんはまたトマトを投げつけてきた。目にトマトの汁が入ってそれどころではなかった僕は、投げつけられるトマトのなすがままになっていた。ソファも床も血だらけになり、ジェル状の粘液に包まれた種が散乱していた。佐伯さんはキッチンからこっちへ歩いてきて、こっちをジッと見つめた。そして例のカウンターで何かを数え始めた。
「何を数えてたの?」「トマトの種の数」「どうして?」「わかんない」
佐伯さんは数えるのをやめて、僕の目を見つめる。
「きみ、たってるでしょ」
佐伯さんは僕のモノをズボン越しに触りながら、「いい顔してるね」と言った。
☆
「私ね、君の絶望してるところが好きっ。絶望ってね、高級なことなんだよ。ミミズやオケラは絶望できないでしょ、低級な動物だから。たぶん猫も犬も絶望できないわよ、Mくんは猫が好きだったっけ、でも猫は絶望してないから、安心していいよ。そんでね、低級な動物が絶望できないように、低級な人間も絶望できないのね。毎日の生活のことしか考えてない、うつろな人間、垂直方向にモノを考えられない人間、現世の快楽ばかり追求する人間、そういう人間は、本当に絶望することができてない、だって絶望って立ち止まって、底に落ちなきゃならないから。君は、立ち止まって、深い谷に落ちている真っ最中で、そこから手を差し伸べてくれる何かを待っている、いや、もう待っていないね、何もかも諦めて、底へつくのをただただ待っているだけ。Mくんの、そういうところが好きっ。」あは、笑っちゃうね。ほんとにそう思ってるの?冗談でしょ?
「冗談に決まってるでしょ、君の型にハマりきった絶望ごっこ、苦悩する青年ごっこ、文学に感化された青年の成れの果て、自意識過剰で、ドストエフスキーが好きで、そういうところ、大っ嫌い。量産型のそういう青年、見飽きちゃった。あなたも結局「アイツら」と同じなんでしょ?つまらない人間だよね、きみ。私が人間を数えてたときだって、知った風に、気取った口ぶりでつまんないこと言ってさ、そういう男、正直寒いんだよね。」僕はもう笑いを堪えきれず、トマトの血の中で大笑いをしていた。笑いで太ももをたたくたびに、ぴちゃぴちゃと音がする。あははははっあははははっあはははは。ほんとにそう思ってるの?あはははははトマトの汁で目が痛い。あはは、あはははははは笑いすぎて腹筋が痛い。こんなに笑ったのは父親が死んだ時以来だ。佐伯さんは面白い。
「本当はね、ここが好きなの」佐伯さんは幽玄に微笑んで、僕の局部を撫でまわした。僕と佐伯さんで、全裸になり、トマトの海を泳ぎ回った。
☆
<blockquote> われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか?そこでいきなり、そうしたものの代わりに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょうか。田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛の巣ばかり、これが永遠だとしたら。
</blockquote>
☆
直接的、無意識的、本能的、素朴、原始的、習慣、これらは僕にとって唾棄すべきものだった。直接的、無媒介的に生きている人間は、阿呆だ。踊る阿呆に見る阿呆、という歌があるが、僕は踊る阿呆になるぐらいだったら、見る阿呆になりたかった。この身体の中の、小さな小さな、幾何学的な点。この点が覚醒してる人、この点が眠り込んでいる人、世の中には2種類の人間がいる。僕の点は狡猾で、桃色がかっていて、肉眼では見えないほど小さかったが、無量の光を放っていて、この光が潰えることはなさそうだった。僕が思うに、この社会では、意識が覚め切っている人間は、狂人扱いされ、意識が眠り込んでいる人間は、常識人扱いされる。背筋に一本の棒を入れる。無意識のコアを体内の中心に据える。そうすることで、人間は社会で生きていくことができる。わかる?無意識のコア、正当性のコア、盲目性のコアを、意識の光で食い破ってしまった僕たちは、だだっ広い不条理を背負って生きていくか、自殺するか、無理やりにでもコアを注入するしかない。佐伯さん、聞いてる?
「聞いてない」
聞いてるじゃん…。
お酒を飲んだから眠くなってきちゃった…。
「あのさ、君のブログ読んだんだけど、アダムとイブになりたいってほんと?」ほんとだよ。
「じゃあさ、今からこの世界にいるのは私たちだけ、いい?」わかったよ。
これからどうする?意識のルーレットが指し示す場所は、砂のお城のように崩れやすく、僕は自由から逃走したかった。これからどうする?思考実験をしようよ。
「一生分の食べ物はある、娯楽施設もある。男女が1人ずつ生存してる。どうする?」佐伯さんはどうしたい?
「私たちの子供でしょ、きっと変な頭の障害持って生まれてくるわよ。子供なんていらない。私たちで人類はお仕舞。寿命が来るまで、どうしようか」どうしようか?
2人だけの世界、この前の、真っ白い、夢の世界。社会がなければ、英雄にもなれないし、教祖にもなれないし、社長にもなれない。社会がなければ、信仰もないし、価値観もない。2人で覚めきった意識を擦り合わせて………………。
☆
問いはシンプルで、答えもシンプルだった。ヘーゲルが浩瀚で難解な哲学書を書く必要はなかった。佐伯さん問うて曰く「人生は生きるに値するか」僕答えて曰く「否」
☆
無があった。卵があった。卵に白いオタマジャクシが寄生し、僕は僕になった。卵が、無限に分裂していく。
分裂して、分裂する。無限回の分裂が終わったあと、僕の肉ができた。この頃の僕には、植物的な生しか認められていなく、
植物的と言っても、光合成をする光もなく、腹から飛び出た陰気なチューブから、母体の栄養を盗んでいた。
光はなく、堕落はなく、救いもなく、闇すらもなかった。僕の心臓は、時計のように正確に時を刻み、
時間の中へ、存在を刻印していた。僕は心臓が動き始めたときから、時間へ参入した。
そして、産道から生れ出るとき、空間へごろんと投げ出された。ごろん。ぬめぬめで、ごろん。
子宮の中で、僕は、人肉だった。望まれない肉であれば、そのまま殺されてもおかしくはない。
死体と同程度の価値である僕は、人間世界の網の目の外におかれ、無以下の存在だった。権利も義務もなく、意志も精神もなかった。
川が流れる音がする。僕はこの音を知っている。銃撃戦のやかましい音や、女の呻く声も聞こえた。僕はこれらをすべて知っていた。
音と言っても、聴覚がまだ十分発達していないので、触覚と聴覚の中間のような、危うい感覚である。ず、ず、ず、ず。
肉塊はリズムへ融けだし、液体となる…。液体はリズムに鼓舞され、肉塊へ至る。
液体と固体の間を揺れて、揺れて、存在と無の間を揺れて、揺れて、母体のゆりかごは、死と生の象徴だ。
僕の植物的肉体は、日光を浴びずとも、肥大し、母親の腹をけ飛ばすほどになった。
母親は、僕に腹を蹴飛ばされて、喜ぶことを知っていた。僕は、蹴りたくなかった。しかし、胎児のころからすでに
僕は他人の視線の中で生きていた。誰の視線もないところで、顔を知らない他者を喜ばせていた。
うん、僕は蹴った。自分の悲しい性に従って、蹴り飛ばした。このまま、腹が破れればいいと思った。
胎児殺人事件。胎児が母親を殺す?殺意を持った胎児である僕は、昼夜を問わず、母親に殺人未遂を繰り返していた。
羊水は、僕の涙で、汚されていた。僕は、偶然性によって生まれ出で、必然性によって殺される。
手の花が咲く。足の花が咲く。にょきにょき生える、雑草。
産道から、排せつされる。僕は発狂した。
母親は喫煙家で、僕は、中国の仙人のように、煙を吸って育った。母親の腕の中でぐっすり眠りながら
僕は煙をねぶっていた。僕が初めて口にしたのは、ミルクではなく、煙草の煙だったような気もする。
煙草の煙は、甘い。母親の唇は、唾液の生理的な臭みと、煙草の甘さが入り混じって、およそ嘔吐を催させるものだった。
母親に抱きかかえられる。僕は、絶叫している。薬が欲しい。ミルクが欲しい。唇が欲しい。煙草が欲しい。
手の中で、天井を見上げる。無機質な、丸い蛍光灯が、病室を連想させる。満月のように丸い蛍光灯は、僕が最初に
見上げた、星だった。胸のむかつきと、頭蓋骨を支配する吐き気、不安感が、すくすくと育った。
「まあ、私のかわいい坊や」
母親は、僕を家に置き去りにして、どこかへ遊びに行くことが多かった。他者からの視線がなくなったとき
きまって僕は、ぐったりとして、死体のようになった。眠ることもせず、考えることもせず、
丸い蛍光灯と、天井からぶら下がっている、ピンク色の何者かだけを、視界に入れていた。
完全な受動態となり、生きることを放棄していた。乳児の僕は、生きることを欲していなかった(と思う)。
感覚を受け入れる器となった僕は、放心状態であったと言ってもよく、そういうときは必ず、オムツが
汚物に塗れているのであった。
頭の中が、痒かった。頭上には産毛が生えていて、産毛が脳みそを撫で、脳みそが痒かった。
この回想には、母親と僕だけで十分だろう。そして、母親は、あまり語るべきところのない女だった。良い母親だったか、悪い母親だったのかは、分からない。
永遠に分からないだろう。比較対象がないのだから。僕は、母親にとって、排泄物以上でも以下でもなく、しかしそれは、愛情の排除を意味したのではなかった。
僕はおそらく、愛されていた。愛を、支配の一形態だと考えるならば。
夜、星の見えない夜に、母親は、僕を車へ乗せて、目的もなく、ドライブへ出かけた。何歳のことだったか。
夕立のあとだったので、しめっけが強く、それに加え、母親は仕事でトラブルを抱えていて荒っぽい運転をしていた。
母親の顔は、ヒステリーじみていた。歯を、ギリギリと鳴るぐらい食いしばり、車の速度は法律を追い越している。
僕にはそのころ(今でもそうだが)、爪を噛むくせがあった。母親の形相を見ると、自分も釣られて、爪を獣のように噛んでしまった。
左の人差し指から、ピンク色の血が流れた。
「痛い…」呟いた。
「今なんて言ったの!あんた!」母親には、何か精神疾患があったのかもしれない。情緒不安定な母親だった。
情動に身体が支配され、僕の呟いた言葉が曲解された。おそらく、「死にたい」もしくは、「(父親に)会いたい」と聞き間違えたのだろう。
路上へ車を停止し、母は、憤怒の表情で僕の顔面を凝視した。他人の視線が、悲劇的なものになったのは、この頃だった。
僕はぶたれた。何回も、何回もぶたれた。母と、僕の目は潤んでいた。救いを求めるかのように、母は僕をぶった。
祈るように、僕は耐えた。二人で涙を垂れ流しながら、教育なのか、しつけなのか、夢なのか、SMなのか、記憶なのか、
お互いに何もわからないまま、暴力が遂行された。
母は僕を愛していた。今の記憶が突出して残っているのは、それが例外であったからだ。しかし、僕は、ぶたれたことを決して忘れない犬のように
その記憶を、忘れ去ることができなかった。母の温かい体温、母の狂気じみた視線、それが僕の精神の中でぐじゅぐじゅに混ざり合い、
感傷や、ノスタルジーというものを、捻りつぶすのだった。
保育園で園長にイジめられていたこと、幼稚園で同級生に背中に針を刺されたこと。鋭い思い出が、鼓動を速くする。
うさぎが死んだ。幼稚園で飼っていた、うさぎが死んだ。殺したのは、多分僕だ。
あぜ道に、枯葉のような色をした、蛙が、虫のようにぴょんぴょん跳ねていた。そのカエルを生贄にするのが好きだった。
僕は、無罪だった。罪はなかった。しかし、あの頃の残虐性を嘘を交えずに書くことは、おそらく不可能だ。
夢を見ている。長い長い夢を見ている。あの頃の僕が、夢を見ている。今現在、文章を書いている僕は、幼少期の頃の僕が見ている夢
の中の主人公だ。僕の目の前に置いてある原稿には、戯画化されたカエルの死骸が、いつのまにか放置されている。
僕はこのカエルを知っている。長靴、事故、生き物が死ぬ音、うさぎ。
構造がおかしい。夢がある。読者諸君、キミは、夢の残余だ。
幾何学的に、同級生に恋をした。名前をSとしよう。
「えー!チョーヤバイジャン!」Sがクラスルームで叫ぶ。アイドル写真集を見ているようだ。僕は男友達と一緒になって、Sの悪口を言った。しかしお前らにはわかるまい。反省のない女は女神だ。反省のある女は悪魔だ。そしてSは反省がなかった。
Sは少し太めの体形で、顔はそれなりに整っていて、髪を染めていて、ミーハーで、バカだった。僕は告白する勇気なんか持ち合わせている
はずもなく、遠巻きにSを眺めていた。Sの席は窓際にあり、ときどき、Sは太陽光線で、神になる。
心臓の音が聞こえる。Sの裸が目の前にある。乳房に触ろうとすると、乳房は生クリームのように甘く、溶けた。
生クリームがもったいないので、下へこぼれないように、手でお椀を作ったが、効果はなかった。甘くて不愉快な匂いが部屋に漂った。
Sはシラケた表情をして、瞳がダンゴムシになる。一文字の口はミミズとなって、Sはさなぎとなった。
Sは蝶々にはなれない。Sは交通事故で死んだ。10年後の話、10年前の話。
水の中に、卵がある。それは僕の夢だった。
☆
<blockquote>まぼろし
【幻】
1.
実際にはないものが、あるように見えること。そういうもの。また、存在の確認が難しいもの。 「亡き母を―に見る」
2.
たちまちのうちに、はかなく消えてしまうもの。 「せめてもの望みが―と消えた」</blockquote>
☆
時間が僕をすり抜けていく、もしくは僕が時間の厚みをかき分けていく。僕の存在は、蝋燭上で揺れる炎のように、ゆらりゆらりと危うい。時間が僕の存在を危うくする。幻というものが、実際にないものがあるように見えることだとしたら、時間に揺さぶられている僕たち、この世界は、全て夢幻で、世界には何一つ存在しないのかもしれない。世界には時間の突風で吹き消される、ちっぽけな炎しか存在していない。ナポレオンも、ソクラテスも、カントも、デリダも、アレクサンドロス大王もちっぽけな炎、幻、夢に過ぎなかった。そして僕も、実在せず、仮象しているだけだった。
佐伯が、ラブホテルに据え置きのマッチを、何本も何本も擦って遊んでいるのを見て、そんなことを考えていた。佐伯はマッチの炎をジと見つめていて、マッチの熱気で佐伯の顔は歪んでいた。
☆
人間には向き不向きがあって、ジャズの奏者は野球が下手だし、小説家はマラソンが苦手だ。僕の場合は存在が苦手であって(そのままの意味で)、存在していることが、災厄で、僕にとって不幸だった。僕は多分、その辺の虫けらより存在が下手で、いや、テーブルより存在が下手だ。存在するのにはある種の才能が必要で、僕にはなんの才能もなかった。存在の耐えられない軽さ、という小説があったが、僕にとって存在は鈍重で、重荷でしかない。存在の耐えられない重さを背負って、一歩一歩前に進むのが、つらく、厳しい。重苦しい存在を背負って、何もない砂漠を、放浪するのが人生ならば、と考えていくと、存在を抹消したくなるが、それができたら苦労しない。
「存在って、どこにあるの?」
重力みたいに、どこへ行っても、のっかってくるんだよ。濃い霧のように、払っても払っても、世界中に充満していて、逃げ場がない。
僕は欠陥品なんだよ。佐伯の吸っているタバコの煙。のように、軽くなりたい。
死にたい。何もできない。何もない。死にたい。つらい。何もできない。消えたい。僕は不意に立ち上がると、洗面所へ行って、カミソリを手に取って、左腕の静脈に軽くあてた。手首から、ツーと血が流れて、ソンザイが抜け出ていくようで、心地よかった。赤黒い存在が、手首からスルスルと抜けていく。もっと存在を出さないと…。身が軽くなったような気がして、ステップを踏んでみると、足の裏が血でベタベタになった。意識が混濁して、過去のイメージが脳内を奔流する。音楽室に飾ってある、ベートーベンの口から血が垂れている映像が流れて、何もなくなった。
☆
目を開けると、血まみれの佐伯が僕の腹の上で寝ていて、存在の重さが2倍になっていた。
☆
「人を殺してみない?」佐伯にそう提案されたとき、僕は不謹慎にも、少しだけ、面白そうだと思ってしまった。彼女は微笑し、幽かに首を傾げ、もう一度言った。「私と、人を殺してみない?」だけど、どうやって?
「こうやって」細い腕を僕の首にニュっと突き出してきた。本気で力を入れているらしく、僕の顔は次第に紅潮する。ギブ!ギブ!それでも彼女は絞めるのをやめない。脳みその欠陥が膨張して破裂しそうだ。顔が風船になったみたいだ。目が飛び出そうだ。
「計画は私だけで大体決めてるんだけど、ちょっと聞いてくれる?まず出会い系でおっさんを引っ掛けて、カフェに連れ込むの。私たちがカフェでエロい話をしてる間に、M君は近くのあの山あるでしょ、事前にあの山に穴を掘っておくのね、そこで待機してて。それで、私が青姦じゃないとイケないって嘘をついて山に誘導するから、隠れてたM君が斧で頭頂部をバコン!あとは埋めるだけ」んー、出会い系だと、サイトに履歴が残るんじゃない?だったらナンパのほうがいい気がするけれど、それも目撃者が多そうだし、しかもカフェの監視カメラに君たちがうつってるわけだし、そんなの3日でバレちゃうよ。
「なにマジになってるの、冗談に決まってるでしょ、それよりさっきの死にかけの顔、凄い良かった。いっつも死にかけの顔だから、逆に生き生きしてるというか」とかいいつつまた首を絞めてきた。
「実はもう穴は掘ってあるの」首を絞める力はどんどん強くなっていく。
☆
僕の人生は虚無という化け物との闘いであって、そこには野原もなければ花もなく、家もなければサボテンもなく、荒涼とした砂漠が広がっているだけで、おおよそ価値のあるものは見つからなかった、なぜなら人類はもうすぐ絶滅してしまうから。虚無は家族であり、友達であり、学校であり、至る所に虚無の影が忍び寄り、この平板な地表の上で、虚無の手から逃れ去るのは不可能であり、山を越えても虚無がいる、アメリカへ行っても虚無がいる、月へ行っても虚無がいる、僕はお釈迦さまの手の上で踊っている孫悟空のようなもので、つまるところ僕自身が虚無なのだ。8月の太陽がいくら僕の頭上で輝こうと、僕には僕の影があり、影を追っ払おうとしても、影は人懐っこく付いてくる。
虚無というのはこのような性質のもので、世界中が全て虚無に覆われているとも言えるし、僕自身が虚無だとも言えるが、この世界が虚無でないと信じながら生きている人も世界にはたくさんいる。はい、そこの君、虚無でないものとはなんですか?自分の子供?自分の子供はいずれ死にます。恋愛?君も女も死にます。金?いずれ君は死にます。知識?教養?革命?死んでしまえ。
人生は凄く単純なもので、人生の本質は「生きて死ぬ」ということだけ、あとのことは枝葉末節の、どうでもいいことだと思う。恋をしたり、病気になったり、コンクールで優勝をしたり、出世をしたり、そんなのは動物の求愛行動や雄ザルの権力争いと似たようなもので、重要なことじゃない。世界は物凄くシンプルで、「生きて」「死ぬ」だけだ。僕は、ソクラテスになりたいと思うことがある。何も書き残さずに、躊躇なく毒杯を飲んで、死んでしまったソクラテスになりたい。
しかし歴史は虚無で、未来も虚無であり、現在も虚無である。コンクリート色の虚無が勝ち誇ったように屹立し、砂漠にいる虫を冷たい腕で抱擁する。
僕は言葉が嫌いだ。言葉は虚無を覆い隠し、事態を複雑な方へ、複雑な方へと導いていく。生まれた、生きた、死んだ。猫ならこのような描写で済ませるのに、人間の人生となると「こちたき」言説が手品のように湧き出てくる。全てが虚無だと知らない人間は無自覚の手品師で、全てが虚無だと知らない人間は、立派なご演説に見事に騙される。全てが冗談、何かの悪戯のような悪趣味な劇で、僕のような訳知りの人間は吐き気がする。
善も悪もない。生と死だけがある。哲学は死の練習だと古代の哲学者は口を揃えて言っているが、まさにその通りで、死への練習にならない哲学など、なんの意味もない。議論のための議論のような、虚無以下の哲学をやっている人間は・・・。因果関係がどうあっても概念がどうあっても全ては観念でも全ては実在でも我考える故に我あっても神は死んでも自然即神であっても、そんなのはどうだっていい。「生きて死ぬ」
生きて死ぬという球体の周縁を、惑星のように回っているものを取っ払って、コアの部分を変質させるには、
☆
何もかもが終わった世界に行きたい。100億年後を「先取り」する。僕たちは無を生きている。
☆
目を開けると真っ暗な闇で、下はジャリジャリとした感触で、どうやら土の上に転がっているようだ。肘を曲げると土壁が崩れ、顔面に土が降りかかる。カッという音がして、目の前が真っ白になる。懐中電灯を顔に当てられたみたいだ。目を凝らしてよく見ると、知らない男と、佐伯が立っている。「じゃ、さようなら」男が極めて軽い口調で言う。「ばいばい」佐伯が言う。最後に聞こえたのはカチ、という音と、佐伯のクスクスという笑い声だった。
☆
<blockquote>真理が女だとしたら、どうだろうか?</blockquote>
☆
佐伯さんと協同して、インスタント食品やら生理用品やらその他もろもろを家に用意した。この間、殺す振りをして脅してぶんどった金で揃えた品々だ。元々は殺してしまう予定だったが、土をかけている最中に、佐伯さんが泣き出してしまったので、ジャックザリッパーごっこは延期になってしまった。佐伯さんのセフレの男だったらしいが、典型的な自己陶酔型のメンヘラといった感じの男で、少し僕も親しみを覚えるところがないでもなかったが、まだそいつの意識は豚のままだった。豚は半殺しにしても豚だ。佐伯さんが交渉をして、そいつから金を巻き上げた。巻き上げた金で、僕たちはシェルターを作った。テレビ、ラジオ、パソコン、時計、スマホ、外部と繋がりのあるものは全て金づちでぶち壊して(これがなかなか爽快だった)庭の倉庫に突っ込んだ。
僕の自室を改造して作ったインスタントシェルターは、和室で、しかもバカデカい本棚が大量にあり、地震や核戦争が起きれば一発で破壊されそうなシロモノだったが、贅沢は言っていられなかった。なぜならもう核戦争は始まってしまったのだから。
「ねえKくん」なに?「天井見て、顔に見えるよ」うん。
沈黙が続いた。佐伯さんが無言でカロリーメイトを食べる。無為の時間がただただ過ぎていく…。二人で、畳に大の字になって、天井の顔とにらめっこをしていた。時間が止まったみたいに、なんの音もしないし、何も動かない。
時間が止まった部屋に、佐伯さんの澄んだ声が響く。「お母さんも、お父さんも、✖✖も、〇○も、みんな死んじゃった。でも私、悲しいなんてこと微塵も思わないわ。だってこれは私とあなたで決めたことでしょう。後悔はないけれど、少しだけ思い残すことがあるの。私、お花屋さんになりたかった。東京の隅っこのほうで、お花屋さんをして、お花に詳しくなって、花言葉も自然と全部覚えて、常連になったおばあちゃんと談笑して、そういうお花屋さんになりたかった。でもこれはしょうがないことなのよね。私とあなたで決めたんだから。もう地上には1本の草も生えてないわ。動物も、植物も、微生物も、みんな死んでしまった。いや、ねえ見てKくん、これ!これ、ひまわりの種じゃない?」迫真なのか空々しいのか分からないような抑揚で、佐伯さんは一気にまくし立てて、ポケットからひまわりの種を取り出した。
「でも太陽がないから育たないわよね」と言って、パクリとひまわりの種を食べてしまった。佐伯さんは、煙のような人だね。手を伸ばしても、全然掴めないや。
「そんなことないわよ」と言って僕の腕を掴み、自分の平坦な胸にあてた。草原のように静かな部屋に、小太鼓の小さな音が加わった。
☆
佐伯さんって、死にたいって思ったことある?「いつも」どうして?「くだらないから」何が?「男とか、家族とか、学校とか、テレビとか」人間が嫌いなの?「大半の人間は嫌い、バカだから」僕はどうなの?「君はなんか違う…。わかんないけど、同じなのかも」僕はバカじゃないよ「そっか」うん「死んだらどうなると思う?」暗いと思う、真っ暗で、毛布の中みたいに真っ暗「眠たいよ」僕も眠いかも「わたしね、学校でイジメられてるの」うん「ノートを隠されたり、上履きを投げられたり、ひどいときには目の前でいろいろ燃やされたりした」うん「私はなんにも思わなくて、なんにも思わないのが当たり前なんだと思ってて、わたし、斜視だし、背も小さいから、ずっといじめられてて、でもイジメられても何も思わなかった。」うん「耐えきれないほど悲しいこともあったけど、悲しい自分を見つめてるもう一人の自分がいて、今喋ってるのはその見つめてた自分。悲しい思いをしていた自分はいつのまにかいなくなって、上空から自分を見つめてた自分だけが残っちゃった。私は、距離があるんだと思う。世界との距離があるんだと思う」うん「こっち来て」うん
☆
夏の暑さにイライラする。猫背でタバコを吸いながら知らない場所をぶらぶらする。詩を書いたりギターを弾く男と同じように、蝉がミンミン鳴いていた。何気なく木に止まっている蝉を眺めていると、小便をひっかけられた。指で頬についている小便をサっとふき取って舐めてみると、苦い。
地面に落ちている、大きめの梅のような、木の実を蹴りながら歩く。硬かったので、石のように帰るまで耐久がもつかと思ったが、10回ほど蹴ったところで外皮がえぐれた。赤い汁が飛散して、少しグロテスクな中身が印象的だった。
タバコの煙、舌の苦み、グロテスクな木の実、猫背の僕、少し弱気なダイモーンが降りてくるのには十分だった。グロテスクな木の実を見て、驚愕する人間、不安になる人間、素通りする人間、泣き出す人間、吐き気をもよおす人間がいた、いる、いるだろう。
ハンカチを取り出して、涙を拭く。涙は僕の明確な敵だ。涙が目に溜まると、世界が渦になり、立っていられなくなる。
木の実の悪魔がとりつき、希死念慮がじわじわとせり上がってくる。「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」「?」
やるせない、どうしようもない、むなしい気持ちで、木の実をもう一度蹴った。悪魔の実は完全に砕けた。飛び散った破片をずりずりと靴の裏で踏みつぶした。なんとなしに上を見上げると、同じ木の実が数えきれないほど木にぶら下がっていた。
疑問符。世界は、意識でできているのではなく、実体でできているのではなく、神が遍在しているのではなく、観念でできているのではなく、物質でできているのではなく、素粒子でできているのではなく、疑問符で構成されている。世界がクイズを出してくる。世界の沈黙そのものが、問いだ。問いかけてくる。「?」体中の力が、さらさらと砂のように崩れ、仰向けで草の上に寝転んだ。「死にたい」木の実が風で揺れている。「死にたい」蝉がジジジジ鳴いている。「助けて」そんなところでなーにしてるの、ケガしちゃうよ、と言って顔を覗いてくる佐伯さんは現れなかった。
☆
<blockquote>僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。</blockquote>
☆
土の中にいる。ずっと、生まれる前から。死んだあとも、土の中にいる。土を掘ると、僕たちの死骸が、白骨化しているものから、まだ幽かに呼吸をしているものまで、無限に出てくる。お願いです。どうか僕たちをそっとしておいてください。
☆
カチ
☆
佐伯さんは、冴えない容姿の通り、歌声もあまり冴えなかった。むしろ音痴だった。僕も音痴なので、2人でカラオケに行っても、あまり何も歌わなかった。ピザを頼んで、佐伯さんはジンジャエールを、僕はコカ・コーラを頼んで、2人でじっと座っていた。
曲を入れもしないのにカラオケの予約画面をぼーっと見ていると、佐伯さんに話しかけられた。
「Kくんこっち見て」
「なんだよ」
ん
口の中にジンジャエールの甘味が広がった。
存在には音があるらしいと、どこかの新聞記事で読んだことがある。クオークだか素粒子だか知らないが、ミクロの世界のさらに向こう側へ行くと、科学者ですら聞き取れない、むしろルーミーやエックハルト、プロティノスだけが聞き取れる、存在の音があるらしい。それは時計のようなカチ、カチ、という音なのか、耳鳴りのようなキーンとする音なのか、それとも片手の拍手の音なのか、僕は知らない。ともかく、存在には音があるらしい。
「大丈夫だよ」
耳を凝らすと、隣の部屋の微妙な歌唱力の歌声、カラオケショップの店員の声、TVに映った知らない歌手の声、さまざまな声が聞こえた。存在の音なんて知らない。世の中には雑音が多すぎる。
「大丈夫かな」
「大丈夫だよ」
「なんで大丈夫なの」
「私がそう言ってるから」
佐伯さんの澄んだ声が耳の底にとどまって、ハムスターみたいに頭の中をぐるぐる回る。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
佐伯さんは例のカウンターでカチカチ、と何かを数えた。カチカチと数えながら、僕の頭を犬を撫でるように撫でている。
僕の涙の数でも数えているんだろうか。カチ、カチ、と響く部屋の中で、僕は束の間の大丈夫の中に寝ていた。