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「おとうさま!おかえりなさい!」
北方の地、クロトミュスコフ。
雪と森に覆われ、人が暮らすことを拒むかのような白き大地。その地に建つ白亜の城で、親子は久方ぶりの再会を果たしていた。
戦争の後始末―――捕虜の引渡しや付き従った家臣、領民達への恩賞。そして敗戦の証として切り取られた領地、ヘイルムーンの処理。
その全てが終わったのは戦争の終結から半年後の事であった。
ようやく自らの城に帰ってきたオルテネア・ド・クロトミュスコフは、飛び込んできた愛娘のアイネイアを抱き上げる。
薄紫色の髪がふわりとたなびき、父の顔に頬をよせて久しぶりに目いっぱい甘える娘は、今年3歳になった。
まさに可愛い盛りのアイネイアだが、ふと小首を傾げ父の顔を覗き込む。
「―――おとうさま、おかげんがわるいの?おかおが、すぐれないみたい…」
それもそのはずだ。戦の前、生気に満ちていたオルテネアの顔は今や一気に年を取り、30代とは思えぬほどの老け込みようだった。
「…何でもない。それよりアイネイア、良い子にしていたか?」
「うん!べんきょうも、れいぎさほうも、がんばったよ!」
顔を少し俯かせ、まるで何かをねだるように父の様子を上目遣いで伺う。
そんな娘の分かりやすい表情を見て、オルテネアはその頭に大きな手を置き優しく撫でる。
「えへへ…」
雪のように真っ白い頬を染め、その大きな目を細めるアイネイア。
愛する一人娘の温もりをその腕で感じ、オルテネアはようやく国に帰って来れた事を実感していた。
だが、そんな幸せな親子の時間が長く続くことは無かった。
「陛下!一大事でございます!」
駆け込んできたのは譜代の家臣、先代から仕える初老の騎士であった。
「何事か」
抱いていたアイネイアを降ろし、緩んでいた頬と気を引き締める。それを確認した初老の騎士は一礼すると手に持った書簡を差し出した。
「こちらをお読み下さい。アルテリーゼに放った草からの報告です」
受け取った書簡にはしかし、短い言葉しか書かれていなかった。
だがその衝撃は、オルテネアを驚愕させるほど巨大なものであった。
「これは誠か!ヘイルムーンを、よりにもよって憎きディルトラントめが治めるだと…!」
普段の温厚な父からは想像できぬ、その憤怒の形相を初めて目の当たりにしたアイネイアは、ここに自分がいてはいけないと直感し、そっと扉に身を滑り込ませる。
その寂しげな背中に気づく者はいなかった。
「しかし陛下、これは好機ですぞ。彼奴は個人の武勇は苛烈なれど、戦術や戦略の才は未知数。ましてや貴族ですら無かったのです、領地経営など出来ようはずがありませぬ。一刻も早くヘイルムーンへ攻め込むべきですぞ!」
そう興奮気味に進言する初老の騎士に対し、オルテネアは逆に冷静さを取り戻す。
今ここで激情に任せて短慮軽率な行いはするべきではない。
「…兵は失われていないが、これ以上民兵を招集することは出来ぬな。せめて7年、いや5年後にどこまで国内を建て直せるかが鍵、か」
その言葉を聞き、初老の騎士は髭に隠された口をニヤリと歪ませた。
その顔は興奮に染まっていた先ほどまでとは打って変わり、どこか楽しむような飄々とした笑みが浮かんでいた。
自らが道化を演じることで主を冷静にさせたのだ。
このようなことが出来るのも先代国王から仕え、オルテネアを幼少の頃より見守ってきたからこそであろう。
自分に冷静さを取り戻させてくれた家臣に心の中で感謝しながら、オルテネアは考えを巡らせる。
民兵として集めていた領民はいまや各々が家へと帰り、家族と共にその身の無事を喜び合っているだろう。
そんなさなか、またも召集するような事があればどんな事態になるかは容易に想像できた。
戦死者は無かったが捕虜返還の身代金と、敗戦国としての莫大な賠償金。そして消費した兵糧の確保など、問題は山積みだ。
だがそれを5年で解決してみせる。とオルテネアは全身に覇気を漲らせる。
もちろんその時間は相手にも平等だ。
その5年間で、ヘイルムーンを如何に堅牢な地にするかディルトラントの手腕に掛かっている。
そもそもがクロトミュスコフとアルテリーゼ、2か国の国境となるヘイルムーンの地は、戦の最前線になることが前提の地なのだ。
そんな場所に領地経営の経験の無い、しかも平民であったディルトラントを領主とするなど正気の沙汰ではない。そこが元敵国の領地であるならば尚更だ。
また保守派貴族を中心に、アルテリーゼ国内からもディルトラントに対する反発の声が挙がることだろう。
その貴族たちに接触し、ヘイルムーンの開発を妨害させることも有効な手段となるはずだ。
だがあの狡猾なバルタザール・フォン・アルテリーゼのことだ、何か思惑が有るのだ。思いもよらぬ奇策と呼ぶべきものが―――。
しかし、それすら踏み潰してやろうとオルテネアは決意を固める。
「待っていろディルトラント、そしてバルタザール!5年後、5年後だ!必ずやその首叩き落としてくれる!」
一人寂しく自室への廊下を歩くアイネイアは、まだ初冬だというのに底冷えするその寒さにブルリと体を震わせた。
だが寒いのは体だけではない。心がこの空気と同じく温度を失っていくのを感じていた。
「…おとうさま、またいくさにいくの?」
産まれた時に母を亡くしたアイネイアには、肉親は父しかいない。その父がまた戦争に行ってしまう。
今回は戻って来てくれた。でも今度は?
「あるてりーぜ、へいるむーん。そして、でぃるとらんと」
扉越しに聞こえた、父が言っていた言葉だ。何故かその3っつの言葉が頭に残る。
「あとみかなら、しってるかな?」
『比類無き』アトミカなら。自分の『母親代わり』のアトミカなら―――きっと力になってくれる。
「わたしが、おとうさまを、まもってみせる」
今この時が、後に『水晶の乙女』と呼ばれるアイネイア・ド・クロトミュスコフの誕生の瞬間であったのかもしれない。