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「お待たせ、アルちゃん!パパだよー!」
「あえあうあえ~~!?」
(だれだおまえ~~!?)
洗い場に消えたヒゲモジャが、約30分後には光り輝く貴公子に変わってアルを抱き上げていた。
ある意味、異世界に転生したことよりも衝撃的な事実に、思わず叫び声を上げてしまったアルを誰が責められようか。
「アルちゃんが喋ったー!私はママよ!ママって言ってみてアルちゃん!」
「パパに会えて嬉しかったから喋ったんだね!パパって言ってみてアルちゃん!」
夫婦二人して同じようなことを言い、むむむっと唸り合う。
「最初に呼ぶのはママのほうだよね?ほらママって言ってみて!」
「いーや、パパだよね!ようやく会えたんだから!さぁパパって呼んでみて!せーっの、パパ~!」
「えぇぇ、生後一ヶ月で喋るとか…早すぎません?」
「…」
喜び、張り合うレーテとディルト。未だに頭の処理が追いつかず混乱中のアル。
少し離れて見ていたニーナとエイルだけが冷静だった。
「やった!当分はこっちにいられるのね!」
風呂上りの騒動もようやく収まり、寝室のテーブルで夕食を取りながらレーテとディルトは半年振りの会話に花を咲かせていた。
しばらくの間目を見開き、口を『お』の形にしたまま固まっていたアルはレーテの腕に抱かれている。
先ほど一足先におっぱいを貰い、ようやく人心地ついた所だ。
「うん、クロトの軍も引いたし、子供が産まれたから帰りたいって言ったら領主様が許してくれてね。何事も無ければしばらくいられるよ」
恐らくは酒であろう、琥珀色の液体が入った陶器の器を傾け、唇を湿らせたディルト。
己が妻と、その腕に抱かれた息子を見ながら言う。ロウソクの灯りで照らされたその顔にはヒゲモジャの面影などは微塵も無かった。
顔の半分以上を覆っていたそのヒゲの下は以外にも若く、さわやかな顔が隠されていた。
切れ長で、灰色のまるで鷹のような鋭い目は今は優しそうに細められている。
鼻や口なども日本人に比べればやや彫りが深いが、現代日本でも十分に美形と取られるであろう。
むしろ西洋人に近いこちら側の人達には、こういった顔の方が受けが良いのかもしれない。
わずかに癖のあるその灰色の髪は丁寧に撫で付けられ後ろに流している。
ヒゲと繋がっていたもみ上げも綺麗に刈られ、その鋭利な輪郭をあらわにしていた。
だがその凛々しい顔立ちも愛する妻には形無しなようで、そろそろ抱っこ変わろうか?
とさっきから何度も尋ねているのに、いいえ大丈夫よせっかくのお祝いなんですもの、食事に集中なさって。とすげなく断られていた。
ぐぬぬ、と唸るディルトだが、祝いの席と言うだけあって二人の目の前にあるその食事は、アルが転生してから見た中で一番豪勢だった。
大きく切った野菜がごろごろと入っているスープは、いつもレーテが食べている僅かな塩とクズ野菜のスープとは訳が違う。
ちらりと見ただけでもキャベツのような葉野菜や玉ねぎに似た細長く透明な物、あの赤い物はニンジンだろうか?
異世界の野菜なので名前や味は違うかもしれないが、アルが見てもそれはとても美味しそうに見えた。
そしてなんと言ってもスープにぷかりと浮かぶソーセージの存在感たるや!
細長いそれを8等分に切り、スープに入れただけなのであろうがその断面からは肉の脂とハーブの香りが溶け出していた。
またかぶりつけば、パチリと弾ける皮と柔らかい肉が小気味良い触感を与てくれ、溢れ出す肉汁と野菜から出た旨みが口いっぱいに広がるだろう。
ともすれば濃いそのスープの味を受け止めてくれるのが、籠いっぱいに詰められた大きな丸パンだ。
表面がこんがりとキツネ色に焼き上げられたそのパンはナイフで4等分に切られ、真っ白で柔らかそうな生地を覗かせていた。
普段口にしている真っ黒な、表面が石のように固く内部がボロボロと崩れる黒麦のパンではない。
断面からは小麦とミルクの香りが辺り一面に放たれ、前世でも久しくパンを食べていなかったアルのお腹をきゅうっと鳴らせた。
アルは知らなかったがそれは貴族の麦と呼ばれ、平民では滅多に口にすることが無い白麦と、たっぷりのミルクで練られた贅沢な代物だった。
これらの食事を拵えたのはもちろんレーテではない。
この祝宴の立役者であるニーナは食事を作り終え、配膳を済ませた後にそれでは今夜はこれで失礼させて頂きます。と言って家に帰って行った。
その手に自らが作ったスープの入った鍋を持って。また、冷めてもなお甘い香りを放つパンを詰めた籠は、大事そうにエイルの胸に抱えられていた。
にやけた顔のエイルはずっと鼻をヒクヒクさせていて、時折幸せそうに籠の中に顔を埋めていた。
ニーナ家の食卓も今夜は豪勢な物になることだろう。
ちなみにその夜、アルは一睡も出来なかった。
半年振りに会えた若い夫婦なのだ。その熱い情熱を誰にも止める事が出来なかったのである。
翌朝、というかお昼ごろだろうか。ようやく目が覚めたアルはおっぱいでお腹を満たした後、レーテに抱きかかえられて庭に出ていた。
異世界に生まれてから初めて見る外の風景に、アルは興奮を隠せなかった。
家の周りは草地に覆われ、遠くには高い山々と木々が見える。空は青くどこまでも晴れ渡っていて、白い雲が目に眩しい。
100メートル程先だろうか、家々が立ち並び更にその先には広大な畑が広がっていた。
所々見える人影はみな畑で作業をしているようだ。
ヨーロッパの片田舎のような、牧歌的な風景がそこには広がっていた。
その風景に異世界を感じさせる要素は何も無い。
だがアルは心が躍り出すのを止めようとはしなかった。いや出来なかったと言うべきか。
「あぅあぅぁ~!」
(すごい!広い!どこまでも続く地平線が見える!世界って、こんなに広いんだ…!)
思わず声が漏れてしまったが、前世で長く病院暮らしをしていたアルには、こんな広大な自然と向き合うことなど無かったのだ。
テレビやネットでしか見たことがない大自然の中で、これから生きて行ける事を思うと希望で胸がいっぱいになって行った。
「アルちゃん、お外きれいね~」
興奮していることがレーテにも伝わったのだろう。まるで自分のことのように喜ぶその笑顔は、この青空のように澄みきっていた。
「アル、おはよう!」
二人がのんびりと風景を眺めていると、ディルトがそう声を上げ家から出てきた。
その姿は動きやすそうな麻のシャツとパンツを着ており、首には手拭いのような物を掛けている。
そして何よりも目を引くのが剣を2本、両手に持っていることだった。
「あぶぅ!」
(剣を持ってる!父さんって戦うような職業のひとだったのか?というか突然ファンタジー世界っぽくなってきた!)
と、アルは更に興奮してきたようだった。
そういえば昨夜の夕食時に『軍』や『領主』なんて言葉を言っていた気がする。
ヒゲモジャ、後にイケメン貴公子。という変化の衝撃と、美味しそうな食事の匂いで全く会話が頭に入っていなかったアルである。
「ディルトの訓練、久しぶりね!でもこんな時間にするなんて珍しいわ!なにかあったの?」
眺めることに決めたのか、レーテはアルを抱っこしたまま庭にある切り株の上に座り、アルが良く見えるように前を向かせて抱きなおした。
「ん、まぁちょっとね…」
少し恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻いて、屈伸したり腕の筋を伸ばしたり準備運動をしている。
そんなディルトを見ていたレーテが、
「ふふ、アルちゃんにかっこいいとこ見せたいんだよ。かわいいね~」
と、こっそり耳打ちしてきた。
「ぶふぅ…」
(息子に良い所を見せたいのか。俺だからいいけど普通は生後一ヶ月の赤ちゃんに剣の訓練見せても喜ばないと思うんだけど…むしろ泣きそう)
と、アルはあんまり期待してなかった。
準備運動が終わったのか、よし!と気合を入れ、ディルトは右手で鞘から剣を抜く。
それは刃渡り60cm程の、片手剣としてはやや短い両刃の剣だった。
感触を確かめるように軽く数度振り、まるで肩に担ぐかのように右手一本で構え腰を低く落とした。
もう一本の剣は近くの木に立て掛けたままだ。
「ハッ!」
裂ぱくの声を上げ、右肩に担がれていた剣をそのまま左下まで一気に振り下ろす。
相手の左肩口から右わき腹へと切り抜ける、剣術でいう袈裟切りだ。
ビュンッという空気を切り裂く音が、離れた場所で見ているアルの耳にも届いた。
見ると、切っ先は地面すれすれで止まっており、ディルトは剣を振り下ろした姿勢のまま微動だにしない。
しばらくそのままで、アルがあれ?終わり?と思った、その時。
空気が爆ぜる音を聞いた。
「ハァッ!」
目にも止まらぬ速さで剣を左切り上げ―――右わき腹から左肩口へと、先ほどの剣の軌道をまるで逆になぞるかのように切り抜けた。
そしてそこからはアルの目には見えなかった。
いや、見えているのだが一つの動作を頭で理解する前に、次の動作が来る。更に次の、更に更に、更に更に更に―――と、終わることの無い剣舞が続く。
まさに舞だ。
右手一本で剣を巧みに操り、時には引き、時には押しと、まるで相手が目の前にいるかのように攻防を繰り返す。
足元の地面は抉れ、飛び散った汗が陽の光を浴びて輝いていた。
「あ、あううぁ!」
(す、すっごい!人間業じゃない!ていうか人間の動きの限界を超えてるんじゃないの!?)
アルが目をまん丸に見開いていることを確認したレーテは悪戯っぽく笑い
「そろそろよ。しっかり見ててね」
そんな事を言った。
「あうぅ?」
(え?まだ何かあるの?)
次第にゆっくりと剣を振っていたディルトが、右手の剣をだらりと下げた。
そして何も持っていない左手を前に突き出し、フゥゥゥと息を吐く。
その手の先、5mほど離れた場所には木に立て掛けられた、もう一本の剣。
それが、カタカタと揺れ出した。
「あぅ?」
(え?え?え?)
アルはそこから先は何も見逃すまい、と剣を凝視していると、
木に立て掛けられた剣が、凄まじい勢いで抜き放たれた。
「うあうぅ!?」
(んなあぁ!?)
ディルトは自分に向かって飛んで来るその剣を、空だった左手で無造作に掴む。
そしてその剣の勢いを殺さずに、むしろその飛んできた勢いを生かして体を回転させると、右手で持っていた剣を空中に放り投げた。
左手で受け取った剣。それは握りが長く、刀身もそれに応じて長い。
バスタードソードと呼ばれる、片手でも両手でも扱える剣だった。
「ウオオォォォォリャァァァァ!」
それを両手で握り、回転していた勢いそのままに右薙ぎの斬撃を放つ。
今までの片手剣のような、空気を裂く鋭い音ではない。
ゴゥッという空気を無理やり押し広げ、叩き潰すような衝撃。
両手で力の限り、必殺の気合で放った斬撃だ。凄まじい威力を持った攻撃なのだろう。
だがその隙は大きい。
現に重心は流れ、それを立て直すまでは次の攻撃は出来ない。アルが思ったその時、
放り投げていた剣が地面に落ち―――なかった。
空中で、ピタリと静止していたのである。




