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けぷっ、とげっぷをすると、今まで優しく背中を叩いてくれていた母がにっこりと微笑みかけてくれた。
赤ん坊をその胸に抱いている姿は本当に美しく、その眼差しは無償の愛で満ちている。
まるで絵画のようだ。題名は聖母子像か、いやはや慈母の微笑みか―――
「ねぇねぇニーナさん!アルちゃんってば瞳は私と同じで青くて髪や鼻や口はあの人そっくりね!これは将来絶対女の子泣かせになるわね!くぅ~この女の敵!でもそんなアルちゃんでも愛してる!だって私はお母さんだもの!ニーナさんとエイルちゃんもそう思うわよね?ね?」
「そーですねー」
「…」
「今からでも婚約者を探しておこうかしら?あぁでもこんな天使の様なアルちゃんが他の女の物になるなんて耐えられない!でもでも意地悪な嫁の虐めに耐える健気な母親ってシチュエーションにも燃えるものがあるわよね!あ、普通は意地悪な姑なのかな!?どっちがいいかな?迷うわね!ねぇニーナさんとエイルちゃんはどっちがいい!?」
「そーですねー」
「…」
ニーナが淡々とおしめの準備をしている。おっぱいを飲んだから、いつ粗相してしまっても良い様に予め準備しているのだ。エイルはその横で手拭いのような物とぬるま湯を無言で用意していた。
二人ともレーテの相手をするのに慣れているのか、放置することにしているようだ。まぁ放置されていても口は止まらないのだが。
ちなみに当然おしめは紙製ではなく、布製だった。
レーテとニーナ、二人の仲がとても近いのでやはり雇用関係や主従関係というよりも友人に近いのだろう。家族ぐるみで親交というか助け合っているのだろうか。
二人の関係が気になって、再び母親に視線を移しその姿をまじまじと見つめる。
容姿や言動ばかりに気を取られていたが、母―――レーテの格好、服装はなんというか、とてもみすぼらしかった。
上品な白い首掛けタイプのワンピースを着ているのだが、よく見ると裾や袖のあたりがほつれていたり、染みがあったりと随分とくたびれている。
ニーナの着ている服の方が新しく、しっかりと手入れをされている気がする。
部屋の中に目をやると、備え付けてある家具も良く言えば使い込まれた年代物、悪く言えばボロボロだった。
壁や天井も隙間や傷だらけで、とてもではないが裕福そうには見えない。
うすうす感じてはいたけど、この家ってかなり貧乏なんじゃ…と子供ながらに心配してしまう。
「えへへ…」
ついさっきまでニーナと軽妙なやり取りをしていたレーテが、どこかはにかむような笑顔で頭を撫でてくれる。
それが心地良く、お腹もいっぱいになったことで眠くなってきてしまった。
「あら、おねむかな?ゆっくりおやすみ」
レーテはそのままベッドへと体を移し、自分とアルのお腹にタオルを掛ける。どうやら同じベッドで眠るようだ。
「無事に生まれてきてくれてありがとうアル。大好きよ」
そう自分で言って恥ずかしかったのか、真っ赤に染まった顔を隠すように額にキスをしてくれた。
「レーテ…」
それを見守るニーナの表情も優しそうに微笑んでいる。
そのまま、たゆたうように眠りに落ちて行き―――
「わぁ!アルちゃんが私の腕の中でうんちした!」
「レーテ!動かさないで!漏れる!あぁぁ漏れてる!」
「…うわぁ」
目が覚めた時、部屋が暗かった。恐らくは夜なのだろう。
隣のベッドからは規則正しい寝息が聞こえてくる。母が寝ているようだ。
時折何か「ぐへへ」だの「ぐふふ」だの寝言を言っているが細部までは聞き取れない。
眠る直前に粗相してしまったからなのだろうか、ベッドは別になっていた。少し寂しい。
母も疲れているのだろうから、なるべく起こさないようにもぞもぞと動き出す。
まだ寝返りが打てないので、背中や腰の辺りに違和感を感じると両手両足を動かして少しずつ体勢を変えるしかないのだ。
せっかく目が見えるようになったのだが生憎と今は夜。特に見ていても面白いものも無いので、暗い天井を見つめながら今までの出来事を思い返していた。
(現代日本で一度死に、そしてここで赤ん坊として生まれ変わった。これはもう間違い無い。そしてここは恐らく前とは違う世界、異世界だ。)
その理由は言葉が違うから、という今はまだ曖昧な物だ。
もちろんもといた世界の全ての言葉を知っている訳では無いのだから、地球上の知らない国である可能性もある。
しかし知らない言葉が知らない言葉のまま意味だけが理解出来てしまう。
そんなあり得ない体験をしているのだ。
もしこれが異世界でないのなら、他にどんな説明が出来るのだろうか。
だが逆に言えば今の所明らかに違うと感じるのは言葉だけだ。
ここに暮らす人や生活様式にいわゆる異世界感は無い。
今は灯っていないがテーブルにはロウソクの乗った燭台があるので、夜にはこれを灯すのだろう。
つまり電気などは無く、現代日本からすれば文明のレベルは低そうだ。
だがもしかしたらこの世界には魔法が存在し、その魔法による文明が現代日本を凌駕している可能性もありえる話だろう。それこそ定番の魔道具など。
今ここにそれらしき物が無いのはただ単純に貧乏で買えないだけなのかもしれない。
個人的には魔法や魔道具といったものは是非存在してほしい。
後は地球ではあり得ないような生物だったり、現象でもあればはっきりするのだが。
例えばファンタジー世界の象徴たるドラゴンであったり、ネコミミの獣人に、小人族でもいい。
月が二つ浮かんでいたりするのも定番だろう。
だがどれも現状では確かめようが無い。
今の所はこれは保留だな、と答えの出ない疑問に一旦区切りをつけて自分と家族の事を考えてみる。
まず、自分の名前はアル。
こちらの世界でも男だ。ちゃんと付いていた。
鏡を見ていないのでどんな顔なのか分からないが、自分の手を見る限り肌は白い。
母曰く目は母親似で、髪や鼻、口は『あの人』似らしい。
あの人というのは恐らく父親の事なのだろうが、まだ会った事はない。中々会えないような特別な事情でも有るのだろうか。例えば母がやんごとなき身分の男の愛人である、とか。
見た目だけは完璧なあの母なら有り得そうな気もするし、こんなボロ屋に住んでいるのも正妻に追いやられたからだとか、それを不憫に思った相手の男が世話役としてニーナさんを付けたとか―――考え出すといくらでも湧いてくる。
一度考え出した両親への想像は中々止められそうに無く、その日はいつの間にかそのまま眠ってしまっていた。
それと後で気づいたのだが粗相をしたからベッドが別々になっていた訳ではなく、レーテの寝相が芸術的過ぎるのが原因だった。
こんな所まで絵画のようだ―――などと形容するとは思いも寄らなかった。
ちなみに作風はトリックアートだった。
昨日の夜中断してしまった現状の把握をもう一度しよう。
朝、寝起きのおっぱいを飲み、再びベッドへ寝かしつけられてからそう決意した。決意してから行動に移すまでおしめを換えてもらったり、子守唄を歌ってもらったり。いつの間にか眠っていたりと随分時間が掛かってしまったが。
この世界で今までで会った人は3人。レーテとニーナとエイルだ。
母親のレーテ。正式にはレーティアと言うらしい。途轍もないほどの美人で、暖かくて、優しくて、そして良い匂いがする。ただし喋り出すと止まらない。
正直、亡国のお姫様だと言われても信じてしまいそうな雰囲気がある。口を開かなければという条件付で。もちろんそんな事実は無いだろうけど。
ちなみに今は隣のベッドで昼寝中だ。よだれを垂らしながら。寝相は前衛芸術にまでレベルアップしている。
いびきの有無は彼女の尊厳に関わるのでここでは割愛させてもらう。
もう一人はニーナさん。恐らく母の友人なのだろう。
家では家事を手伝ってくれている。夜には帰り、翌朝にまたやってくるので近くに住んでいると予想出来る。
今も鼻歌を歌いながら家の中を行ったり来たりしているので、きっと掃除や洗濯など、家事をしてくれているのだろう。
歌の巧拙は彼女の尊厳に―――
最後はニーナさんの5歳の娘、エイル。
あまり自分から話す質ではないのか口数は少ない。いつもニーナさんの後ろをちょこちょこついて回り仕事を手伝っていて、その姿は微笑ましい。
不愛想というか表情に乏しいので、少し何を考えているかわからない所もあるが、まだ5歳の子供なのだから特に難しいことを考えているわけではないだろう。
現状、家にはこの3人だけだ。普通の家庭であれば居るはずの父親はいない。
いったいどんな人なんだろうな…とつい考えてしまう。そうすると昨夜の想像に行き着いてしまい、再び何とも言えない気持ちになってしまう。
と、そこへニーナが歌を歌いながら部屋に入ってきた。
「レーテ、レーテ~。行商の人が手紙を届けてくれたよーって、寝てるし」
折りたたまれ封蝋された、黄色くて分厚い紙―――おそらくは羊皮紙。そんな手紙らしき物を手に持ったニーナは、昼寝をしているレーテを見ると呆れた顔をし次にベビーベッドに寝ているアルを見る。
目線を合わせ、周囲に何も異常が無いことを確認すると一つ溜め息を付いてレーテに歩み寄って行く。
「ほら起きなさい。今寝ないと夜つらいのはわかるけど…」
と優しく声を掛け、肩を掴んで揺らす。
始めの内は優しく揺らしていたがそれでも起きないと見るとしだいに強く、激しくなって行く。頭がガクンガクンと揺れている。
「んぁ?」
それほどにされれば流石のレーテも起きるようだ。
だがまだ寝ぼけているのか、半眼で焦点の合っていない瞳をさまよわせ、のろのろと体を起こす。
髪は所々跳ね、口元にはよだれの跡がくっきりと残っていて色々と台無しだ。
「うわ、よだれよだれ。これで拭いて。もーほんとに世話が焼けるんだから…」
口ではそう言っているが、甲斐甲斐しくレーテの口元を自分のハンカチで拭くその顔は満更ではなさそうだ。拭いて、と言っているわりには自分で拭いているし。
「うー、なーにー?」
されるがままに口元を拭いてもらっていたレーテが尋ねると、ニーナが良く見えるよう目の前でひらひらと手紙を振る。
「行商の人が手紙を届けてくれたの。町からみたいよ。今ナイフを―――」
その瞬間虚ろだった瞳をカッと見開いたレーテが目にも止まらぬ速さで手紙を奪い取り、そのまま手で封蝋を豪快に割り開いていく。
その動作はついさっきまで寝ぼけていたとは思えない程の速さだった。
一瞬で手紙を奪い取られ唖然としたニーナが、あなたねぇ…と文句を言っているが当のレーテはまるで聞こえていないかのようだ。
蝋の欠片がパラパラとベッドに落ちるが、そんなことは全く気にもせず貪るように手紙を読み進め―――
そして突然アルに振り向き、思わず見とれてしまうような極上の笑顔でこう言ったのだった。
「アルちゃん!パパが帰ってくるよ!」