0・誕生日以外の特別な日
誰の中にも「特別」な力は存在する。
憧れ、願い、望み。
幼い頃はきらきらと光っていた、テレビの向こう側の存在。
いつしか、それらは現実を知った人達から目を背けられる事もあるけれど。
決して無駄になる事はないのだ。
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その「声」は、大きなものではなかった。
「彼」は、記憶にある限りでは初めて両親に連れて来られた大きな屋敷にいた。
5歳にもならぬ幼い少年だ、見知らぬ所に来てしまった緊張感はある……両親からも「特別な所に行くから、今日は大人しくしていてね」と言われて窮屈な服を着せられて少し困った。美味しいものを食べられて豪華な場所に行くんだとか言われても、何が良いのか全く分からなかった……見たいテレビがあったのになあと思ったのも理由の一つだ。両親と自分だけで、他の誰も連れて行かないと言うのも珍しい事ではあったし、意味も理由も判らなかった。
連れて来られたのがどこなのか、車で眠っていたので判らなかった。
ただ、起こされてからよろよろしながら車から降りると。目の前にあったのは太陽の光の下にあって周囲の景観を壊さず、さりとて地味に自己主張の激しい建物……だが、それを「どう」表現すれば良いのか判らなかった。
判らないから、困惑するから、困るから、言えないから、戸惑うから……。
結果、彼は泣いた。大泣きした。
親達は驚き、戸惑い、困り、抱き上げてぽんぽんと優しく叩いてくれたけれど止まらなかった。
幼い子供特有の、癇癪に近い感情の爆発。まだ屋敷……家なんて大きさではない、まさしく屋敷に入る前だったからこそ咎められる事も無かったのだろう。止める事も出来ぬ泣き喚く状態に誰かが何かを言ったらしく、どこかに連れて行かれたのだろうと後に思い返したのが最後の記憶だった。
目が覚めた時、「彼」はわけが判らなかった。
「そこ」は普段過ごしている「家」とは似ても似つかない場所で、まるでテレビの中の様に繊細で美しく整えられた部屋だった。
己の上には小さな毛布が掛けられており、体を起こすと着ていた上着が側に掛けてあった。
どうやら、泣きながら眠ってしまった為に長椅子で横にされたのだろう。靴と上着を脱がして、顔も拭いてあったのだろう、だけど目が覚めた時に知らない場所で一人きりだと言う状況に恐怖心を抱くなと言う方が無理な話だ。
何しろ、繰り返すが「幼い少年」なのだ。
強烈に押し寄せて来る寂しさ、それを二文字で表すのならば寂寥と言うのだが知る由もない程に幼いのだ。喉の奥からこみ上げて、せり上がるものが何なのかも判らないのだ。
今にも上り詰めて、再び込み上げて来るものに負けてしまいそうになった時。
それを止める事が出来たのは、単なる偶然と言うものだろう。
「……え?」
文字通りきょとんとしたのは、「それ」が何なのか理解出来なかったからだ。
決して誰かが入って来たわけでは無いし、誰かが大声を発した訳でも無い……今の状態ならば恐らく、普通に声をかけた程度では反応さえしなかっただろうと思われる程度に感情は上昇の一歩を辿り圧縮されたが如く放出を待ち受けている状態だったに違いない……物理的に証明出来るわけではないが、もし先ほどの様に大泣きしながら大声を張り上げて周囲に超音波よろしくな状態にならずに済んだとすれば。
余程のタイミングで抱き上げるか、意識を落とされるかの二択が面倒にならずに済んだのかも知れない。
何故その二択なんだと、後に呟いた者がいたとかいなかったとか。
「……何?」
だから、溜め込んでいた感情の高まりが風船の栓を抜いたかの様な勢いで抜けたのは。
ある意味において、本当に単なる偶然に過ぎなかったのだろう。
ただ、どこかで誰かが言った事がある。
別れは人の意志が絡む事もあるが、出会いは偶然と言う名の運命なのだ。
そんな事を、決して言っていたわけではない。
あったとしても、そんな事を理解出来る年齢ではない。では、何が駆り立てる衝動に突き立てたかと言えば一言の元に尽きるだろう。
好奇心。
物理法則と言う単語を知らず、さりとて生まれてこれまで培った体験の全てとは全く無関係の所にある、言葉にする事が出来ない不思議な「感覚」が好奇心と言う鎧を身に纏っていた。
まるで、それはテレビの中で見た戦士の様に……もっとも、戦士やら騎士やら剣士やら闘士やらと言ったものの違いさえ知らぬ今の時点では、そんな単語の羅列は意味をなさないのだろうが。
判っているのは、まるで何かが爪を立ててひっかいているかの様な感覚があると言う事。それが、どうやら室内ではない外からの「何か」であると言う事。外を見れば、どうやら部屋は一階にあるらしく内鍵を開ければ外に簡単に出られる作りになっているらしいと言う事。
……靴を履いて上着を着て、少し高い位置にあったけれど背伸びをして鍵を開ける。
最初、あまりにも丁寧で繊細な造りをしていたから鍵だとは思わなかったがゲームで覚えた感覚でいじくってみたら合っていたのでほっとした。
そこで誰かを呼んだり探したり、泣いたり喚いたり暴れたりすれば良かったのかも知れないが。悪かったのかも知れないとは後々にならなければ不明な過去だ。
「……だ、れ?」
あえて近い感覚を言えば、それは「喚ばれた」と言うのが最も近かっただろう。
ただ、「声をかけられる」とか「名前を告げられる」と言う事しかされた事がない為に「呼ぶ=喚ぶ」と言う感じではないと常識が阻害していた。
知識として「知らない」事を認識する事も、それを誰かに説明する事も難しい事だ。
認識したとしても、それを自分自身に説明する事が出来なければどう言えば良いのかも判りはしない。
「……そっちこそ、誰?」
だから、とても困った。
「彼女」を見つけたのは、自分から見つけようと思ったのではなく誰かに見つけるように言われた様な気はするのだが。しかし、誰かに何かを言われたと言う「事実」は覚えている限りでは全くない。
何と言っても、目が覚めてから「彼」は誰かに会った訳でも無ければ何かを見つけたわけでも無かったのだから途方に暮れるも良い所だ。
そうして、同じだけ「彼女」も困ったのだろう。
同じくらいの年齢の異性、しかも見た事もない知らない相手。
突然、静かに声を上げるでもしゃくりあげるでもなく涙を流していただけの途中で。けたたましい警報の様な勢いで現れたのだ。思わず「誰だ」と言ってしまっても仕方がないと言うか当然の反応と言うか、とりあえず普通の反応だろう。
とりあえず、二人は同じだけ困った。
同じだけ戸惑って、何を言ったら良いか判らず、どうしたものかと悩み、そして。
ただ沈黙した。
普通、5歳にも満たない子供が一人でもいれば猫の首につけた鈴の様に凛々と音を鳴らすがごとく騒がしくなるのが日常と言うものだが。どうにも空気を読む日本人気質とは別の所から二人は二人とも身動きが取れなかったりした。
それは、第三者が現れるまでお見合い状態が続いたわけである。
過去は美しく彩られる、それはすでに失って手が届かないからなのかも知れない。
例え現在は思っていた未来ではないとしても、色あせたとしても。
過去は過去であるだけで、価値があるのだろう。恐らく。