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アイデンティティの在り処  作者: 日笠彰
6/10

アイデンティティの在り処 5

 生活感が無い。

 竜之内さんの質素なお部屋に通された私は、まずそう思いました。

 寝具はあります。洋服棚も、テレビも、パソコンラックだって。私の想像する一介の大学生らしいお部屋と言えばらしいのですが、そのどれにも生気が宿っていないのです。

 家具は無機物です。しかし使い込まれれば、それに使用者の生気が宿ります。それはアンティークも量産品も同じです。その人固有の味が滲むのです。

 それが感じられませんでした。

 いえ、きっと竜之内さんの心の色が家具にも反映されているのでしょう。

 無色透明の、死んだように生きている彼の心の内が。

 まだ夕方だというのに窓はライムグリーンのカーテンで閉め切られ、無機質な蛍光灯が部屋を白く照らしていました。

 ガラステーブルの上に三人分の湯呑を置くと、竜之内さんは窓を背にして、私たちの正面に座りました。

 隈ができて落ち窪んだ瞳。宇佐美社長の用意した写真よりも痩せこけた頬。しきりにつくため息。バストアップの写真では分からなかった、元陸上部だったとは想像もつかないほどに細くなった四肢。彼は震える手つきで湯呑を掴みました。

「今日は、急にどうしたの? 如月さんが訪ねてくるなんて珍しい」

 か細い声で、竜之内一は言いました。

「や、私が用事あるんじゃなくて、私の友達がなんですけど。それよりも竜先輩、なんかやつれていません?」

「ちょっとね。いろいろあって」

「大学大変なんですか?」

 椿ちゃんが首を傾げます。

「そういうわけじゃないんだ。ただちょっと、プライベートな方がね」

「よかったら、お話聞きますよ?」

「そんな……悪いよ」

「井戸にでも話すと思ってください。誰かに話したら楽になることだってありますよ? 私は一応元部活の後輩ですけど、元ですしもう学校だって違いますし、他人だけど無関係じゃない。お手頃物件だと思うんですけど」

 すると、竜之内さんは出し抜けに吹きだしました。口に含んでいたお茶が気管に行ったのか、苦しそうに胸を叩いています。私と椿ちゃんが駆け寄ろうとすると、それを手で制しました。

「全く、変わってないね、如月さんは。思わず笑っちゃったよ」

 肩で息をしながら、それでも幾分か晴れやかになった表情を浮かべて、竜之内さんは笑みを浮かべました。

「そうだね。話してみるのもいいかもしれない。けど」

「他言はしません」

「わ、私もです」

 最初の挨拶以来ずっと黙っていた私も声に出して約束しました。

「ありがとう」

 そう言うと、竜之内一は一呼吸を置いてから話し始めました。

「……実は、最近誰かに見られている気がするんだ。監視されているというか、視線を感じるというか。実際に大学や高校の友人からも、知らない人がお前について聞きに来たって連絡を貰っているんだ。もうね、疑心暗鬼だよ。誰かが俺を観察している。あいつかもしれない。あの人かもしれない。怖くて仕方ないんだ。一昨日なんて、郵便受けに入っていたゴミに過剰反応しちゃったくらいでね。笑っちゃうだろ? なんの変哲もない白い紙きれが入っていただけで、布団の中で一日中震えていたんだ。ははは……俺、どうなってんだろうな」

 そう言い終えた竜之内さんは元の暗い顔に戻ってしまっていました。酷く思いつめた顔。光のない瞳はどこか虚空を捉えたまま微動だにしません。

 私はいてもたってもいられなくなって、私はその場に立ち上がりました。

 青ちゃん、と椿ちゃんが不安そうな顔で見つめています。竜之内さんは突然の私の行動に顔をこちらに向けていました。

 舌先に鉄の味が広がります。噛みしめていた唇から血が滲んでいたようです。

 私は無言のまま竜之内さんの側に寄りました。

 そして誠心誠意、頭を下げました。

「えっと、美空さん?」

「申し訳ありませんでした」

「えっ?」

「青ちゃん?」

 私は頭を上げることができませんでした。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。あの白い手紙は私が出した物なのです」

「そんな。何? じゃあもしかして君が?」

「違います! 監視をしていたのは私ではありません。ですが、一連の出来事の説明なら多分できると思います。私はそれをしに来たのですから」

 しばらくの間、私たちの間に沈黙が下りました。私はこれ以上どうしたらいいか分からず、ずっと頭を下げたままそこにいました。

 竜之内さんは私が思っていた以上に、私の投函した紙に恐れを抱いていました。私は私の投じた一石によって彼を丸一日恐怖のどん底に突き落としてしまっていたのです。自分の行動にすら責任を持てなかった私が、他に何ができるでしょうか。

「こっちを向いてもらえないかな」

 沈黙を破ったのは竜之内さんでした。

 私は恐る恐るその声に従い、顔を上げました。

「とりあえず、全部を説明してもらえるかな。君がどうしてここに来たのかも、僕がどうして見られているのかも」

 はい、と私は擦れた声で返事をしました。


 一流企業の社長である宇佐美社長のこと。その一人娘である宇佐美唯さんのこと。宇佐美社長がやろうとしている、竜之内さんをストーカーにでっちあげて娘の箔をつけようとしている計画のこと。その一端で、彼の個人情報が事細かく調べつくされていたこと。私と先生がストーカーの犯人を尾行したときのこと。そしてこのマンションに辿りついた時のこと。

 そして今日私がここに来た理由。

 二日前の夜から今日のことまでを包み隠さず、私は全部竜之内さんに話しました。

 私の話が終わるまで、竜之内さんも椿ちゃんも神妙な顔をしていました。竜之内さんはともかく、椿ちゃんは今初めて物語の全貌を把握したのです。彼女はついさっきまで蚊帳の外であったのに、突然事件の渦中に巻き込まれてしまったのです。そのことについて一抹の罪悪感を抱えながら、私は必死に言葉を繋ぎました。

「だから私は今日、竜之内さんの本心を聞きに来ました」

 そう締めて、私は一息つきました。

 隣に座る椿ちゃんがきゅっ、と私の袖を掴みました。それが何を意味していたのか、その瞬間は私には分かりませんでした。

「つまり君は、俺をストーカーだと思っているんだな」

 竜之内さんの、激情を裏に隠した、溢れ出るような怒りを伴ったその言葉を聞くまでは。

「いえ、そんな。違います。私はちゃんと見たんです。あのストーカーがこことは違う部屋番号に入っていくのを」

「じゃあ僕の所に来る前に、警察を連れてその部屋に行くべきだったろう。それがどうして、如月さんを連れてきて俺の警戒心を解くような小細工までして、ここに来ているんだ?」

「小細工なんて」

「小細工だろ!」

 竜之内さんは声を荒げました。

「そこまで情報が明らかなら、さっさとその宇佐美って奴を捕まえろよ! どうしてそれをせずに本心を聞きにきたなんていうんだ。俺の本心? 君は何を期待しているんだ。僕が本当は唯のことが好きで好きで仕方なくて、だからストーカーをやったと、実は僕が犯人だったんだと、そう打ち明けてくるとでも思っていたのか!」

「そういう風に言ったのでは」

「そうとしか取れないだろう!」

 ばん、と割れんばかりの音が空気を震わせました。見ると、叩きつけられた竜之内さんの拳を中心にガラスのテーブルの上を白い波紋が広がっています。その後から、じんわりと赤い色が流れ出しました。

「状況証拠もそろってる。俺の個人情報と言う物証だって、君が追跡したストーカーの拠点だってわかっている。その男は自白までしているじゃないか。そうだろう? 娘の価値を上げるために僕を罠にはめた。そう言っているじゃないか。なのになんで、なんで俺の所に来た!」

「だから、部外者である私たちの一存では解決できないので、それぞれの人の本心を聞いたうえで決めようと」

「一存で決められない? はっ。そういうことか。結局君たちは権力になびいているんだろう。下手に動いたら自分たちが危ないから、わざわざ当事者の俺たちに選択させて責任を押し付けようとしているんだ。所詮君たちのやっていることは逃げじゃないか。他人の痛いところを引っ掻き回して、肝心なところで責任は逃れようとする。そういうことだろう?」

「そんな……」

「もういい、出て行け!」

 竜之内さんは顔を真っ赤にして叫びました。

 責任。

 確かに私は、責任から逃れようとしていたのかもしれません。

 私は自分に責任を持てません。自分の行動が正しいのか、その信念が揺らいでしまっています。だからこそ、竜之内さんたちの心の内を聞いて最善を尽くしたいと思いました。例えそれが常識的に見てどれだけ間違っていたとしても、あるいは私個人が間違っていると思っていたとしても、それが正解だとは限らないのです。だから私は自分に責任が持てないのです。

 竜之内さんの言っていることは正しいです。私のやってきたことは、そうとしか捉えられなくて当然のことです。

 でも。

 でも一つだけ。

 これだけは伝えたいのです。

「私は竜之内さんがストーカーでないと信じていますから」

「出て……出て行ってくれ」

 形相は変えないまま、けれど苦しそうに竜之内さんは言いました。

 私と椿ちゃんは一度竜之内さんに謝ってから、彼の部屋を出ました。

 失礼しました。

 ドアを閉める直前、彼のむせび泣く声が聞こえてきました。


「私は何を間違えてしまったのでしょうか」

 自転車を押しながら、私たちは川沿いを歩いていました。陽はとっぷりと暮れ、東の空には暗暗たる闇が迫っています。

「自分一人で考えたことはあらぬ方向に間違ってしまいます。だから全員の意見を擦り合わせたかっただけなのに。……でも、そうですよね」

 私はその場に立ち止まりました。マンションを出てから終始無言で私の前を歩いていた椿ちゃんも歩みを止めます。私は地面に向かってひとりごちました。

「無責任でしたよね。責任を取れないならいっそ、最初から関わらなければよかったのに。その方が誰も傷つかなくてすみますのに」

 責任を負いたくないのなら、わざわざそこに出向かなければいい。最初から逃げ道を用意しておくくらいなら、自分を投じない方がいい。第三者を決め込んで問題にかかわるなんて、そんな失礼なことない。それでも自分を投げ入れてしまったら、そこにはあらぬ波紋が生まれてしまう。それを自分で収集できないなら、是非を問う前に無関心でいるべきだった。

 でも、見て見ぬふりなんてできませんでした。

 私が私の奥底で言うのです。

 それは間違っていると。

 うるさくうるさく叫んでいるのです。

 板挟みになって、分からなくなって、誰かに縋って、全てから逃げ出して、結局私は無責任なまま自分を投じていたのです。目をつぶって石を投げ込んでいたのです。

 私はこれから、どうすればいいのでしょう。

 先生、あなたならどうするのですか。先生はどう考えているのですか。先生は正しいのですか?

「もしかして、さあ」

 東の地平線から闇が迫ります。海に逃げ込んだ太陽を追うように、薄紫色の残光が端へ端へとのがれていきます。そしてちらりと、宵の明星が光ります。

「青ちゃんは、私が言ったことずっと考えてるの?」

「椿ちゃん?」

「私が自分の投じた一石を考える責任を持てって青ちゃんに言っちゃったから、青ちゃんは悩んでいるのかな。ていうことは、私のせいだよね」

「椿ちゃんのせいでは」

「ううん。無責任だったのは私の方だよ。まさかね、青ちゃんがそこまで考え込むとは思わなかったな。でも、あの台詞が軽いわけじゃないんだよ? 私が常々思っていることだし、大事にしている言葉だし」

 椿ちゃんは束の間の間視線を泳がせたあと、まっすぐに私を見据えました。

 そして、私に向かって歩きはじめます。

 椿ちゃんの手から離れた自転車が、バランスを失って彼女の後ろで倒れました。

「嬉しいよ。青ちゃんの中で私がどんだけを占めているのかよく分かるの。ごめんね、こんなのでいっぱいで」

「全然ですよ」

 椿ちゃんの手が私の肩にかかります。両手で両肩を押さえられて、私たちは視線を逃がすこともできないまま、近くで見つめ合いました。

「私はね、青ちゃん。真っ直ぐな青ちゃんが好き。どこまでも真っ直ぐで、言いたいことははっきり言って。嫌いなものは嫌い、好きなものは好き。それは正しい、それは間違っている。他人の顔色なんて気にしないでさ、自分の格率に沿って生きている椿ちゃんが私は好きだったんだ。ああ、この人は裏表が無い人なんだなって。信じられる人なんだなって、そう思えたから友達になれたの。

 ほら、私結構浮いているじゃない? だからそういうのには敏感だったからさ、青ちゃんみたいな子と友達になれてすごい嬉しいんだ。自然体でいられるからさ。最初はさ、少し青ちゃんのこと怖かったんだよ。歯に衣着せぬ物言いってやつ? なんでもずばずば物を言うから、いつ私のことをぶった切ってくるんだろうって、ちょっとびくびくしてた。その頃はまだ私も猫被ってたからね。

 他人の顔窺いながら、はぶられないように必死で取り繕って。でも嫌気がさしちゃった。ひょんなことから全部ばれて、それまでの人間関係おしまい! でもさ、青ちゃんだけはずっと本当の私のこと見ていてくれていたんだよね。それがとっても嬉しかった。仲良くしませんかっておっかなびっくりしながら言われたとき、ああこの人だ、って直感しちゃったもん。

 本当にありがとう。……だからね、青ちゃん。青ちゃんは、大丈夫だよ」

「私こそ」

 言葉に詰まりました。

 顔中が熱くなって思わず俯きます。

「私こそ、椿ちゃんと仲良くなれて良かったと思っています。処世術というものが私は苦手ですから。一緒にいてくれて、その、私は……嬉しい」

 です。

 恥ずかしさのあまり、私は最後までしっかりと言うことができませんでした。

「青ちゃん!」

 椿ちゃんの目に小さな光が生まれました。その光はやがて彼女の瞳から溢れだし、彼女の頬を伝っていきます。

「青ちゃんは、私のこと信じてくれる?」

「もちろんですよ」

 私は大きくうなずきました。

 椿ちゃんは少しはにかんで、

「青ちゃん。私はね、自分を信じて真っ直ぐな青ちゃんが好き。大丈夫だよ、青ちゃんなら自分の行動にくらい責任持てるって。私が言うんだから、私が青ちゃんを信じているんだから、だから青ちゃんも青ちゃんのこと信じてあげて? 青ちゃんが私のこと信じてくれているなら、私が信じる青ちゃんのことも、ね?」

 肩の手がほどかれ、そしてそれは私の背中を、体を包みました。椿ちゃんの体温が全身で感じられます。スターチスの香りがまた、私の頭に煌めきます。

「信じてる。だから、信じて」

「……はい」

「前みたいな、自分に真っ直ぐな青ちゃんでいて? 私は、この私の言葉に責任を持つよ」

 昼の光が引いていきます。水を流したようなグラデーションの紫が、徐々に蒼く暗くなっていきます。私はぽつぽつとついては消えていく微かな光を、椿ちゃんの香りを胸いっぱいに感じながら見つめていました。

「私も、椿ちゃんを信じます。責任を持って、信じてみます」

 夜空に星々が灯りはじめました。


 自転車を家の駐輪場に停めてからも、ふわふわとした気持ちは収まりませんでした。

 目の前を無数の蛍が舞っているような、まるで花畑の中を歩いているかのような、誕生日プレゼントを買ってもらった帰り道のような、少し浮き足だってでもそれが気持ちいい心持。胸の中にプレゼントを抱きしめて私は家までの道のりを歩きます。

 藍色の空は硝子の欠片を散りばめたようにちらちらと輝いていました。

 友達、友達、友達。

 心の中で三度呟きます。

 それだけで飛び立ててしまいそうな、素敵な響き。

 私と椿ちゃんはお友達です。もっとランクアップしてもいいかもしれません。ならば、私たちは親友です。

 親友。

 こそばゆくて、口にすることすら憚れる言葉。でも、素敵な言葉。

 友達の定義はどこからなのでしょうか。友達のその先、親しみ深い友の親友はどれくらい友達でいたらなれるのでしょう。

 私は友達が少ないからよくわかりません。

 大和撫子は、誰にでも優しく、誰からにも好かれ、人当たりがよくて空気が読めていつも周りにたくさん人がいる。

 それは私の目指す大和撫子ではありません。私が憧れているのはギャルではなく、乙女です。あでやかなだけの花ではなくて、地味で孤高で儚げでも、凛と美しい白百合なのです。

 崇高で、自分に厳しくて、確固たる自我を持ってそれを貫き通す。人の輪に入るために行動するのではなくて、自分らしく生きていたら自然と人の輪の中心になっている。それが真の大和撫子なのです。

 だから私は友達が少ないのでしょう。

 言いたいことは言ってきましたし、おかしいと思うことはやってきませんでした。

 作り上げた集団の中ですら自分の腹の内を見せない張りぼての仲良しグループには馴染めませんでした。時には先生にすら嫌な顔をされることがありましたが、私は自分がおかしいとは思いませんでした。私は私の生き方をして大和撫子になる。少し寂しい思いはしましたが、そうやって一七歳になるまでを過ごしました。

 そんな私を信じてくれるという人がいる。

 私は道端で飛び跳ねました。

 これほど嬉しいことがあるでしょうか。こんなに幸せなことはありましょうか。

 ないです。

 断言できます。

 自分が生きてきた一七年間は独りよがりなものではなかった。初めて自分に拠り所ができたような、そんな気持ち。信じてもらえることがこんなに嬉しいことだとは思いませんでした。今なら私、なんでもできる気分です。椿ちゃんのために、私は空も飛んで見せましょう。美空なのですから、出来ないことはないと思いますよ。勿論。

 私を信頼してくれている椿ちゃんを、私は裏切るわけにはいきません。そして椿ちゃんが信じてくれている私を、私は信じてみようと思ったのです。私が私を信じないということは、ひいては椿ちゃんを疑うということになります。

 自信を持たなくちゃ。

 自信を持って、そしてまた明日竜之内さんに会いに行こう。

 そう決意しました。

「勤勉だな。就業時間外だが報告にでも来たのかね」

 突然、幸せな気分を粉々に砕くかのように先生の声が聞こえてきました。

 はっとして、私は辺りを見回します。

 どういうことか、私は弓月探偵事務所のあるビルの前に立っていました。非常階段の二階の踊り場から先生がこちらを見下ろしています。明滅する緑の非常灯が先生をうっすらと照らしていました。

「どうしてここに」

 私は自問します。

「仕事しに来たのではないのか」

 先生がつま先で鉄製の床を叩きました。こんこんという音が夜の空気を伝わって広がります。

「私は家に帰る途中でした。自宅のある集合住宅の共同駐輪場に自転車を止めたはずです」

「そこからなら君の家の方が遥かに近いだろう。というか、普通そこから迷うかね」

「だから困惑しているのです」

 私は頭を抱えました。

 いくら浮かれていたとはいえ、何も気づかないまま陸橋を越えて事務所まで来てしまうとは。無意識に私はここを目指していたということ? まさか。そんな。

「ありえない」

「こちらの台詞だ。まあちょうどいい、とにかく上がりたまえ。明日の打ち合わせをしよう」

「明日? 明日なにかあるのですか」

「宇佐美社長と竜之内君の会談だよ。明日海浜幕張のホテルで会うことになっている。我々も同席だ」

 先生はさらりと言うと、非常階段を昇っていきました。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 私はその後を追います。

「大体宇佐美さんの方は―――」

 私が上の階に向かって叫ぶのと同時に、二階の重々しい非常扉が強く閉まる音が鳴り響きました。

「ああ、もう」

と私はひとりごち、ほぼ全速力で階段を駆け上がりました。

 事務所に入ると、先に入っていた先生がデスクに足を乗っけて座っていました。

 キッチンでは薬缶が火にかけられていて、白い湯気が甲高い音を鳴らして噴き出ています。

「美空君、コーヒーを頼む」

「火をつけて外に出ていたのですか。死にますよ」

「なんとなくね」

 先生は革椅子を揺らしながら天井をじっと見つめていました。

 私は二人分のコーヒーを淹れると、片方を先生の足元に置いて自分は応接用の椅子に腰掛けました。

 インスタントの安っぽい香りが漂います。

 先生は深くため息をつくと、唐突に口を開きました。

「竜之内君には会えたのかね」

「怒らせてしまいました」

 私は正直に答えます。

「ですから、明日また出直そうと思っていたのです」

「残念ながら、運命の日は明日だ」

 先生は私の淹れたコーヒーを手に取ると、それに口をつけました。

「安っぽい味がする」

「私のあずかり知らぬところですので」

「自分の淹れたものだろう? 責任を持て」

 先生はそう言うとにやりと笑って私を見ました。

 この人は。

 私は思いました。

 この人はどこまで知っているのだろう。

 いつもいつも、私は何も言わないのにこの人は私の考えていることを見抜きます。得体のしれない洞察力です。

「今日友達に言われたばかりです。私は自分の行動に責任を持てる人だと」

「君に友人がいたのか」

「先生よりは恵まれていると思います。……その子を裏切らないためにも、私は自信を持つことに決めたのです」

「そうか」

 先生は椅子をくるりと回転させました。そのまま後ろの窓と向かい合うと、器用に足で窓を開け、今度はサッシの所に足を置きました。

 冷たい風が吹き込んできて、カップの湯気を霧散させます。私は上着の襟を寄せました。

「宇佐美嬢だが、竜之内君のことを知らない訳ではないらしい」

「そうですか。竜之内さんも宇佐美さんのことを知っている風でした。今日会った時もそれらしいことを言っていましたし」

「昔、手紙を貰ったことがあるそうだ。竜之内君から、宇佐美嬢へのラブレターを」

「それって」

「彼女が封を開ける前に、お父様によって捨てられたそうだ。その後すぐに彼女は一人暮らしを始めて……」

「それからも手紙はずっと来ていて、ということですか」

 それが竜之内さんの書いたものという証拠はないですが。

「彼女も半信半疑だったそうだよ。でも、父親に中身は見ないですぐ捨てろと言いつけられていたらしいからね。真相は全部闇の中というわけさ」

「竜之内さんは手紙のことなんて一言も」

「聞き方が悪かったのだろう。彼にも少しは負い目があっただろうしね」

「私は最後まで竜之内さんを信じていると」

「君は自分の道を行けばいい」

 先生が私の言葉を遮って、そう言いました。

「それが正義なのか、それとも不義なのか分からなかったとしても、とりあえず自分を信じて突き進め」

「先生」

 私は、先生が何のことを言っているのか分かりませんでした。

「信じた道は、確固たる意志を持って真っ直ぐに歩んだ道は間違いにはならないはずだ。誰かが認めてくれる。誰もがゆるぎない何かに縋りついていたいと思っている。その道を、君は作りながら歩いて行けばいい。君らしくいればいい。だから明日僕が何をしても、君は君自信の道を行け」

「それは、先生が明日何かをしでかすということですか」

「さあね。しかし、手のひらで踊るだけで終わらせるつもりはない。シナリオ通りではつまらない。いいストーリーは、いいアドリブが作るのだ」

 先生はまたくるりと向き直り、引き出しの中から煙草とライターを取り出しました。

 私は自分の飲んだカップを流しに運ぶと、そのまま玄関に向かいました。

「明日は一五時だ。場所はおって連絡する」

 煙が秋風に乗って流れていきます。私は先生の背中に向かって頭を下げると、重い非常扉を開けて外に出ました。


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