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アイデンティティの在り処  作者: 日笠彰
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アイデンティティの在り処 4

 車に乗っていくかい? と先生は私に声を掛けました。

 先生が運転できたなんて初耳です。免許証、つまり身分を証明できるようなものを持ち合わせていたとは思いもしませんでした。

 身分があったなんて。

「失礼なことを考えていないかい」

「よくお分かりで」

「言ったろう。君の考えていることは手に取るようにわかる」

「セ……、変態」

「なんとでも言いたまえ。で、どうするのだね」

 私は少し考えた後、首を縦に振りました。

「よろしくお願いします」

「ではちょっと待っていてくれ。すぐ呼ぶから」

 そう言うと先生は内ポケットから携帯を取りだしてどこかに電話をかけ始めました。

 呼ぶということは、つまり運転手がいるということでしょうか。

 確かに、事務所の駐車場には車がありませんし、先生が運転しているところを見たことがありません。お抱え運転手がいるというのは妥当な線です。それにしても、使用人を雇えるほど先生がお金を持っていたとは。それとも、今回の仕事の前金で急きょ雇ったのでしょうか。

「さて、ロータリーに行こう。そこに迎えに来てくれるらしい」

 電話を終えた先生は率先して出口に向かいました。私もその後に続きます。

「意外です」

「何がだね」

「先生にお抱え運転手がいたことです」

「僕に? まさか。そんなものいないよ」

 先生は肩を竦めました。

「えっ? でも今電話で」

「美空君は何かを勘違いしている」

 喫茶店の外に出ると、もう夕焼けが差し込んでいました。北口は一層異国情緒を醸し出し、やっぱりリコーダーを持ったおじいさんが前代未聞の曲を奏でています。コンコースは帰宅途中の人でごった返し、それを怪しげなビラを持ったお兄さんたちが捕まえようとしています。大きな箱を抱えてはっぴを着こんだ、一人でお祭り騒ぎな男性が女子高生に声をかけていました。

 待ち合わせスポットのはずだった女性のブロンズ像の周りでは喫煙者たちが紫煙をくゆらし、その向かいにある駅周辺の地図の前では携帯を片手に若者がたむろっています。雨と煙によって地図を覆うガラスは煤汚れてしまい、そこに夕日が当たって鈍い光を反射させました。

 がやがやとした人込みをまっすぐ抜けてカフェと反対側の階段を降りると、見慣れた黄色い車体の車が目の前に滑り込んで来ました。自動で後部座席のドアが開かれます。

「さあ乗りたまえ」

 タクシーでした。

「タクシーではありませんか」

「自家用車とは一言も言っていない」

「普通車に乗っていく? と聞いたらそっちを連想しますが」

「そもそも僕が車を持てる富裕層だと思うのかい」

「さっきまでそれが不思議でしょうがなかったです」

 先生、私の順で乗り込むとタクシーの運転手さんは目的地を聞いてきました。先生が流暢に住所を告げると

「近いね」

 と一言だけ呟いて、ゆっくりと車を発進させました。

 一時的ということなら、この運転手さんもお抱えに変わりはないと思うのですが、少し拍子抜けです。まあでも、歩いて帰らずに済んでよかった。

 お尻の下で回るタイヤの動きを感じながら、窓ガラスにもたれかかります。タクシー特有の、かび臭くない、消臭剤の香りが妙に落ち着きました。

 結局、先生は手紙のことを話しませんでした。私たちが昨晩特攻をかけたことも。おそらく、切り札として忍ばせておくつもりなのでしょう。私はうつらうつらとしながら今後の展開を考えていました。

 宇佐美社長は竜之内さんを娘さんの踏み台にするつもりです。あの人は、人を自分たちのために使う道具としてしか見ていないのです。でなければ、あんな冷たい目を持てるはずがありません。

 そんなこと、させてはいけません。

 とりあえずは、竜之内さんに会うことが先決でしょう。彼の身の潔白さえ証明できれば、そもそもこの一件は水の泡になるはずです。あとはどうにか宇佐美社長の計画を切り崩していって……。

「先生」

「なんだい」

「宇佐美社長はこのあと、どういう筋書きにするつもりなのでしょう」

「予想の域をでないわけだが」

 先生はそう前置きしました。

「娘に箔をつけると言っていたからね。きっと竜之内何某(なにがし)を宇佐美嬢のストーカーに仕立て上げたあとは、マスコミにでも垂れこむのだろう。皆下世話な話が大好物だからね。一も二もなく食いついてくる。あとは、ほっといても宇佐美嬢の名前は有名になる」

「被害者のプライバシーは守られるのでは」

 それだけのことで、宇佐美さんの女としての価値が上がるとは思えませんでした。このような犯罪まがいのことをするより、もっと花嫁修業に精を出した方がよっぽど女として格がつくでしょう。価値とか格とか、そういうレッテル付けをされることが幸せとは到底思えませんが。

 大和撫子は心から成るものなのですから。

「ネットがあるだろう。それに、あの宇佐美社長に婿入りする男だ。無論上流企業の重役なのだろうし、こっそりと身元調査だってするだろう。男には二つの矛盾する欲と言うのがあってね、自分だけが分かるというと特別感、高嶺の花を自分だけが所有できるという独占欲は背反するけど、同時に存在するものだ。私だけのものであってほしい。けれど、他の人に羨ましがって欲しい。こういう風にね」

「人の目を気にするような恋愛は、本当の恋愛じゃありませんよ」

「そうだろうね。これはただの政略結婚だ。男女の絆などありゃしない。男はただ、肉欲を満たしたいだけで、社長は権力が欲しいだけで、宇佐美嬢は―――本心は分からないけれど―――お金が欲しいだけだ」

「不潔です」

 私は吐き捨てるように、そう言いました。

「そのようなことのために竜之内さんを犯罪者にするなんて、絶対にさせません、よ……」

 本当にそれでいいのでしょうか。

 この問題は、私が口出しをしてもいいものなのでしょうか。

 もしかしたら、宇佐美社長は本当に唯さんのことを思っているのかもしれません。娘を本心から大切に思い、その上でいいところに嫁がせようとしているだけなのかもしれません。宇佐美社長は見るからに、娘との付き合い方が苦手な典型的なお父さんです。だから、娘の幸せを願う行動が少し空回りしてしまう。不器用なために、今回のような行動に走ってしまっただけかもしれません。

 宇佐美さんも、本当は幸せなのかもしれません。私たちが考えているのは結局一般論でしかなく、自分の価値観の押しつけです。だから正義の旗を振りかざしたところで、彼女にとっては有難迷惑にしかならないのかもしれない。彼女の幸せは、彼女の持つものさしでしか計れないのですから、私たちがそれをどうこう言う権利なんてないのです。私と違うものさしを持っているからといって、それが悪いことだと言えるわけがないのです。そんなわけがないのです。

 だから私たちは、本当は邪魔をしてはいけないのかもしれない。

 でも、それでは、竜之内さんは?

 自分の投げた一石に責任を持つ。生まれた波紋がどう波及するか、それを見極めてから動かなければならない。どんなに小さな影響も、行く行くは大きな変化につながるかもしれない。蝶の羽ばたきが砂漠に竜巻を起こすような例え話もあります。

 私は私に責任を持たなければならない。

 けれど、私は自分に責任を持てません。

 自分の正義が正しいのか、貫いていい物なのか、もしかしたら私の信じる正義は世にいう悪なのではないか。迷ってしまうのです。

 けれど。

 だけど。

 どうしても思ってしまう。

「こんなの、間違っていますよ」

「分かっている。だから、確かめるのだよ」

 自分と相手を擦り合わせればいい、いわば自己のチューニングだよ。

 先生は私の頭を撫でながらそう言いました。

 ノー、ギルティ。


 事務所の前で降ろされた私は、とぼとぼと陸橋を越えていました。家路の途中です。地平線の向こうに夕日が沈み、線路や枕木を朱色に染めています。

 トラックが走るたびに陸橋がたわみ、足元がふわりと揺れているような気がしました。電車の到来を告げるアナウンスが下にあるホームから聞こえてきます。ほどなくして、私の真下をミニチュアのような電車が走り抜けていきました。

 私は陸橋の真ん中で、柵に寄り掛かりながらぼうっと景色を眺めていました。

 幕張本郷の駅はその筋の人には有名だそうです。車両センターがあるために何本もの線路が交差しながら長く伸びていて、誰も乗っていない車両が扉を開いたまま止まっていることもままあります。箱が一個だけ線路に乗っかっていたり、電動の工具の音が聞こえてきたりすることもしばしば。

 私は鉄子ではないのですが、このジオラマのような風景が好きでした。

 幕張本郷は古さと新しさの混じった、フルーツ牛乳のような町です。

 駅周辺は高層マンションが立ち並んでいますが、そこから少しでも離れたら少し古臭い町並みが広がります。中学校はぼろぼろですし、坂の向こうは畑が広がっていますし、小学校の横にある金色のすすき野原は子供たちの秘密基地でいっぱいです。お墓に囲まれたお寺には住職さんのスポーツカーが止まっていて、そこから目と鼻の先にある子守神社の鳥居は最近塗り直されました。鳥居の真横を地下通路が走っていて、線路の下をくぐって自転車や人が反対側に行けるようになっています。

 毎年九月には子守神社でお祭りがあり、神社の前の道路の端から端までを縁日が埋め尽くします。三日に渡るそれは大盛況で、この町のどこにこんな人がいたんだと思うくらい人が集まってきます。

 騒がしくて、静かで、どんどん進化していく町。

 津田沼と幕張という進んだ都会に挟まれて、それでも田舎臭さを忘れない町。だからこそ、安心感があるのです。懐かしさがあるのです。フルーツ牛乳はいつまでたってもフルーツ牛乳で、小さい頃飲んだ味は大人になってもそのままです。

 帰ってくる場所があると、どこにでも行けるのです。

 どうしたい?

 私は私に問いかけました。

 間違っていることなら、どうにかしたいです。

 私は答えます。

 それは本当に間違っているのでしょうか。

 私にはまだわかりません。人のものさしに是非を言えるほど、私の正義は確かなものではありません。

 まだついていくだけでもいいでしょうか。

 子供の私は分からないのです。でも大人なら分かるかもしれません。

 大人は私より長く生きています。大人のものさしは、私の物より絶対的な尺度を持っているはずです。

 頼ってみよう。

 そう思いました。

 私の中で、先生の株が上がっています。

 最近なんだかおかしいです。

 

『竜之内何某と宇佐美嬢に会う必要がある。彼らの本心を知らなければ、僕らは本当に悪者だ』

「馬に蹴られて死んでしまえと言いますものね」

『このご時世馬が走っているとは思えないが』

「車のこと、鉄の馬ってよく言いますよね」

『不吉なことを……』

 電話越しの先生の声が震えていました。

 今、学校は清掃の時間です。

 通話を終えて早急に廊下の掃き掃除へと戻りたい私は、手早い説明を要求しました。

『かいつまんで言うとだな、僕は宇佐美嬢、君は竜之内何某を頼む』

「何を言っているの理解しかねるのですが」

『今日家庭訪問に行ってきてくれ。配役は今言った通り』

「いきなりすぎます。それに、どうして先生が宇佐美さんなのですか? 二人で一緒に一件ずつ回ればいいじゃないですか」

『面倒だ。それに僕は竜之内何某と無関係だが、君は違うだろう? 文通した仲ではないか。では、任せた』

 反論の隙も与えず、先生は電話を切りました。私はまだ何か言ってやりたかったのですが、機械音しか発しない電話に叫んでも暖簾に腕押し糠に釘です。私もそこまで馬鹿ではありません。思い切り強く携帯をたたんで折り合いをつけることにしました。

 配役に不満しかありませんでした。

 先生に下心があるような気がしてなりませんが、証拠もないのに疑うのは失礼です。

 言いたいことはまだあります。

 私と竜之内さんはペンフレンドではありません。確かに手紙のようなものを出したことはありますが結果的にそうなっただけであって、あれは白紙のただの紙でしたし、そもそも出してこいと言ったのは先生です。

 一方的に切りやがって。

 でもいいです。おかげで思い出したこともありますし。

 そうなのでした。私はあの夜のことを彼に謝らないとなりません。

 彼は私の投函した紙切れを、一体どのように捉えたのでしょう。ただのゴミと思ってぽいと捨ててくれればいいのですが、万が一にも深読みしていたら大変です。今頃火であぶるなり、日に向けて透かすなり、擦って熱を加えるなど試行錯誤しているに違いありません。

 やはり説明しなければ。

 私が突如湧き出た義務感に燃え上っていると、背後から椿ちゃんが呼びかけてきました。

「あーおーちゃん!」

 私をこう呼ぶ友人は少ないですし、それ以前に私は友人が少ないですし、こうやっていきなり背後から抱きついてくるようなスキンシップを取る友人は椿ちゃんしか心当たりがありません。

「危ないですよ」

「だいじょうブイ。ね、今日一緒に帰ろうよ!」

「あれ? 陸上部の方は……。ああ、テスト期間でしたね」

「そゆこと」

 我が校の秋の中間テストは三日間に渡って行われます。夏休み明けであることに加えて時期も中途半端であるために科目自体は多くありません。せいぜい五教科が関の山です。その分テスト前の部活動停止期間も短いのですが、ほぼ帰宅部状態の私にとってはあまり関係が無いのでした。

「帰りたいのはやまやまなのですが、少し野暮用が入ってしまいまして」

「ありゃ? 仕事?」

「ええ、まあ」

「それ、私もついて行っちゃだめ?」

 椿ちゃんが私のほっぺに頭をぐりぐりとこすり付けてきました。シャンプーのいい匂いが私を埋め尽くします。甘い香り、何かのお花でしょうか。

「いい匂いですね」

 私は椿ちゃんの綺麗な髪に顔をうずめます。

「そう? そう言ってもらえると嬉しいな」

「花の匂いですか? 嗅いだことあるような」

「これはね、スターチスなんだ」

 椿ちゃんはゆっくりと、大事なことを明かすかのようにそう言いました。

「よかったら今度シャンプー貸してあげるよ。部室にも予備があるしね」

「是非」

「うん。それじゃ……って、危ない! 騙されるところだったよ。仕事! 私も連れて行ってよね」

 椿ちゃんはさらにきつく私を抱きしめてきました。甘い香りが胸いっぱいに広がっていきます。

 私は大いに悩みました。

 果たして、連れて行っていいのでしょうか。

 実際、竜之内さんは陸上部で私の二個上の先輩であったようですし、元陸上部である椿ちゃんが一緒だったほうがアポは取りやすいと思いますが、あくまでも椿ちゃんは部外者です。それどころか、先生と私も今はまだ竜之内さんとは他人なのです。ああでもそう考えるとやはり椿ちゃんの助力が必要ということに。

 思考は堂々巡りになりました。

 その間椿ちゃんはずっと抱き着いていて、そのために甘い花の香りが私の思考をどんどん乱して行き―――。

 で、結局。

「では、お願いします」

 ということに。

「ところで、私は自転車で行くつもりだったのですが、椿ちゃんは今日も電車通学を」

「ん? そうだけど。ていうか、青ちゃんも電車通学だったよね」

「最近自転車通学に変えました。いいですよ、朝は風が気持ちいいですし」

「……あー、そっか。そうだね。私も今度からそうしようか、な?」

 ぴょん、と椿ちゃんが私から離れました。

 こういう時、気の合う友人がいてくれると楽です。

 別に避ける話題でも、思い出したくない過去というわけでもありません。でも、言わなくていいのなら、必要が無いのならあの朝のことはずっと仕舞っておきたいと思っています。だから、おそらく気付いているのに言及してこない椿ちゃんが、とても大事に思えました。

「困ったな。私自転車どうしよう」

「押して行きますよ」

「目的地って遠いの?」

「えーと」

 私は竜之内さんの住居を思い浮べました。確かそこの若葉街道を抜けた先の、さらに川の向こうだったはずです。

「少し距離はありますが歩けない距離ではないですね」

「あ、じゃあちょっと待ってて!」

 そう言うと椿ちゃんは風のように駆けだし、勢いよく階段を上がっていきました。今のは三段飛ばしに見えましたが、錯覚ですよね? 

 椿ちゃんの足音が聞こえなくなった頃、私は思い出したように掃除を再開しました。体に纏ったシャンプーの残り香を払ってしまわない様、懇切丁寧に床を掃きました。

 駐輪場集合という旨のメールが届いたのは、私がちょうど掃除を終えた時でした。外履きに履き替えて校門の近くの駐輪場に向かうと、マウンテンバイクにまたがった椿ちゃんが快活な笑みを浮かべて待ち構えていました。

「男子の友達に借りたー」

「椿ちゃんクラスになると男子と物の貸し借りができてしまうのですね」

 私はほとほと感心してしまいました。

「いやそういうわけでも。青ちゃんも顔は可愛いんだからさ! で、性格もバッチグーなんだからもっとみんなと話せばいいのに」

「私は少し、そういうのが苦手で。それに友達は椿ちゃんがいますし」

「それ言われると私としては何も言えなくなっちゃうんだよなー」

 にへへ、と椿ちゃんは笑みをこぼしました。

「さ、行こう?」

 自分の自転車を探し出した後、私と椿ちゃんは並んで学校を出ました。正門から左手に曲がり、川へとひたすらに伸びる並木街道の中をのんびりとサイクリングします。

 紅葉はまだ先ですが、寒くなればここら一帯の銀杏も全て枯れ落ち、地面には黄色い絨毯が敷かれることでしょう。その上の自転車で走ることが、今ひそやかな楽しみになっています。

「冬になったら銀杏臭くていやだなあ」

 椿ちゃんがぽつりとつぶやきました。

「おすすめデートスポットなのですよね? 銀杏の並木道を歩く恋人たちというのは、とても絵になると思うのですが」

「そうだけどー。臭いと雰囲気が出ないと思う。まあ、その前に彼氏ですけどね」

「確かに」

「青ちゃんはいるじゃんかー。あのバイト先のせんせいが」

「ないです」

「うん、ごめん、そうだね。だからそんな怖い顔しないで」

 椿ちゃんがゆっくりと私から離れていったので、さりげなく幅寄せしてみます。

「当たる当たる!」

 いやあ、と笑いながら椿ちゃんは減速。後ろから反対側に回り込み、私の自転車のハンドルを掴みます。そのままお互いのハンドルを握ったり、前に行ったり後ろに行ったりしてじゃれ合いながら並木街道を走り抜けました。

 街道が終わると、今度は川に沿ってしばらく走ります。国道まで行けば川の反対側に渡れるようになるのです。

 引き潮で水嵩の減った川を鴨の親子が走っていきます。コンクリートでできた堤防には水面のあった場所を示すかのように緑色の苔が生し、川下からはほんのりと磯の香りが漂ってきていました。傾きかけた夕日が真っ黒な水面を怪しく照らし、ふとした拍子に反射光が私の目に刺さりました。

 目的のマンションはもう見えています。

「その、会いに行く人ってどんな人なの? というか、何やらかしたの」

 両肘をハンドルに置いた状態で器用に運転している椿ちゃんが、私に尋ねました。

「竜之内さんという、陸上部の先輩なのですがご存じないですか」

「ああ、竜先輩か! えっ? あの人何したの」

「いえまだ何もしてない、はずです。それを確かめに行くのですが」

「ふーん。あの人はいい人だよ。私もよく構ってもらったし。いやぁ、よかった知ってる人で」

「私もおかげで会いやすくなりました」

「ん、任せといてー」

 間延びした返事と共に、椿ちゃんはペダルを踏み込みました。

 川は国道とぶつかり、コンクリートと車の波が川に覆いかぶさります。私たちは橋を渡りきると、今度は川下へ走っていきます。

 数分も走らせると、目的のマンションに到着しました。

 来客用の駐車場と言うのは高級マンションには必須なのでしょうか。そこに自転車を止めた後、私たちはロビーへと入りました。

 自動ドアが開くと共に、やはり気持ちのいい風が吹き出してきました。

 一歩足を踏み入れた後、私はきょろきょろと内装を見回しました。

 つい一昨日来たばかりなのに、あの時とはずいぶん違って見えます。ロビーはこんなに広かったでしょうか。照明はこんなに強かったでしょうか。私の心臓の高鳴りはあの時と一緒です。鼓動がうるさくて、自分が緊張しているのが嫌と言うほど分かります。

 深呼吸して気持ちを落ち着かせました。

 手のひらに人の文字を書きながら、今日の目的を反芻します。

 まずは事実確認。

 その前に私の投函した紙のことも謝っておかないと。

 次に彼の本心。

 本心って、もし彼が宇佐美さんのことを好きだったらどうすればいいのでしょう。

 あとは宇佐美さんのやろうとしていることも話しておかないと、いざと言うときに竜之内さんが困惑してしまいます。それも説明しましょう。

 確認。謝罪。確認。説明。

 よし。

 私は横にいる椿ちゃんに向けて頷きました。椿ちゃんも、それに応えて頷き返してくれます。

 そういえば、これが先生と別れて行う初仕事です。いわば私のデビュー戦。

 そう思った瞬間、なぜか気持ちが楽になりました。

 今思えばそれは単に、いつもと違う状況に浮き足立っていたのかもしれません。

 そのことに気付かない私は、軽い気持ちで竜之内さんの部屋番号を押しました。

 あの夜と同じ、りりりん、りりりんという鈴の音が機械から鳴ります。私はじっと待ちました。

「あっ、私が出るよ」

 椿ちゃんは慌てた様子で私を追いやりました。

 やや間があって呼び出し音が止まり、スピーカーから弱々しい男の人の声が聞こえてきました。

『……はい』

「あ、先輩。私です。如月ですけど―――」


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