アイデンティティの在り処 3
駅前で椿ちゃんと椿ちゃんのお母様にお礼を告げました。
津田沼駅南口のバスロータリーから、陸橋を昇ってそのまま駅を通り抜けます。
駅の改札内側から見て左手、北口から外に出るとちょっとした空中広場が目の前に広がります。陸橋の上に設けられた広めの空間は路上喫煙の温床、もしくは路上ライブのメッカです。一週間の半分以上は誰かしらが自らの夢を演奏しています。うち三日はギターやピアノによる弾き語り、残り二日は遠い異国の民族歌謡が夜の駅前を彩ります。聞いたことも無い言葉がリズムを刻み、夕方にはリコーダーを持った白いひげのおじさまがどこからともなく現れて、小学校や中学校では習わないような高度な演奏を披露し、怪しいインド料理の店員さんが拙い日本語で客引きをしていることもあります。夕方の北口はカオスそのものです。これが反対側の南口になると小奇麗にまとまっているから不思議なものです。
目の前に陸橋と連結したパルコが、右に降りると京成の駅と若者の商業街、左に降りると夜の闇が似合う飲み屋街があります。北口の混沌な空気は左手の飲み屋街から流れてきているのかもしれません。きらびやかで派手なのにどこか寂れている看板が随所にぶら下がる大人の街は、まだ私には早い界隈です。
今日も今日とてリコーダーおじさんの演奏を遠くに聞きながら、私は北口を出てすぐにあるフランチャイズのカフェに入りました。
外の喧騒に反して店の中は閑散としていました。入口手前に注文口があり、大学生くらいの女性が暇そうにしていました。ずらっと奥に向かってテーブル席が並んでおり、仕事終わりのOLさんが三人、窓際のボックス席でお茶をしているだけで他にお客さんはいないようです。
店の天井ではくるくるとプロペラが回っていました。
レジにてカフェラテを購入した私はそのまま店の奥へと進みます。
陰気で非社会的な人が公共の場で目立つところに座るはずがありません。
案の定、先生は隅っこのボックス席に縮こまるようにして座っていました。
「学校はどうだった」
「どうもなにも、普通ですよ」
私は先生の隣に腰掛けます。後から宇佐美さんのお父様がいらっしゃるのでこれは当然の配置なのですが、傍から見ると少しおかしな光景であったかもしれません。奥の席でよかった。先生が陰気な性格で大変よかった。
「宇佐美さんは五時半にくるそうだから、時間通りならあと十分くらいでつくはずだ」
「呼び出したのですか? 呼び出されたのですか」
「お呼び出しだ」
先生は小脇に抱えていた封筒から書類を抜き出しました。内容を拝見すると、昨晩私たちが突き止めた五〇一号室についてのことがざっと記されていました。
簡潔に言うと、調べられないということが調べた結果判明した、そういう風に書類は書かれていました。
五〇一号室の名義は一見確かなものでした。部屋の住民は伊能忠敬と言う冗談のような名前の人物ですが、実際にいたようなのです。住民票にもちゃんと登録されていて、先生はちゃっかりと伊能忠敬の履歴書まで押さえていました。どこでこういう情報を手に入れるのでしょうか。
伊能忠敬はごくごく一般的な顔立ちをしていました。日本人特有の平坦な顔に黄色い肌。履歴書に写るその顔は特徴が無さすぎてすぐに忘れてしまいそうです。
確か文学作品でこのようなものを読んだ気が……。
そうです、人間失格の冒頭部分です。
ですが伊能忠敬は彼ほど美形ではありませんでした。
彼は現在独身、高校を卒業するまでアメリカで過ごし、卒業と共に帰国、その際大企業に勤める一般家庭の養子として引き取られます。その後建設会社、住宅企業、林業ときて最後に名のある三ツ星ホテルに経理として入社。全て私でも名前を耳にするような会社で、コネや天下り的なものを感じ得ません。
それもそのはず、伊能忠敬を養子にとった男性は最初に彼が務めた建設会社の社長をしており、しかもその後彼が渡り歩いた企業すべてが系列していたのです。
まさに現代の財閥。世の中にはこのような話があるのだなと素直に感心してしまいました。
そしてその元締め的存在というのが、宇佐美さんのお父様が経営する金融企業だったのです。
「先生……これは」
「関連子会社と言っても、別に特別な関係は無いとは思うけれどね。単純に、世界は狭いという話さ」
「でもこんな偶然ありますかね」
「恋に落ちた人が従兄弟で、それがしかも許嫁だった! とかよりはよほど現実的であると僕は思うよ」
「確かに。私たちは従兄弟同士ですけれど絶対にそんなことありえませんものね」
むしろ血縁関係すら抹消したいです。
「従兄弟という事実すら否定したいね」
意外なことに、相思相愛でした。
こういう場合も使えるのでしょうか。
お互い嫌っているという点において。
「好きになった人が偶然義理の父親のはるか上の上司の娘だった、というわけだね」
「歪な愛情ですけれど」
調書にはまだ続きがありました。先生は各企業に電話をしてまで伊能忠敬の来歴の裏を取った後、今度は逆走、養子に引き取られる前のことを調べたようです。
そしてその結果が。
「調べても調べられないことが、調べて分かった」
「ややこしいです」
調書は戸籍に辿りついてはいませんでした。
「彼は見るからに日本人だが、その確たる証拠が無い。出生の記録も、戸籍も見当たらない。養子縁組のとこからはじまっている」
「そのようなことができるのですか」
「実際に目の前にあるのを見ると、できるのだろうね」
先生はコーヒーに口をつけました。
「まあ、あとは宇佐美さんが来てからだ」
約束の時間まで、あと七分ほどです。
私も自分のカフェラテを一口飲みました。
砂糖を入れてくればよかったかもしれません。
口いっぱいにほろ苦さが広がっていきました。
私は生唾を呑みこみます。
苦味がゆっくりと私の中へ落ちていきました。
覚悟、です。
「先生、あの」
「なんだい」
先生は片眉をあげました。ぼさぼさの前髪から覗く目はしょぼくれていて、これを作るのに努力をした痕跡が見受けられます。
今ならちゃんと言えるような気がしました。
「私いつも、先生のことを痴漢などと言ってしまい、すみませんでした」
自分の前に置かれたカップのくるくると回るマーブル模様を凝視して、先生の気配を真横に感じながら、私は深く頭を下げました。
一秒……二秒……。
呼吸すら申し訳ない気がして、私は私の出来うる限りの謝罪をしようとしました。
私の思慮に欠けた一言が、先生を無実の罪で投獄してしまうかもしれなかったのです。
普段何気なく言っている言葉に、急に重みを感じたのです。
今朝の出来事を、椿ちゃんの優しさだけで包んで終わりにしてはいけないと思ったのです。そこがどんなに居心地の良い場所でも、少し顔を出して向かい合わないといけないのです。
緊張が伝わってきます。
ぴりぴりとしたその空気が、先生のため息ひとつで弛緩しました。
「ふむ、殊勝な心がけだ。明日は雨かな」
「私は―――」
ゆっくりと顔を上げました。圧し掛かる重圧が先生と目を合わせようとする私の首を、それでも捻り潰そうとしてきます。
「―――私は真剣に謝って」
ぽん、と先生の手が私の頭に触れました。
その途端、私を押しつぶそうとしていた圧力がぱっと消え去って、代わりに先生の手の重みだけが頭に感じられました。
椿ちゃんとは違う、先生の手。
「お疲れ様」
先生はただ一言そう言って、私の頭をよしよしと撫ではじめました。
解雇くらいは覚悟していました。名誉棄損で訴えられることまであるかもしれない、と頭の隅では思っていました。でも、もしかしたら許してもらえるかもしれないと甘ちゃんな私はうっすらと考えていました。
子供だったのです。
だから先生のその一言は、私が都合よく自分勝手に想像していたどんな許しの言葉よりも、私の心に堪えました。
赦しでも、罵倒でも、蔑みでもない、労いの言葉。
きっと先生は全てを見ぬいているのでしょう。
私が謝るに至った経緯を察してくれ、それでなお、その言葉を選んだのでしょう。私の全てを包み込むようにして、上から優しく、大人な振る舞いで。
私は結局、まだ子供なのです。
先生はやはり、大人なのです。
ふぅ、と私は息を吐き出しました。吐息の中には、私の中で渦巻いていた幾多のもやもやが混ざっていることでしょう。すっきりしました。
すっきりしたところで、私の心はある一つの感情に支配されていました。
心の奥底に突然生まれた一つのきっかけは、どんどん周りを巻き込んでその炎を大きくしていきます。
ああ、そうか。
これが、怒り。
「セクハラです、先生」
「なんで! そういう流れだったろう」
それとこれとは話が別です。
無実の罪で糾弾することはもうしませんが、言い逃れの出来ない有罪なら話は別です。
ギルティ。
「仕事にしましょう」
時計の針は五時半を指そうとしているところでした。
これでいつもの私に元通り。
仕事、仕事です。
その人は五時半きっかりに店を訪れました。
黒のダブルスーツはウエストをきゅっと引締め、服の下に隠れているであろう厚い胸板を強調しています。糊の利いたワイシャツに紫色のネクタイがセクシーに艶めき、ポマードで固めた髪は年齢を思わせない若々しさと危険な香りを漂わせています。革靴の底がこつこつと床を叩く音に合わせてレジの女性が目を瞬かせ、その行く先を見守っていました。目で追うのは、レジで注文をせずに席に座ろうとしているからかもしれませんが、彼の行動に迷いは無く、むしろ確固たる自信が満ち溢れ威風堂々としていました。
貫禄。
その一言に尽きます。
場違いです。場違いの大物です。
「待たせたかね」
その人は私たちの所に来ると、コントラバスを思わせる低くて重厚な声で言いました。言葉の上では待たせたと言っていますが、本人は微塵もそうは思っていないことが見てとれます。
背丈はそれほど高くないはずなのに、その身体つきと纏う雰囲気から、遥か高みから見下げられているような圧迫感を覚えました。
「いいえ、時間ちょうどです。恐ろしいほどに」
「そうか」
渋い。
渋すぎる。
……かっこいい。
宇佐美社長は私たちの前にどっしりと腰掛けました。
「私のことは分かっていると思うが、礼儀として見せておこう」
言いながら、宇佐美社長は胸元からステンレスの名刺入れを取り出しました。定期入れくらいの大きさしかない、薄い名刺入れです。果たして、中にはたった一枚の名刺しか入っていませんでした。
その代り、とびっきりの装飾を施した一枚です。
「わ、綺麗……これって、クリスタルですか」
「本物の名刺だね」
先生はいつの間に付けたのか革の手袋を装着して名刺を頂戴しました。
「本物」
「昔の貴族とかはね、名刺を大量には刷らないで、少数を凝った造りにしていたのだよ」
昔はね、と先生は囁き声でそう続けました。
今時、時代錯誤も甚だしい、そう言いたげです。
「さすがですね」
私は声に棘を含ませて先生を見ました。時代遅れや最先端など、所詮は流行という枠組みの中でのみ有効な話です。たとえどんなに古臭くても、未来を先取りすぎて妙な格好になっても、我を貫き通すならそれは恥ずべきことではありません。
つまり宇佐美社長は格好いいのです。
「お返しします。ええと、僕は普段名刺を持ち歩かないのですが」
「結構、君たちとはあと一度しか会わない予定だからな」
「はぁ」
先生の指がぴくっと跳ねました。
「それにしても、待ち合わせ場所はここでよかったのですか」
「どうしてだ?」
宇佐美社長は先生を上から下に、舐めるように観察しました。そして、小さく鼻を鳴らしました。
「ぴったりじゃないか」
「社長が来るには、些か不釣り合いな場所かと」
「……私のポリシーは適材適所というものでね。それ相応の人物にはそれ相応のポストに。格の高い人間は彼に相応しい場所がある。格の低い人間にも適した居場所がある。それぞれがそれぞれの場所にいることが、この社会をうまく循環させる秘訣だ。そして私は、その場所を与えるに足る高いカーストにいる」
宇佐美社長は口角を引き締め、淡々と述べました。深く響く彼の声には説得力があります。私は思わず、なるほどと相槌を打ってしまいました。
「つまりカーストの低い僕はそこらの大衆カフェがお似合いであると。そういうわけですね」
先生は笑顔を崩しません。
「物わかりの早い人間は好きだよ」
「どうも」
表面上は人当たりよく接している先生ですが、先ほどから机の下でしきりに指を叩いています。相手の腹の内を探ろうと、言葉の裏に皮肉を込めた水面下の争い。ですが、宇佐美社長にとって先生は小物のようです。相手にすらされていないな、と私は先生に同情します。
「もし僕が名にし負う探偵だったとしたら、もっといい場所に招待されたのでしょうね」
「東京に行きつけの会席料理屋があるが、そこに連れて行ったかもしれないな」
「とても残念ですよ」
ぎゅっと、爪が食い込んでしまうのではと私が心配してしまうほどに、先生は拳を固く握りしめました。
「世の中には二種類の人間がいると私は思っていてね」
空調の流れが変わったのか、風に乗って宇佐美社長のオーデコロンがコーヒーの香りに混じって届いてきました。胸の奥がちくりとするような、そんな香り。
「人間は高位と低位の二つの位に分けられる。能力の高い者には、彼にとって役不足な職場を与えてはいけない。向上心や対抗心を失った人間は堕落する一方だ。彼に与えられるべきは、自身を切磋琢磨させ得る難易度の高い仕事だ。逆に、低位の人間に、その人物のキャパシティを越えるような仕事を与えてはいけない。立ちはだかる壁は、適度な高さなら彼を成長させるが、果ても見えないような絶望的な状況はやはり彼を堕落させる。いくら努力したところで結末が見えているのならば、人間は努力をやめてしまうからだ」
「そのようなことはないと思いますよ。踏破できっこないと思われていたエベレストの山頂にだって人間は旗を立てて見せた。見上げるだけだった月の世界に、足跡を残すことだってした」
先生のブラックコーヒーはとうに湯気を立てるのをやめていました。冷めきったそれを、先生は左手で弄びます。
「それを可能にしたのはやはり高位の人間だったはずだ。レベルの低い人間がいくら頑張ったところで山には登れないし月にだって行けない。今もそこへ辿りつくことができるのは選ばれた人間だけのはずだ。もちろん、私は夢に向かって努力をする人間を嘲笑したりはしない。しかし自分を早々に見限ることも大切だ。無謀な努力を続ける者より、自分に合った状況で最大限の力を振るう小物の方が私は優れていると思う。……君は、どちらだい?」
試すような、その問い。その時初めて、宇佐美社長は微笑を浮かべました。
合わせるかのように、先生はにやりと笑いました。
「ご想像にお任せしますよ。僕は依頼主の希望を叶えてお金をもらうのが仕事ですからね」
「期待はしているよ」
有線放送からは荘厳なクラシックが流れていました。静かでいて、付け入る隙のない演奏。私は二人の大人の会話に口出しすることができず、ただ黙って宇佐美社長のネクタイを見つめていました。
先生がカップを口に近づけると、それを皮切りに宇佐美社長が動き出しました。傍らに置いたビジネスバッグから一枚の封筒を取り出します。
先生は私に目配せをして取れ、と命じました。
厳重に封をされたその茶封筒の中には一人の男の顔写真と、その人物の物と思われる個人情報が表裏印刷でびっしりと、四頁に渡って記された資料が入っていました。写真に写るその人は、ちょうど宇佐美さんと同じ年頃の大学生風な青年でした。少しあどけなさの残る顔立ちに、伏し目がちな瞳。自分に自信を持っていなさそうな人という印象を受けました。背景が真っ青で何も映っていない所とバストアップな構図から、おそらくこれは証明写真か何かなのでしょう。
どうしてこんなものを?
面接?
「これは」
さすがの先生も訝しげな顔をしました。
「昨日娘が君たちを訪れたときに渡してもらう手はずだったんだが、あれはそれもできないような人間だったらしいな。こちらの落ち度だ、すまない」
口では謝りつつも、宇佐美社長は頭を下げませんでした。
まあ、宇佐美さんが用事を忘れてしまうのも無理はないでしょう。先生にナンパされたり先生が痴漢冤罪被害者だということを知ったり、いろいろ騒がしかったのですから。
「いえ、それについてはなんとも……それで、これはどういうものなのですか」
「ストーカーの犯人だよ」
「は」
「え」
私と先生は同時に声を上げました。写真を凝視してから、印刷された情報に掻い摘んで目を通します。身長一七〇センチ。ふむ、昨夜のストーカーの身長はどれくらいだったでしょうか。
資料には彼の生い立ちや家族構成、果ては人に知られたくないような習慣や癖までが事細やかに記載されていました。どうやってここまで調べたのでしょう。先生でさえ、こうも深くは調査できないはずです。
その証拠に、先生は難しい顔をして資料を眺めていました。私がこれをまとめて渡すと、ちらちらと飛ばし読みしながら口を開きます。
「ストーカーの犯人とは、どういうことです」
「どうもなにも、文字通り彼が娘を追う犯罪者だ。調べはこちらでつけてある。君たちにはこれに加えて、彼が娘に付きまとっている瞬間の写真を撮ってもらいたかったのだが……」
「それは昨日行われるべきだったと」
先生が尋ねました。
その言葉に、宇佐美社長の片眉がぴくりと動きます。鋭い眼光が先生を射抜きました。
「どういう意味だ?」
「深い意味はありませんよ。本来は昨日これが渡されるべきであって、昨日僕達が彼の写真を収める手はずだった。そういうことですよね、と確認したまでです」
「ああ、そうだ。全く、娘がここまで使えないとは思わなかったよ。あれにはもっと相応しい行動をとってもらわなくてはいけない」
先生が私に資料を戻しました。返ってきたそれには折り目と、いつの間に付けたのか赤いペンで印がついている箇所がありました。私はそこに素早く目を走らせます。
一〇四号室。
写真の男の現住所がそこに書かれていました。
はっとして、私は先生に向き直ります。先生は目配せだけして話を続けました。
何も話すな、ということなのでしょう。
「それも適材適所、分相応の考えですか」
「そうだ。娘にも得手不得手はある。あれにはよい結婚をしてもらわなければならない。ある中流企業の若社長との縁談が持ち上がっているのだが、彼に相応しい女にならなければな」
「政略結婚ですか」
「政治的采配だ。私には私の役目があり、あれにもあれの役目がある。そのためには、幾らか箔も必要だ。だからこそああして学生をやらせている」
一〇四号室。竜之内一。現在大学一年生で法学部在籍。二〇一三年公立S高校卒業。在籍時は陸上部に所属。種目は高跳び。市立M中学校卒業。バスケ部。フォワード。U小学校卒業……。
「箔というのは、何もそれだけではないのでしょう」
「ふん。ただの箱入り娘ではその価値が図れない。故に客観的な評価が必要だ。例えば……そう、熱狂的なファンがつくとか」
体の中に氷水を注がれたような、冷たい激流が走り抜けました。頭から霧が晴れて莫大な情報量が流れ込み、そしてふらつく感覚。目の前が真っ暗になりました。
ですが、ここで目を背けてはいけません。
必死に前を見て、目を開いて、宇佐美社長を見据えました。
これは偽装です。作られた犯罪です。誰かが悲劇にあってしまう歪みです。
「そのためには、他の犠牲は惜しまないと」
「君が何を言っているのか分からないが、ただ……この世には犠牲なんてものはない。仮にあったとして、君たちのいう犠牲というものは、踏み台というその人間の人生の役割を全うしたに過ぎないのだよ。それがそいつの人生の意味でそれを成し遂げたのだから、その人間は立派な者だ。さて、話は終わりだ。君たちは君たちの仕事をしてくれればいい。それ以上のことも、それ以下のことも私は望まない。分かっているね?」
「ええ、もちろん」
「期待しているよ」
宇佐美社長は立ち上がり、出口に向かって歩き出しました。私たちの横を通る瞬間、血の通っていない瞳が私を捉えるのを見ました。その瞳と目が合って初めて、この人は冷酷な人なのだと実感しました。
「待ってください」
私の声は閑静だった店内に大きく響き渡ってしまいました。窓際の席に座るOLさんたちが何事かとこちらをちらちら盗み見ているのが分かります。
宇佐美さんは立ち止まってこちらを見据えました。
冷たい目でした。
これは偽装です。
そう、言おうとしました。
できなかったのです。
止めたのは、椿ちゃんの言葉でした。私の中に深く深く刻まれた、自分の投げた石の責任についての彼女の言葉でした。
今丸く収まろうとしていたこの場を滅茶苦茶にする権利が私にはあるのでしょうか。
もしかしたら、私がここで宇佐美さんにたてつくことで、全てが大変悪い方向へと転がっていくかもしれません。
だから、躊躇してしまったのです。
「どうしたのかね」
宇佐美さんの冷たい声が耳に届きます。
目の前に悪がある。
それを前にして、見過ごそうとしている。
そんな自分が許せないけれど、動きだすのが怖い。
今まで自分を信じていたけれど、ふと立ち止まって冷静に考えてみると如何に無謀だったのかがよく分かります。むしろ、知らない方がよかったのかもしれません。そう思うくらいには、私は二の足を踏んでしまっている今の私が嫌いでした。
「何もないなら、帰るが」
宇佐美さんはまた出口の方に顔を向けました。
私はそれを見送ることしかできませんでした。
悔しくて、悲しくて、宇佐美さんが出て行って無情にもドアが閉まった時、私はほろりと涙をこぼしました。
先生の手が肩に触れても、それを振り払うことができませんでした。
「君の考えていることは手に取るように分かる」
先生が耳元で囁きます。
「僕も十分悔しい」
「そう、なんですか」
「なにせ会席料理というものを食べたことがないからね。そのチャンスを逃したかと思うとはらわたが煮えくり返るほど悔しい。一度でいいからフルコースを体験してみたかった。だからね、僕は彼を見返すことにした」
鼻を明かしてやるんだ。
肩に置かれた手に、少し力がこもります。
「でもまだだ。このままでは押しつぶされる。僕たちの手札は決して弱くはない。後はどのタイミングで出すかだけだ。十分致命傷を負わすことができるのだよ。だから虎視眈々と、静かに彼の喉元にナイフを突き刺す瞬間を待つのだ」
先生は怖いことをおっしゃっています。しかしながらそれは、あえてそうしているのでしょう。
「先生」
「なんだね」
「先生の想像しているのはおそらく、本膳料理と言うものですよ。会席料理はお酒を楽しむためのものですから、ちょこちょことしかご飯はでません」
「……知っていたさ、もちろん」
先生の声は少し震えていました。