アイデンティティの在り処 2
「おかしいねえ」
「犯罪です」
「どうしてだろう」
「自首してください」
朝です。
事務所で迎えた初めての朝です。修学旅行を除いて親元を離れて夜を過ごしたことのなかった私が迎える初めての一人の朝です。
一人です。
先生は数にはいれません。
「私は学校に行きますので、その間に自首してきてください」
「そうしたら君はどこに帰るというのだ」
「家です」
「下着は」
「セクハラですよ変えました使っていたのは学校に持っていきます」
脱いだ下着を先生の元に残して置くなんて、考えるだけでも身の毛がよだちます。女としてあるまじき行為です。コンビニで買った下着を穿いている時点で若干女を捨てた気はしますが、気がつかないふりを徹底します。
「それでは」
「僕は寝るよ。学校頑張ってくれたまえ僕は寝る」
そう言って先生は、私が玄関の扉を閉める前に寝室に籠ってしまいました。
永遠に眠ってしまえ。
夜更かしした朝はどうしてこうも清々しいのでしょうか。
朝日は神々しいまでに煌めいて、寝不足で防御力不足の弱々しい瞳を痛いほど貫いてきます。錠を掛ける音が響いて行きそうな静かな朝、気を抜くと立ったまま眠りに落ちてしまいそうです。
そう思うと、ますます先生が憎たらしい。
そもそも、私が美容の天敵である夜更かしをする羽目になったのは先生が妙なことに気付いたからなのですが、私を付き合わせた当の本人が私を差し置いて眠るなど不公平極まりないことではないでしょうか。ここは怒りを抑えて淑女的に扉を蹴とばすことだけに留めます。轟音が鳴り響き、近くの電線に止まっていた雀たちが羽ばたいて、私のつま先は少しじんじんとしだしました。
弓月探偵事務所は幕張本郷の駅前にあるいかがわしい雑居ビルの二階にあります。通常の玄関は荷物で塞がっているうえにビルの内部はかび臭いので私はいつも外壁に備え付けられた非常口から出入りをしています。重い鉄ごしらえの扉の上では角の割れた緑の非常灯がちかちかと明滅していました。私はその割れている部分から鍵を滑り込ませて階段を下ります。
千葉方面に一駅行けば国道一四号線沿いのデパート立ち並ぶ奥様の都会が、東京方面に一駅行けば津田沼という若者たちの遊び場があるという微妙な立地の幕張本郷ですが、私は静かなので好いています。それに、車やお金が無くても自転車さえあればどこにでも行けるというところが、まるで私の可能性を試しているようでもありますので、この町は私を大人の女性へと進化させるために適していると言えます。
素敵な町、幕張本郷。
しっかりと開かない目に、朝靄に包まれたその町は幻想的に映りました。
昨夜手紙を違法な手段で回収した私たちはそのまま遥々歩いて事務所に戻りました。途中自宅を通ったのですが、電車もバスも止まっているような時間に帰ったら何を言われてしまうか分からなかったので、苦肉の策として先生の自宅兼事務所で一夜を明かした次第です。朝、第一に自分の体を確かめました。何も異常はありませんでした。
事務所に戻った私たちは長距離移動で疲れた足を労わりながら、宇佐美さんのポストから拝借した手紙を拝見することにしました。
先刻私が言っていたことはそれについてです。
人様のポストから手紙を盗むという大罪を先生は犯してしまったのです。やはり世のためにさっさと捕まるべきだと思いました。
「いったいどんな黒歴史が広がっているのだろうか」
と、薄ら笑いを浮かべながら封を切る先生の顔は悪魔の様でした。
私はいけないことだと分かっていつつも仕事だからと心を鬼にして、それと今後貰う時の参考にと後ろから覗きこんでいたのですが、勉強になることは一切ありませんでした。ストーカーさんの文章力が小学生以下だったというわけではありません。むしろ、こういう手紙の形式もあるのかと首を傾げたくらいです。
便箋は真っ白なままでした。
しばらくの間透かしてみたり擦ってみたり熱してみたりと考えられるすべてのことを試した私たちですが、結果は変わらず、熱い恋の思いが綴られていたはずの手紙は白いままなのでした。
残念だ、と先生は匙を投げました。私はというと、こうして寝不足になるまで真っ白な手紙のことを考えていたのですが、小鳥が囀るまで思考を巡らしても何も思い浮かんでこなかったので、ある一つの仮定を用意して、朝日が昇るのと同時に眠りについたのでした。
本日の授業が心配です。
あの時、私もダミーの手紙を適当なポストに投函しました。もしかしたらその部屋の住人も、私のなんの意味もないダミーの手紙を見て云々と唸ってしまうかもしれないと気付いてしまったのです。
実はこの手紙には何の意味も込められていないのではないか。
顔も知らぬ誰かにその手紙は何の意味もありませんよと心の中で思いながら、私はその結論に至ったのでした。
「青ちゃん!」
声を掛けられたのは、私が階段を降りきって目覚めの伸びをしているときでした。
声を頼りに振り返ると、一つ先の角に学友の椿ちゃんが口に手を当てて棒立ちしていました。不自然な彼女の驚きに満ちた様子の理由が分かった途端、頭の中を支配していた眠気が吹き飛びました。
「いえ、あの、これはそういうことではなく」
思考は明快ですが、軽く焦っています。
「朝帰り少女発見!」
そう叫び、椿ちゃんは全速力で私に抱きついてきました。
「おはよう非行少女Aさん」
「やめてください、私は疾しいことなど一つも」
「まるっきり犯人の台詞っぽいんだけど」
椿ちゃんは呆れた笑みを浮かべました。
如月椿。私のクラスメイトで、一番仲のいいお友達です。友達と言える子は一人しかいないのですが、たとえ私にもっとたくさんお友達がいたとしても椿ちゃんとはダントツの一位で仲良しになっていたでしょう。
ショートカットと日に焼けた小麦色の肌が可愛い、陸上部の女の子。文学系清楚少女である私とは正反対の明るい子ですが、とても気の合う良い子なのです。ただお腹の上首の下に位置するある一点の部位まで私と正反対である必要はないと思います。そこは仲良くしていきましょうよ椿ちゃん。
彼女は薄っぺらな鞄を私にぶつけながらにやにやと質問してきました。
「それでぇ? 男の家で夜を明かした気分はどうだい? 大人の階段昇っちゃった? きゃー」
「先生とはそのような関係ではありませんから」
「ほう、男とってところは否定、しないん……だ?」
男性の家に泊まったとか朝帰りとか不埒な関係とか大人の階段とかあからさまなセクハラとかもしかしたら他の子にも見られていたのかもしれないとか、そういう不安や戸惑いは全て怒りに変換され昇華されました。
この私が、あの社会落後者と?
屈辱です。酷い仕打ちです。許されないことです。決して絶対金輪際あってはならないことです。
私の纏う強い意志を感じ取ったのか、椿ちゃんは少しおののきました。
「断じて先生とはそういう関係にはならないので、あしからず」
これは私の確固たる決意です。
せめて他の、例えばダンディなおじさまとくらいならスキャンダルになってもいいです。
「あの人だけは絶対にない。人間的に」
「あ、そう、なんだ。あれでしょ? バイト先なんでしょ? ね? 笑って? お願いだから」
「そうです。仕事が伸びてしまったので、仕方なくあそこに泊まることになったんです。仕方なく」
「そうなんだぁ、大変だね。あ、ほら。電車来ちゃうから早くいこ?」
椿ちゃんは自慢の健脚を存分に発揮して先に走っていきます。私もそれを後から追いました。
いや本当に、あの人だけは無理です。神に誓います。
やめて。
駅前のバスロータリーを抜けて構内へ続く階段を昇ります。先達の椿ちゃんは階段の一番上で手を振りながら私を待っていてくれました。階段からは併設された京成電鉄のホームがフェンス越しに見られます。
いつも思うのですが、角度と位置によってはホームからスカートの中が丸見えになってしまう気がするのです。私は乙女の恥じらいのために、毎度ホームとは反対側の端っこを昇ります。
京成線とJR総武線が一緒になった駅ですが構内自体広くなく、コンビニと小さなチェーン店のカフェしか営業していないのに、交通の便だけはあるとつくづく思います。
定期を通して、いつもより早い六時三六分発千葉行の電車を待ちます。
ホームの人ごみはまばらで、これなら電車の中も快適だろうと私は思いました。毎朝乗っている八時前の電車は大体混雑していますから、人込みを避けて登校できるのであれば今後早起きするのも悪くはないかもしれません。
京成線のホームには降りると、先ほど階段からちらりと見かけた初老のサラリーマンさんが新聞紙を片手に立っていました。
「ね、バイト先の先生ってどんな人?」
「社会不適合者ですね」
「わっ、即答……。探偵さんなんだよね。やっぱりそういう人って頭はいいの」
「ずるがしこいだけですよ。狡猾で、抜け目なくて、人の揚げ足ばかり取る、口先だけで生きているような人です。舌だけはよく回るから依頼者の皆さんも騙されてしまうのです。だから私があそこの唯一の良心として、紅一点の看板娘として働いているわけで、私がいなかったらあのようなところすぐに倒産ですよ。そして先生は捕まります」
「なんで?」
「食い扶持に困ったあげく犯罪に手を出すからです。あの人には生活力というものが欠如していますから」
「それを支えちゃったり?」
「しません」
「えー」
不満そうな椿ちゃんに、私は目を見てしっかりと言い放ちます。
「私と先生との間に仕事以上の関係性は一切ありませんから」
「つまんないの」
ちぇっ、と椿ちゃんは唇を尖らせました。
先生と仕事以上の関係性? 身の毛もよだつワードだと思います。
構内アナウンスが電車の到着を予告しました。
朝靄のかかった線路の向こうから、黄色い電車が走ってきます。赤黒い鉄のレールがこうん、こうんと鳴っていました。
朝の寝ぼけた空気を吹き飛ばすように軽快な警笛を上げ、電車がホームに滑り込んで来ました。気持ちの良い風が私の髪をかき上げていきます。
清々しい朝。
しかし電車は、人の缶詰でした。
「嘘」
思わず口に出してしまいます。
電車が止まり、気の抜けた音と共にドアを開くとエアコンの涼しい空気と人込みのもわっとした空気が綯い交ぜになって吹き出して、それと同時にたくさんの人が押し出されてきます。まるで内圧に負けて弾けるシュールストレミングです。
臭いのです。
私たちの未来のために働いているおじさま方にこのような失言、乙女として恥ずべき行為だとは思うのですが、この中に入るのは乙女的にちょっと。
と思っていると椿ちゃんが揚々と箱の中に勇み飛び込んでいきました。一瞬ためらった後、私は心を無にして椿ちゃんの後を追いました。
後追い自殺。
そんなフレーズが頭を過ります。
「まさかここまでぎっしりと詰まっているとは思いませんでした」
扉が閉まると、圧力も高まります。むしろ扉が閉まった分、無理が効くようになったわけです。
「朝はこんなもんだよー。にへへ、まあ一駅だし、我慢できるでしょ?」
「それだけが救いですね」
息をする余裕すらない密閉空間。車内の気温が上がるにつれ、空調の音も激しくなります。いっそ窓を開けたらどうかと思いましたが、そうすると何人か零れ落ちてしまうような気がしましたので、人知れず自分の中で却下します。
必然、椿ちゃんとは密着することになりました。
スーツの醸す独特な匂いと椿ちゃんの女の子らしいフローラルなシャンプーの香り。私の好きな二つの香りが私をうっとりとさせます。かたや私は寝不足で、シャワーこそ浴びたもののお風呂にはちゃんと浸かっていない身。まさか匂ったりしませんよね。
「青ちゃん良い匂い。なんか、大人っぽいというかなんというか」
私の心中を知ってか知らずか椿ちゃんはそのようなことを言ってくれました。その一言に、私はほっと胸を撫でおろします。おろす胸がないわけではありませんからね。
視界の中は人、人、人。スーツで埋め尽くされています。いつもの登校時間であれば今頃外を長閑な畑の風景が走っているというのに、残念です。私の認識は甘かったの知れません。八時頃の混み具合で文句を垂れるなど言語道断だったわけです。世に出るダンディなおじさまがたはこれを乗り越えたからこそ、あの渋みと言うものが出せるのでしょう。であるならば、大和撫子予備軍たる私も乙女修行の一環としてこれを乗り越えなければなりません。
耐えろ私。
あと数分。
ふいに、大きく電車が揺れました。
あっ―――。
揺れに合わせて、不自然に私の臀部を固いものがなぞっていきました。
体が強張るのが分かりました。冷たい物がお腹の方からせり上がってくる気がしました。
すぅっと血の気が引いて、頭の中が真っ白になっていくような感覚。
横隔膜が震えて、声を出そうにもうまく息を吐くことすらままならない。
これって、これってもしかして。
「ち―――」
「違うよ。鞄が当たっただけだから」
椿ちゃんが耳元で囁きました。その瞬間全身からふっと力が抜けて、体を突き抜けようとしていた冷たいものも霧散していきました。変わって今度は、ほろりと頬を熱い物が伝います。私は泣いているようです。
「あははー、青ちゃんはやっぱり箱入り娘だねー」
そう笑いながら、優しく頭を撫でて慰めてくれました。人に押しつぶされて動きにくいはずなのに、椿ちゃんは一生懸命手を抜き出して、私の背中に回してぎゅっと抱きしめてくれます。
電車の速度が落ちてきました。
「あ、ほら開くよ。気を付けて、流されちゃうから……しっかり捕まっててね!」
ドアが開くと同時に人の波が動き出します。その流れに、椿ちゃんに身を任せて私は電車の箱から降りました。そのまま人気の少ない所へ、椿ちゃんは私を引っ張ってくれていきました。まだ足元がおぼつかない私は、しっかりと椿ちゃんの手を握っていました。
「いやあ、普通今時の女子は、あんくらいじゃ腰を抜かさないもんだけどねー」
しばらくして私が落ち着いた後、私たちは幕張駅のロータリーから公立S高校行きのバスに乗りました。
人が捌け、バスの一番後ろの席に座ってようやく、私は平静を取り戻しました。その間、椿ちゃんはずっと私の手を握っていてくれました。今日ほど、座席が暖かくてよかったと思う日はありません。いつも熱いくらいのそれが、今日ばかりは優しく感じられました。
「満員電車は初めてだった?」
こくり、と私は頷きます。
「うーん、でもま、本当に痴漢じゃなくて良かったよねえ。うんうん」
バスはゆっくりと走っていきます。ヨーカ堂の前を通り抜け、あとはひたすら真っ直ぐに。バスの中には、ちらほらと同じ学校の生徒も見受けられました。
「あの、ありがとう、ございました」
「ん?」
椿ちゃんはきょとんとした目で私を見つめました。
「その、えと、手を握ってくださり……ありがとう」
「やーん! 青ちゃん可愛い!」
椿ちゃんは手を握ったまま私に抱きついてきました。繋がっている手が少し無理のある方向に曲がります。
「デレた?」
「いえ、そういうわけでは。もう大丈夫なので、手を離しても」
私がそう言っても、椿ちゃんは手を離しませんでした。
別に悪い気はしなかったので、私もそのままにしておきました。
ゆったりとした時間が流れます。
手から伝わる熱が、私の心を暖めていきました。
「安心させたかったのもあるけれど、あそこで青ちゃんが痴漢って言っちゃったらいろいろ面倒なことになっちゃうからねぇ。誰も望まない感じになるからね」
「え?」
「ほら、今って何かと騒がれちゃうでしょ? 駅もすぐ近くだったから、私たちが痴漢って言うだけで大変なことになるから。毎朝満員電車に乗ってたり、ニュース見ていると思うんだ。下手なことはできないなって」
「もしかして……私は」
「いや、青ちゃんが悪いわけじゃないよ? 怖かったんだもん、それに、有事には声を出すことは正解だよ? だから今私が話したことはまた別の話なんだけど……」
「どうぞ、話してください」
私はぎゅっと手の力を強めました。
「うん、ありがと」
椿ちゃんも握り返してくれました。
「うーん、改めて自論を言うのはこっ恥ずかしいかもね。にへへ。えっと、私が言いたいのは、痴漢犯罪は当人より周りの方が盛り上がっちゃうってこと。もし冤罪だったとしても、その瞬間は周りから本当にやったと思われちゃうわけで。
で、今のご時世はSNSで何でも無責任に呟けちゃうから、その一瞬でその人が晒されたりして、無責任な一言がその人の人生を壊しちゃったりするじゃない? だから、私たちも下手なことはできないなって思っているわけよ。まあ、好き好んでそういうことをやる人達もいるみたいだけどね」
「それは、私がされていなかったと否定しても、そうなってしまうんですか」
「なるでしょ。だって瞬間的には、冤罪は冤罪じゃないんだからさ。いや、全体的に見ればずっとそうなんだけれど、周りの人からしたら関係ないわけじゃない? 法的には罪にならないけれど」
人の心は裁けない、ってかっこつけすぎ?
そう椿ちゃんは照れくさそうに笑いました。
「自分の投じた一石の行方くらいは、考える責任を持っていてもいいと思うんだ。それにほら、被害者の方も、当人がそれを望んでいないのに祭り上げられちゃうことだってあるかもしれないからね。何も、写真を取られるのは犯人だけっていうわけじゃないんだし。
でもあそこで私が止めたのは、青ちゃんを安心させたかったていうのが一番なんだからね! 打算なんかじゃないんだから! 私そこまで頭良くないし……」
「いえ、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げました。
そして少しだけ、先生のことを考えました。
私は先生に、なんて言っていたのでしょう。
「これからは女性専用車両に乗ることにします」
「いや、空いているときに乗りなよ。……あれも無駄な制度だよね」
「そうですか? 世にいる女性たちはみなさん使うのでは?」
「みんな自分のことしか考えないから、あんな階段から遠い箱わざわざ使わないよ。階段から近い、一番混む場所を自分から選んで、それで痴漢ですって声を上げるの。ほんと、誰も望んでないのにねー……あ、学校見えてきた」
ポーンと降車を知らせるベルが鳴ります。生徒の一人が押したようでした。
バスの窓から見えるグラウンドでは、陸上部の生徒たちが快活に走っています。朝練のようです。
ふと、隣に座ってくれている椿ちゃんも陸上部だったことを思い出しました。
彼女がこんなに朝早く出ていた理由に、遅ればせながら気がつきました。そして、私が駅のホームで時間を取ってしまったことも。それに彼女が何も言わずに付き合ってくれたことも。
「椿ちゃん……ありがとうございました」
「いえいえ、だって私たち友達でしょ?」
にへへ、と椿ちゃんは笑いました。
ゆっくりたっぷりのんびり。
公立S高校は期末試験を控えているので、クラス間での進行度をそろえるため、授業の進行度は現状控えめです。日常的に予習復習を欠かさない知的乙女な私にとっては、昨晩取れなかった睡眠を取り返す良い機会。ですが品行方正を心がける身として机に突っ伏して堂々と眠るわけにも行きませんので、頬杖をついて目を閉じるだけにします。一応、耳で先生の話は聞いているのです。
すると、いつの間にか授業が終わっていました。
ひと眠りすると朝の出来事もどこか遠い事のように感じられます。自分の中で折り合いをつけることができたようです。なんのことはない、ただの鞄です。うん、大丈夫。
昼休みになって、教室は元の喧騒を取り戻しました。友達同士思い思いに席をくっつけて食卓を作る人や、いち早く昼食を終えて体育館にボールを抱えて駆けていく男子がちらほら。寝ぼけて少し出遅れた私は、静かに教室を離れて部室に行くことにしました。
おそらく椿ちゃんもいるだろうと思ったからです。
お隣の私立が大学もかくやという立派な校舎を持っているのに対して、我らが公立の学び舎は昭和のドラマにでも出てきそうな古めかしい出で立ちを誇っています。かたや全面ガラス張り、日光が差し込み開放的な空間を演出するのに対し、こちらは木造という利点を生かし天然の気温湿度調整機能で生徒をもてなします。
夏は暑く、冬は寒い。
いい加減クーラーを導入していただきたいものです。
いくら私立に設備で勝てないからといって、わざわざ古さを強調しなくてもいいのに。
とは言いつつも、何気に私はこの校舎を気に入っていたりします。
四階建ての校舎は本館と別館に別れており、カタカナのエのような感じになっています。長い方が本館で、主に普通教室が入っています。私たちが普段授業を受けるのはこちら、音楽や家庭科など特別教室を使う場合は、一階もしくは三階に設けられた連絡橋を通って別館の方へ移動します。
お弁当を小脇に抱えた私は、三階の連絡橋を渡っていました。
開けっ放しの窓からはほんのりと潮の香りを運ぶ涼しい風が吹き込んでいます。空を見上げると、秋晴れでした。雲一つない快晴。こんな日は中庭でご飯を食べるのもよかったかもしれません。
校舎は全敷地内の北側に寄っています。南側に大きなグラウンドがあり、本館と別館の間には芝生の生えた小さな中庭があります。構造上常に日陰になってしまう位置にあるのですが、風がしょっちゅう吹くためにじめじめと湿気ることは少なく、むしろ夏でも過ごしやすい空間になっているのでした。
冬は寒いです。
風が冷たいのです。
連絡橋を渡りきった私は、すぐ目の前の階段を一階まで下りました。別館一階東側一番奥の教室、家庭科準備室が私たち家庭科部の部室でした。
失礼します、と小声で言ってからドアを開けました。
いつも開けっ放しという訳ではありません。どうやら先客がいるようです。
家庭科部は部員こそ多いのですが、そのほとんどが幽霊部員です。隔週で行われる料理教室を除けば、主な活動はこれといってありません。家庭科に関係のあることなら何をしてもいいのですが、火や刃物は顧問の先生がいらっしゃる時でないと使用することができないので、普通誰も来ないのです。
「あれ、青ちゃん」
思った通り、椿ちゃんが机に座っていました。片肘をついて料理の本を眺めながらお弁当をつついています。
「行儀悪いですよ」
私はその横に座りました。そしてお弁当を開こうとして……少しためらいました。
椿ちゃんのお弁当が目に入ってしまったからです。
色とりどりの食材、なおかつ栄養バランスのしっかり考えられた献立。あのクリームコロッケは自作でしょうか。ふんわりとした卵焼きと瑞々しいパプリカが目に眩しい、宝箱のようなお弁当箱でした。
椿ちゃんは料理が大変上手な子です。私の勝手な予想ですが、多分部内一位、先生ともいい勝負をするかもしれません。それほど料理上手な乙女なのです。
陸上部と掛け持ちをしながら、彼女は可能な限りこちらの部活に訪れていました。私は平日に先生のコレクションであるアンティーク家具のカタログを拝見しにやってくる程度なのですが、椿ちゃんは時間さえあればここに来て本を読み、料理教室にも必ず顔を出すそうです。ちなみに私はあの雰囲気が苦手で料理教室には行っていません。その時だけくる彼女たちは結局、料理が好きなのではなく料理している自分が好きなのです。さらに言ってしまえば料理して、作ったお菓子をサッカー部の誰々君に渡す自分が好きなのです。真剣に打ち込んでいない、きゃぴきゃぴした感じが大和撫子と正反対の様で私は苦手でした。
私も苦手だけどね、といつか椿ちゃんが言っていたのを思い出しました。
それでも、料理が好きだから行くのだと。
そういうわけで、料理好きな椿ちゃんが自分で作ってくるお弁当はいつも豪華で可愛くて美味しそうな仕上がりです。私も家事は得意な方ですが、こと料理に関しては椿ちゃんには遠く及びません。
だから少し気後れ。
「食べないの?」
「食べますよ」
事務所にあったありあわせの食材で作ったお弁当をこの横に並べるのは気が引けます。しかし腹が減っては戦はできぬ。まだまだ午後の授業も残っています。
私は意を決し自分のお弁当を開けました。
「おー美味しそう」
「そうでしょうか」
内心でガッツポーズ。
「うんうん。青ちゃんは料理が上手だよね!」
「椿ちゃんほどではありませんよ」
手を合わせて、いただきます。
昼休みは五十分あります。私と椿ちゃんは二人とも小食で、なおかつ箸の進みが速いので大抵時間が余ります。準備室の水道でお弁当箱を洗った後は、それぞれお気に入りの本を戸棚から引っ張り出して読みふけるのが日課でした。
私は家具のカタログを。椿ちゃんは、レシピの本を。
ゆったりとした時間が流れます。学校の一番端の教室ですからとても静かです。ページの捲る音と互いの息遣いが間近にあるように聞こえてきて、時折外を走る風が窓を掠めていきます。
古い家具を見ていると心がときめきます。家具だけではありません、古い物なら、なんでも。
大量生産大量消費のこの時代に生まれたからには、物に困った経験などしようもありません。企業は需要に求めるべく、また効率を極めるために職人という存在を否定しました。画一化され差異など許されなくなり、誰もが値段に見合う、他者と同一のものを求める時代。右を見ても左を見ても、合わせ鏡のようにぴったりとはまってしまう世界。機械が寸分の狂いもなく作りだし、少しでもイレギュラーを含むものははじき出されてしまう、安易な平等。
そりゃ私だって、同じものを買ったのに他の人の商品の方が高品質だったら怒ります。けれど、そこに何の遊びが無いのは少しつまらないと思うのです。
その点古い商品は素敵です。一つ一つが人の手で作られます。精密ではないけれど丁寧に、イレギュラーを含めどそれは付加価値に。規則性と遊びの融合したモザイクのような造形は、物から失われた手作り特有の心の暖かさを感じさせてくれます。
この家具はどんな人が作ったのだろう。この小物は、どういう風に使われたいのだろう。
ページを捲るたびにうっとりと、ため息をついてしまいます。
ふぅ。
ため息がやけに大きく聞こえました。
椿ちゃんも同時に感嘆の声を出していたようです。
私は隣のレシピ本を覗きこみました。
「わあ、美味しそうですね」
椿ちゃんはさつまいものタルトの貢を開いていました。
すり潰してペースト状にしたさつまいもを餡にして、御舟型のビスケットの生地にレーズンと一緒に詰め込んで焼く、読むだけでお腹が鳴ってしまいそうなスイーツです。
「今週末はこれを作るんだって」
レシピに目を落としたまま椿ちゃんが言いました。
「料理教室は来週末だってさ」
「テストの後ですか。楽しみではないのですか」
椿ちゃんの声は若干落ち込んでいる風でした。
「料理自体は楽しみだけど、先輩付き合いがねぇ。文化部の、それも家庭科部なのに上下関係気にしすぎだよ、ほんと。陸上部より陰険だしさ」
「私は一度しか参加したことが無いので分からないのですけど」
「ま、いろいろあるんだ」
にへへと椿ちゃんがはにかむのと、私の携帯が鳴るのはほぼ同時でした。私はもう少し話を聞いてあげたかったのですが、彼女の笑みにある種の我慢を感じたのでそこで止めておきました。
携帯を確認するとメールが何件か届いていました。
受信フォルダをスクロールしていくと、いくつかのメルマガの中に一件、先生からのメールが届いておりました。
メルマガとどこが違うのでしょうか。
仕事と割り切って渋々開いた文面は真っ白でした。
私は喧嘩を売られているのでしょうか。
いいでしょう買いましょう。
私が果たし状の文面をつらつら打ち込んでいると、手の中で携帯が震えました。新着メッセージです。先生からでした。メルマガ並みのしつこさです。
今度の文面には放課後津田沼駅のカフェに来るようにと書かれていました。
仕事です。
宇佐美さんのお父様と会うようです。
「仕事?」
椿ちゃんが首を傾げました。
「そのようです。放課後津田沼で―――」
そこまで口に出してから、私ははっとしました。
どうしよう。
どうやって、行けばいいんだろう。
瞬間、頭の中で耳障りなノイズが走りました。
「もしかして、朝のこと思い出してる?」
「えっ、いや、あのその……、はい」
かたかたと椅子の足が小刻みに床を鳴らしました。木の床板が冷たい音を放ちます。遅れて、自分が震えているのだと気がつきました。
頭の中に小さな立方体のイメージが唐突に浮かんできました。白い背景に、黒の鉛筆で書いたような箱があって、その縁が不規則に脈を打つのです。どくん、どくんと鼓動のように乱れる線の動きは次第に大きくなっていき、それがどうしようもなく私を不安にさせました。何か入っている。何かが弾けそうになっている。ノイズはピークに達し、今にもその箱が決壊しようとしています。
何かが来る。
そしてそれは悪いものだ。
そう直感しました。
きっとそれは、それは―――。
「大丈夫だよ!」
ざわついていた思考を、椿ちゃんの声が吹き飛ばしました。私を支配していた黒い霧が、椿ちゃんの吹かす清涼な風で晴れていきました。
気がつくと、椿ちゃんは私の手を握っていてくれていました。
「もう、大丈夫」
「椿ちゃん……」
「大丈夫だから、ね?」
朝のバスのように、あの電車の中でのように、椿ちゃんの声が、体温が、触れている彼女の手からじんわりと広がって私を慰めてくれました。
しかし今度は、それに甘えるだけではいけないのだ、と私は自分に言いました。
私は気付いてしまったのですから。
「あのさ、私今日の放課後病院行く予定でね。だから夕方お母さんが車で迎えに来てくれるんだ。よかったら乗っていきなよ。それとも、やっぱり仕事休んだ方がいいのかなあ」
「椿ちゃん」
「ん?」
「私は謝らないといけないのです」
私はゆっくり、彼女から手を離しました。
「今朝椿ちゃんが言ってくれた言葉。自分の投げた石の責任を私は果たさないとなりません」
私の感じた恐怖は、そのまま先生の恐怖でもあったはずです。あの人がいくら鈍感で、浮世離れしていて、怖いものなしの人間だとしても私の言った言葉に恐れを抱いたのかもしれないのですから。
「それって、冤罪の話?」
小さくうなずきました。
「ただ被害者になって震えているだけでは、大和撫子失格ですから」
「そっか……。ま、なんかあったら私を頼っちゃってよ! 私は頼りになるんだから」
ぽん、と椿ちゃんは胸を叩いて見せました。頼もしい事この上ありません。
「では早速」
「何々?」
「私を津田沼に連れて行ってください」
私の懇願に椿ちゃんは一瞬目をきょとんとさせて、それから
「まっかせといて!」
と声高々に言いました。