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アイデンティティの在り処  作者: 日笠彰
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アイデンティティの在り処 1

 申し遅れました、私、美空(みそら)青葉(あおば)と申します。花も恥じらう女子高生です。名前の由来は、空と青の間にㇾ点を入れて

『晴れ渡る青空のような人生を送ってほしい』

という涙ちょちょぎれる過保護な親の愛情から来ております。言外に嫁に行くなと言われているようなものです。女の子なのですから、籍を入れたら苗字が変わってしまうというのに。

 特技は家事全般、趣味は古い物集めですが、先生はしょっちゅう私の趣味を揶揄します。君の趣味は可笑しい、はっはっは。あんたにだけは言われたくない。

 誰もが振り向く女子高生である私は多分に漏れずアルバイトをしているのですが、すべての悪夢はそこから始まりました。箱入り娘を地で行く、それどころか箱を鉄で拵え要塞の如く私を囲んで傷つけることなく育て上げようとする我が家の方針ではアルバイトなど以ての外だったわけです。しかし、輝かしい人生のためにはあらゆる経験が必要。例え社会の荒波にもまれ傷つき挫けることがあろうとも、いずれはそれが人生の糧となるわけです。私は両親に熱く申し立てました。一人前の女になるためには社会に出ることが必要不可欠。私は私のために働きたい、と。

 私の熱意に負けたのか、両親はある一つの条件の元、私のアルバイトを許可してくれました。

 それは、私立探偵を営んでいる従兄弟の元で働く、というものでした。

 この時に、私に先見の明があれば、と今でも思わないことはありません。あの時条件を飲まなければ、鼻先を掠めた餌に否応なしに跳び付かなければ、少しでも職場のことを知っていれば、現在のような私史上最も不幸な事態にはならなかったわけです。

 私立探偵、弓月先生の助手などと言う事態には。


 大和撫子を目指す私ですが、一応乙女の端くれです。将来輝くことを約束された宝石だとしても、未だ原石なのです。年頃の娘なのです。人間的に合わない人だって一人くらいおります。

 それが弓月先生です。

 先生は探偵です。これほど自由で人間性のこだわりがない職業は他にないでしょうから、これは先生にとって天職だったと言えましょう。これがレジ打ちなんかしたものなら、お客の選んだ商品にやれこれはカロリーが高い、やれこれは輸入品でこの国は云々と端から文句をつけ人様に迷惑をかけたでしょうし、同じ先生でも教職に就いたのならば不幸な子供が国中に溢れかえり日本は終わりを迎えることになります。万が一に議員にでもなったらやはり日本は滅ぶでしょうし、外資系に勤めたらならその被害は世界に及びます。いっそ宇宙にでも行っていただければ清々しいのですが、本人が

『僕の価値は地球でこそ発揮される。僕は地球の平和を守るためにいるんだ』

などと鶏も驚きのチキン発言をしているので、悲しいかな、先生は永劫この星にいることになります。地球が不憫で仕方ありません。

 その点探偵業はいい仕事です。

 依頼者には事前に先生に頼む危険性を説明することができますし、基本的に狭いコミュニティでしか活動をしないので及ぶ被害も最低限で済みます。

 立てば目障り座れば悪態、歩く姿は厄災そのものです。

浮世離れ、といえば聞こえはいいでしょうが、所詮社会不適合なだけなのです。

少しばかり身長が高く、髭を剃ればまともにも見えない面構えをしているからって、非社会的なことには変わりないのです。そうです、憎たらしいことに顔だけは二枚目なので、性質が悪いのです。

 弓月先生という、私の生涯において通常ならば確実に関わることのなかった人物の元で働くということは、私にとって大いなる躍進となるはずです。そう信じて、日々を耐え忍ぶわけです。卑劣な上司の下で働くという苦行は、数年後花開く私をより可憐なものへと昇華させるはずです。そうしたら、高みから先生を見下ろして、そして宇宙に放り投げてやるのです。それが地球のためで、私の夢です。


「何を笑っているのだ、美空君」

「別にとりとめのないことです」

「仕事中だぞ」

「すみません。先生が痴漢に間違われた時のことをふと思い出してしまい、つい」

「あんた痴漢なの!」

 相談者の宇佐美さんが素っ頓狂な声をあげました。

「最悪! 探偵なんてどこも同じと思っていたけど、下方向には無限大だったわ」

「落ち着いてください宇佐美さん。あれは冤罪だった」

「痴漢はみんなそういうのよ」

「仮に痴漢だったとして、ですよ。そうしたら僕は今ここにはいない」

「どうせ口八丁手八丁で逃げてきたんでしょ! この女の敵!」

「まあ間違ってはいないですね」

「美空君!」

「ほら!」

「ああもう」

 事務所はお祭り騒ぎです。

 弓月探偵事務所は町はずれの雑居ビルの三階にあります。ワンフロアごとの貸し出しなのですがテナント料が安く、一階から四階まで得体のしれない会社が陣を取っています。私たちの下、二階は鈴夜研究所という謎の会社です。夜な夜な猫の鳴き声が聞こえてきます。猫がいるなら、いつかうちにも上がってこないでしょうか。弓月探偵事務所は煮干しを構えていつも猫を待っています。

「宇佐美さん聞いてください。確かにこの人は女の敵で畜生でズボラで史上最悪な社会のごみですが、確かにあれは冤罪でした」

「ちょっと」

「そうなの?」

「そうです。自称被害者の女性は冤罪がばれた後、誰でもよかったと言って泣き崩れました。誰でもいい、と判断したのが運のつきでしたね。ですから宇佐美さんも、もっとしっかり他社とうちを比較して、その上でどうぞ他の所へ相談に行ってください。こんな男に任せることはないです」

「美空君、営業妨害だ」

「でも、本当に誰でもいいのよ。どうせ犯人は分かっているし」

 宇佐美さんは爪を噛みました。

 彼女の相談はストーカー被害。そんなの警察に任せればいいと思うのですが、実業家である彼女の父親が探偵に頼むことを薦めたそうです。

 ミンクのスカーフに、シルクのドレス。踵の高いハイヒールがスタイルの良さを際立たせます。ウェーブのかかった髪は艶やかで、女子大生とは思えない、モデルのような風格です。私も後二年でこのようなおしとやかな女性になれるのでしょうか。

「本当ですか?」

 先生が尋ねます。

「ええ。でも証拠が無いの。だからあなた達には、証拠集めをしてほしいのよ」

「それくらいだったら先生でも出来そうですね」

「いい加減君は雇用主と被雇用者の関係を自覚した方がいい」

 先生はそう言いますが、大体の事務仕事は私が回しているので実質的地位は私の方が上です。そのはずです。

「ええそうよ。だから誰でもよかったのよ」

 その言葉を聞いた途端、先生はソファから跳ね起き宇佐美さんの手を握りしめました。

 宇佐美さんは若干引きました。

「宇佐美さん。世の中にはどうでもいい、誰でもいいということは存在しないのですよ。人は選択において、意識下にしろ無意識下にしろ、なんらかの思考を繰り返している。絶対に無作為なんてことはありえないのです」

「先生を狙った女性も、つい数日前に先生によく似た彼氏に振られたと言っていましたね」

 あれは八つ当たりだったのです。

「美空君うるさい。つまり、あなたが私を選んだのは運命だ。宇佐美さん、この事件が解決したら、どうか私と共に一晩のアバンチュールを」

 刹那、宇佐美さんの鉄拳が炸裂しました。これまでに星の数ほどの男をその華麗なるアッパーで仕留めたのでしょう。見事な切れ味でした。惚れ惚れとしました。先生は革張りのソファに沈みました。

「……では、この人がストーカーということで手打ちに」

「冗談じゃないわ。お金はちゃんと払うから、しっかり仕事してよね」

「あぁ! 唯さん!」

 宇佐美さんはハンドバックから封筒を取り出すと、それを先生に投げつけてぷりぷり怒って出て行きました。

 事務所のステンレスドアが音高々に閉じられます。

 先生は顔に乗った封筒を弄りながら、私にコーヒーを頼みました。

「そのくらい自分で淹れてください」

「君は助手だろう」

「お茶係になった覚えはないです。従業員の不正使用で訴えてもいいのですよ」

「花嫁修業だと思ってだな」

「今ならセクハラも付けます」

 先生は渋々と言った様子で立ち上がりました。

 私は宇佐美さんの残していったお茶菓子を一つの皿にまとめて、自分の前に置きました。

 お金持ちの御嬢さんは、羊羹を口にしないのでしょうか。ケーキのほうがよかったのかもしれません。どちらにせよ私は、両方食べますが。

「その封筒を見てみろ。相当な額が入っているぞ」

 ちらりと封筒の中を覗いてみました。ざっと五十万はありそうです。

「きっと結納の分も入っているんだ」

「頭お花畑の人は人生楽しそうですね」

「僕は君を首にすることだってできるんだ」

 一人分のカップを持って、先生がキッチンから戻ってきました。

「とりあえず、明日から仕事に取り掛かろう。宇佐美嬢の家を張りこむということでいいか」

「その前に私の分のコーヒーはないのですか」

「人に淹れないやつが淹れてもらえると思うな」

「雇用主は従業員に対する慰安がですね」

「生意気な小娘だ。とても血縁とは思えない」

 お互い様です。

 

 宇佐美さんの自宅は海岸沿いの高級マンションでした。私は未来ある女学生ですので昼間は先生が独りで張り込みをすることになったのですが、これが不安で仕方ありません。腐敗した人の皮をかぶった狼のようなのが弓月先生です。張り込みと称して宇佐美さんの部屋に侵入したとしてもなんら不思議はありません。先生が捕まることに関して異論は全くないのですが、宇佐美さんの精神ダメージを考慮すると、都合よく先生の近くを警察が見回ってくれることを祈るばかりです。あわよくば捕まりますように。

 ちなみに、私は年頃の乙女なので夜は自宅に帰ります。私の仕事は夕方の差し入れだけです。

 学校が終わり、その足で宇佐美さんの自宅へ向かいます。先生ははす向かいの廃ビルに陣取っているようです。

 マンションは海浜幕張のビル街から離れた、埋め立て地の上の新興住宅地の中にありました。新興と言っても、ほぼすべての区画が高級マンションで埋まっており、建設工事は既に終わっています。オーシャンビューなこの付近の住宅に住むことは、一種のステータスです。行く行くは私も海浜幕張の高級住宅街に居を構えたいものです。

 高級マンションの中にもランク付けはある様で、私でも手の届きそうな一部屋幾らと思しき普通の集合住宅もあれば、プール併設事務完備オートロックは当たり前、ロビーには管理人さんだっている、天を突くような高層マンションもあります。億ションとはよく言った物です。

 その中で、宇佐美さんの部屋があるマンションは一等高級なものでした。

 警備は万全、自宅に忍び込むことはほぼ不可能。ストーカー如き矮小な人間の出来ることは投函か傍観くらいという鉄壁の要塞。管理人のおじいさんは気のよさそうな人で、なぜか荷物の整理をしていました。

 一回りしてから、先生がいるビルに足を踏み入れました。そこは、開発当時業者が使っていたと思われるこじんまりとした事務所ビルでした。昔からそうだったのかごみが散乱し、虚しいことに西日を受けた埃が幻想的に光っています。誰がこんなところに雰囲気を求めるというのでしょうか。

「先生、差し入れに来ましたよ」

「やあ、唯一の仕事御苦労。小一時間の就業で僕と同じ給料がもらえると思ったら大間違いだからな」

「子供を夜働かせるのはどうかと思います」

「いいから差し入れ」

「あんぱんがよかったのですよね」

「張り込みと言ったらあんぱんと牛乳だ。昔から相場が決まっている」

「どうぞ、カレーパンです」

「君、僕の話聞いていたかい」

「先生は時代の先駆者です。古い考えに縛られていてはいけません。よもや、あんぱん如きチープな固定観念を振り払えないわけではありませんよね」

 私が言い終わるやいなや、先生は私の手からカレーパンをひったくりました。

 爛々と目を光らせながら封を切ると、先生は時代を先取るカレーパンにかぶりつきます。

「何を言うんだ。僕はいつだって世界の先導者さ。これしきの革新、僕は予想すらしていたよ。甘い甘い、まだまだ君は……なんだこのカレーパン、本当に甘いな」

「豆乳カレーだそうです。時代の先の先を行くとはまさにこのことですね」

「……さて、宇佐美嬢の家だがね」

 先生は何事も無かったかのように窓辺につけた望遠鏡を指差しました。

 先生の慌てふためく姿を見ようと思ったのに、残念です。

 望遠鏡をのぞくと、マンションのロビーが飛び込んできました。

「僕も一通り回ってみたのだが、やはり忍び込めそうなところはないね。彼女の被害も、不審な手紙、まあストーカーからしてみれば愛情を込めた詩的なラブレターなんだろうけど、それくらいらしいからロビーのポストを監視するだけで十分だと思ったんだ」

「同意の伴わない愛のポエムは毒にしかなりません。列記とした犯罪です」

「そう邪険にしないであげてくれ。全国の男たちはそうすることでしか愛を表現できないんだ」

「詳しいですね。もしや経験が」

「ないよ」

 夜の帳が下りてきました。

 秋の夜は足が速いです。早々にこのゴミ屋敷からお暇することにしました。

「それでは、夜勤頑張ってください」

「何を言っているんだ? 君も残るんだぞ。これは仕事だ」

 愕然としました。

 横暴です。職権乱用とはまさにこのことです。年端もいかぬか弱い女子高生をこの男は薄暗い、ロクな暖房もない部屋に監禁して一夜を明かそうと言っているのです。

 しかしそうは問屋が卸しません。何を隠そう、我が家には秘密警察よりも怖い私の監視役がいるのですから。

「そのようなこと私の父が許しません」

「僕以外にも人はいるし部屋も別に取ってあると言ったら快諾してくれたよ」

「全て出鱈目じゃないですか」

「時にはこういう経験も必要さ」

 もうお嫁に行けない。

 目の前が真っ暗になった気がしました。

「日暮れだ。とりあえず晩御飯の準備をしよう」

 先生はいそいそとカセットコンロに火をつけます。明かりが外に漏れないよう、ご丁寧にアルミホイルで囲われていました。

 どうしましょう。

 嫁入り前に、不貞な男と二人きり。同じ部屋。密室。散乱したごみ。美味しそうなカップラーメンの香り。

 何はともあれ食事です。腹が減ってはなんとやら。

「味噌と塩があるんだが」

「お塩で」

「塩は僕のだ」

「お塩で」

「従業員が賄に文句言えるとでも?」

 私は臍を噛みながら味噌ラーメンを頂戴しました。悔し涙でスープがしょっぱいです。

 一応親に連絡を入れておくことにしました。下手なことを伝えて今後バイトできなくなってしまうのも困るので、万事大丈夫とメールを送ります。先生から離れられることは嬉しいことですが、仕事ができなくなってしまうのはそれ以上に悲しいことです。苦渋の決断の末、私の天秤は二ミリほど仕事に傾いたのでした。

 文面には塩ラーメンを買っておいてくださいと添えておきました。

 時間は十時を回り、夜はとっぷりと更けていきます。明かりひとつないために本を読むことも叶わず、私は部屋の隅で毛布に包まりうたた寝をしていました。よい子は寝る時間なのです。夜更かしは美容の天敵です。

 コンクリートの冷たさが服越しでも痛いほど伝わってきます。ラーメンを食べたお腹だけは、少しぬくぬくとしていて、私はその暖かさを頼りに体を丸めました。じっと息を詰めていると、空気の流れさえ止まったかのように錯覚します。先生はただ黙って望遠鏡をのぞいていました。月明かりがその顔をぼうっと照らします。

 特にときめくようなことはありません。いつもの先生の顔です。むしろ不快さ二割増しです。

「今失礼なことを考えなかったかい」

「まさか。それより先生、何か動きはありましたか」

「こっち来てご覧」

「さようなら私の純潔」

「いらぬ心配をするな。宇佐美嬢が帰ってきた」

 私はもぞもぞと体を動かし、先生の方へ這い寄りました。窓の隙間から冷気が吹き込んできて、先生の側は部屋の端よりも肌寒さを感じます。

 鼻から上だけを、窓硝子にくっつけました。

 目の前の通りを、お洒落なファーを巻いた宇佐美さんが早足で通り抜けていきます。後ろを気にしながら歩いているようで、振り向くたびにヒールの踵が不安定に傾いていました。焦っているのでしょうか。

「尾行されているんだな」

 先生は宇佐美さんの後方を指差しました。その先を見ると、暗闇に紛れて怪しい人影が動いているのが分かりました。距離は宇佐美さんから十五メートルほど後ろ。少し遠すぎる気もします。果たして、本当にストーカーその人なのでしょうか。

「宇佐美さんを見張っていてくれ」

 そう言うと、先生は望遠鏡を人影の方に動かし始めました。私は言われた通り、宇佐美さんを見守ります。家の明かりが近づいて安心したのか、宇佐美さんは歩調を緩めていました。さっきまでの焦燥感はなりを潜め、胸を張って威風堂々と歩く姿は正に気品あふれるお姫さま。さすがとしか言いようがありませんが、どう見てもストーカーに怯える女性の姿ではありません。

「肝が据わっていらっしゃるのか、あるいは見透かした上なのか」

 先生がぽつりと呟きました。

「よし、ピントが合った。……ああ、典型的だなあ」

「私にも見せてください」

「見ても面白くないと思うよ。誰もが想像するストーカーの姿そのものだ」

 丸く縁どられた夜の闇に、一人の男の姿が浮かび上がります。黒のウィンドブレーカーに口元を隠す大きなマスク。首にはタオルを巻いて、電信柱の影に隠れながら宇佐美さんの後を追っています。

「そのままじゃないですか」

「だから見ても面白くないって。まあでも、顔が隠れているんじゃあ、写真を取ってもいい証拠にはならないな」

 言いながら先生はカメラを用意しました。

「宇佐美嬢は家に入るところだね」

 見ると、宇佐美さんがエントランスの中で郵便受けを確認しているところでした。余裕しゃくしゃくです。ストーカー如きには負けないという覚悟が感じられます。私も早くあのような格好いい大人の女性になりたいものです。

 宇佐美さんが玄関ロビーの自動ドアを開錠し中に入ると、ほどなくしてストーカー男がエントランスに入ってきました。

「九時になると、エントランスの管理人さんは帰ってしまうらしい」

「いいご身分ですね」

「何を怒っている」

「別にです。あ、先生あれを」

 ストーカー男が郵便受けの前に立ちました。周囲をきょろきょろと確認しつつ、ズボンのポケットから白い封筒のようなものを取り出します。

「ラブレターだ」

「脅迫文ですね」

 私たちは顔を見合わせた後、またエントランスに視線を飛ばしました。

 つくづく意見の合わない人です。

 先生はカメラを構えると、ぱしゃりとシャッターを切りました。

「愛の投函、決定的瞬間をカメラに押さえた。美空君、そこらへん片付けしといて」

「今ですか」

「もうここを発つよ。さあ、早く」

 言われるがまま、私は散乱したごみの後始末を手早く終わらせました。家事、こと掃除に関しては他の追随を許さない自負があります。家政婦さんという選択肢も悪くはないかもしれません。

 まとめたごみを携えて、私たちはビルの一階へ降りました。入口近くでストーカー男がエントランスを出るのを待ちます。

「追うのですか」

「正体を見極めなくてわね」

「危なくないですか」

「もし君の家の近くを通るようだったら、そのまま帰宅していいよ」

「その場合残業代は」

「勿論引かれる」

 せちがらい世の中です。


 通り過ぎていくひんやりとした夜風が乙女の肌を撫ぜます。こと文明社会において、一寸先も見えない暗い夜道というものは安全上極力排除されてきましたが、その結果私たちは星降るような満天の夜空を失いました。地平線の向こうにいつまでも残光を残す、月とその他三等星以上しか見えない星空は私を暗い気持ちにさせます。生まれてこの方天の川というものを写真や映像でしか見たことがないのですが、もしそれを肉眼で見ることの出来る環境にあったならば、夜道だってそれはそれは楽しいものであったでしょう。

 少なくとも、弓月先生と行くナイトハイクよりは格段に。

「おっとすいません」

 大胆もここまでくると神業です。

 ストーカーの顔を見てくる、と言って先生は先回りしていました。てっきりそのまますれ違って帰ってくるのかと思いきや、先生は男にわざとらしく肩をぶつけたのでした。

「どうでした」

「マスクとサングラスをつけたままだったから、全く分からなかった。ぶつかった拍子になんか見えるかなと思ったのだが、奴は根っからのストーカーだよ」

 ある意味ストーカーよりも危険な男性が今私の横を歩いています。仮にその手が一ミリでも私の体に肉薄しようものなら、即通報即逮捕即実刑です。示談には応じないつもりです。

 潜伏していた廃ビルを出た私たちは、宇佐美さんの自宅マンションから帰るストーカーを尾行していました。明かりに溢れた街灯社会だというのに、ストーカーさんはよくこんな道を知っていたなと感心するくらい、薄暗い道を選んで歩いて行きます。街灯が一つ、二つと少なくなっていく度に、私は右隣の男から身の危険をそこはかとなく感じるのでした。

 先生はというとストーカーの歩く道をマッピングしながら、慣れた動作で電信柱の影に隠れたり反対車線を歩いたりと、あの手この手でストーカーをストーカーしていました。やはり経験があったに違いありません。

 ストーカーは駅を通り過ぎ、さらに幕張の方へと歩いて行きます。

 この先は、私の通う学校があるところです。

 国道一四号線に近づくにつれ、段々と庶民的な風景が広がっていきます。庶民とブルジョワを分ける高速道路の高架を潜り抜けると私立G高校が、道路を一本挟んだ隣には、一般庶民の通う公立S高校があります。横並びになった私立と公立の二つの高校は、もちろんいがみ合う仲です。設備がよく、校則が厳しいものの学力に秀でたお金持ちのG高校。緩く、温く、お気楽な一般平凡公立S高校。両者は互いを尊重し合うでも、お互いをライバル視し切磋琢磨をするわけでもなく、ただ単に敵視をし合い、貶し、見下し、蹴落としあう非生産的な関係を築いています。学校が近いので頻繁に練習試合が行われるのですが、その様はもはや決闘。生徒はおろか、教員の方々でさえ因縁を持っているらしく、その試合は公式の大会よりも熱い盛り上がりを見せます。

 学校を越えてさらに進むとイトーヨーカ堂があるのですが、そこは帰宅途中のS校生のたまり場となっております。ファストフードの立ち並ぶフードコートは庶民学生の味方というわけです。反対に、埋め立て地側の新都心はお金持ちG校生の縄張りとなっています。過去、魔が差したG校生が気まぐれにヨーカ堂を訪れたことがあったらしいのですが、フードコートは修羅場と化したそうです。

 まずS校生とG校生が対面しました。S校生がガンを垂れ、G校生が鼻で笑ったのは同時だったと言われています。

 S校生がG校生を殴りつけ、G校生が仲間を呼び、G校がフードコートに攻め入り、S校が徒党を組んで応戦し、ポテトが飛び、ハンバーガーは投擲武器となり、血とケチャップでフードコートは赤く染まりました。

 その後、ヨーカ堂は学生が集団で居座ることを禁止したそうですが、相変わらずS校生はたむろし、G校生の方も何かを学んだのかヨーカ堂には近づかなくなり、店側も売り上げのことを考えた上で黙認をしました。

 以上の歴史は以降GS抗争として語り継がれ、また第二第三GS抗争と続くのですが、その話はまた別の機会に。

 S校の近くには団地があります。団地に住む学生はS校生徒がほとんどですが、G校生徒も少数ですがこちら側に住んでいます。反対に埋立新興高級住宅に住んでいるS校生も何人かおり、住み分けまで完璧ということはありません。そして、そういう人たちはすべからく互いを認めています。中には彼らをスパイと呼んで苛めるグループもあるようです。

「もう少し行くと団地があるな。ストーカーの住居はおそらくそこだろう」

「私の学校の生徒という可能性も、無いわけでは無いですよね」

「否定はしない。仮にそうであったとしても、君の学校生活には何の支障も出ないだろうよ」

「そうですけど、知り合いが犯罪者というのは、複雑な気分です。しかも、それを私が捕まえようとしているなんて」

「君は少し勘違いをしているね」

 先生が前を向いたまま言いました。

「僕達は別に犯人を捕まえようとしているわけじゃない。依頼をこなしているだけだ。それはつまり、依頼人を満足させてお金を貰おうとしているだけであって、真実を突き止めようとしているわけじゃないんだよ」

 暗闇にぽつりと投げ込まれた先生の言葉は、私の心を波立たせました。

 ストーカーに向けていた視線を、そのまま先生に投げかけます。

 だって先生の言うことは、なんだか……。

「それは、正しいことではないです」

「僕達は正義の味方ではない。報酬が貰えるなら法に触れない限りで悪いことだってするさ。本来は尾行だって、善ではない」

 先生の口調はあくまで淡々としていて、それがことさら私の神経を逆なでしました。

「先生の言い分では、冤罪も厭わないように思えます」

「そこまでするつもりはないさ。でも、わざわざ骨を折って真実の善を追及するつもりはないよ。でもそれは悪い事ではない」

「でも、正しいことではないです」

「そのかわり、間違ってもいない。君の言う正しい事とはなんだい? 善とはなんだい? それを線引きするのが法律だとしたら、僕たちがやっていることは悪で、間違っていることだ。だけど、そうじゃないだろう」

「だったら、お金のためなら真実を捻じ曲げてもいいということですか? お互いが満足するなら、それでいいということですか? 私はそれがおかしいと言っているのです」

 次第に、私の言葉は荒々しくなっていきました。

「そのようなことは間違っています。真実はいつでも真実であるべきです」

「間違ってなどいない。都合のいい真実は、時に誰かにとっての善になる。自分の見えるものが正しければそれでいい人だっているのさ。それで食えていけるのならば、間違ってはいないだろう」

「先生の言っていることは偽善です。善の振りをした悪です。……真実に近づく力があるならば、それを突き止めることがその人の責任です」

「偽善なんて言葉はないよ。善の偽物は他の人の善で、誰かにとっての悪さ。それは本当の善にだって言えることだ。結局は全部、主観的なものなんだ。完璧に客観視できるものなんてないのさ」

 先生の言葉は静かに闇に溶けていきます。身を潜めている街灯がちかちかと明滅し、ストロボのように私たちを映しました。

「自ら深淵に飛び込むような危険を冒す責任を、僕たちは課されてはいない。あくまでも第三者なんだ。本当の問題は当人たちが解決すればいい。彼らが納得したなら、それが一つの真実だ」

 間違っている、とは言い切れなくなっていました。

 そのかわり。

人それぞれの主観による正義もまた一つの真実だというのなら、私は私の正義を貫くまでです。

 

「あれ、団地ではないようですね」

 ストーカー男は団地を抜けていく道を歩いていました。

「この先はまたお高いマンションが増えてきますよ」

「胸糞悪い区画か」

 先生が毒づきます。

「自分が住めないからって僻まないでください」

 宇佐美さんの自宅マンションから後を追って、もう半刻は過ぎたでしょうか。男は団地を抜け若葉街道を浜田川の方へ向かっていきます。左手には我らが幕張の誇る外国語大学が。近所に外人さんが多いのはやはりここの留学生なのでしょうか。

 若葉街道は都心を突っ切る浜田川の支流に沿って作られた、川を挟む並木道です。殺風景な住宅街に突然現れるそれはまさに都会のオアシス。夏は自転車で通ると気持ちいいのです。この道は本流から外大を抜けてS高校の入口まで続いています。

 帰り道に若葉通りを、手と手を繋いで一緒に帰る。これが一般公立高校生共通の憧れです。イオンで一緒にカフェ勉強や、映画館で隠れてキスと言ったお洒落なお付き合いは求めない。並木道を歩いて近所のマックでテイクアウト。近くの公園でそれを食べる。それがS校生、はたまた夢見る女学生全般の鉄板デートルートだと友人の椿ちゃんが言っておりました。

 明かりの零れる窓からテレビの音が聞こえてきます。少し開かれた窓から水の溢れる音も聞こえます。お風呂でしょうか。そういえば、少し肌寒くなってきました。早くお家に帰って暖かいお風呂に浸かり、お気に入りの安楽椅子に座って読みかけの文庫本に取り掛かりたいな。

 でも我慢です。

 宇佐美さんのため、ここが一つの踏ん張りどころです。

「この後もまだ仕事があるというのに、あの男は一体いつまで僕を歩かせるつもりなんだ」

 先生がぼやきます。見ると、もうその手はマッピングを止めていました。

「地図、もう書かないのですか」

「あとで記憶を頼りに適当に書くさ。別に頼まれたことではないしね」

 依頼主も本人も望まないアフターサービスに何の意味があるのでしょうか。

「それより先生、この後の仕事とは」

「あいつがいれた手紙を回収しに行くに決まっているだろう」

「それって犯罪では」

「ストーカー事態犯罪なのだから、別になんてことはない」

「痴漢冤罪者の言うことじゃない……それに、あの人が犯罪者予備軍だからと言って、私たちが法律に抵触していいという訳ではありませんよ」

「やるときは徹底的に。それが僕の信念だ。ああ面倒くさい。でもお金のためだ」

「途中までかっこよかったのに、最終的に最低ですね」

「君も一言多いね」

 先生も疲れておられるのか、どうも返しが粗雑になっています。かくいう私も、必要が無いのならば黙っていたいくらいには疲労がたまっていました。一体どこまで歩かせるつもりなのでしょうか。

「普通はここまで歩いて来たら、戻ろうとは思いませんよね」

 宇佐美さんも、まさかこの見るからに駄目な男が仕事に熱心だとは思わないでしょう。話を聞いたら腰を抜かすかもしれません。

「僕は粘り強い性質なんだ」

「だから納豆と同じくらい」

「その先は言わせないよ……もしかして、あの家じゃないのかい」

 先生は前方にある大きなマンションを指差しました。

 そのマンションは、浜田川を挟んで反対側にありました。

「ちなみに、僕はこのあたりの地理には疎いのだが、あのマンションへの最短距離は真っ直ぐだったりするのかね。こう、川の下をトンネルが通っていたり」

「川の下も上も通れますがどちらにせよ大きく迂回をすることになりますね」

「ああめんどくさい」

「同意します」

 もううんざりです。

 しかもこの道を戻らないといけないのですから、さらにうんざりです。

 それから歩くこと一〇分。男は住まいと思しきマンションに入っていきました。随分歩かされたのですから大層立派なマンションなんだろうなと皮肉を込めて思っていたのですが、意外なことに、それは宇佐美さんのマンションと遜色のないものでした。

「またオートロックか」

 電柱の陰から双眼鏡をのぞく先生がぼやきます。

「最近の人間は鍵を閉めるのすら億劫なのかね。自衛くらい自分の力でしたらどうなんだ。何でもかんでも他人任せで……いや他人じゃないか。最近の若者は人とは付き合いたがらないからな」

 疲れと妬みで先生の毒は濃度最大値を更新しています。

「美空君、君ちょっとあのロビーまで行ってきてくれないか」

「はい?」

「いいから早く。ロビーまでなら一般人でも入れるから。これを適当なポストに投函する振りをして、あの男の部屋番号を見てきてくれ」

 最初から用意していたのか、先生は私に白いハガキを押し付けると、ついでに私のことも道路に押し出しました。これで車でも来ていたら自ら良い位置に移動してサイドミラー辺りに服を掠らせてそのまま裁判に持ち込むところです。体には当てません。私は我が身が可愛いのです。

 男はもう内扉の呼び出しボタンの前に立っていました。よくよく考えればこの場合男は自宅の鍵を使ってドアを開けるはずなので私が行っても部屋番号は分からないのでは、と疑問に思いつつエントランスの自動ドアを潜ります。

 気持ちの良い風が吹き出してきました。

 エントランスにまで空調を効かせるだなんて、お金持ちのやることは違います。

 りりりん、りりりんと鳴る鈴の音が高級な雰囲気を醸し出します。

 私はさりげなく男の側まで寄りました。一番端にあるポストに手紙を入れながらそうっと男の手元を覗きこみます。

 おや、と私は自分の目を疑いました。

 男の操作する機械の文字盤には、五〇一の数字が赤く光っています。

 どうやら男は鍵を持っていないようです。

 そして私が鈴の音だと勘違いしたものは、機械の呼び出し音だったようです。

 はっとして、私は自分の投函したポストの番号を見ました。一〇四の竜之内さん。よかった、別の家のようです。私は五〇一号室のポストも確認しましたが、こちらは生憎名前を書いておりませんでした。

 しまった、と私は思いました。葉書を持ったままであれば、ポストを探すふりして五〇一号室にいる人や、男の声を聞くことができたかもしれません。

 しかしこれ以上は危険です。

 呼び出し音が止まるのと同時に、私は怪しまれないようにそそくさとエントランスを出ました。さっきまで身を隠していた電信柱を見ると、もうすでに先生の姿はありませんでした。引き返す道に目をやると、先生の背中が夜の闇にぼんやりと浮かび上がっています。

 あの野郎、先に戻りやがった。

 乙女を一人残して帰るなど、男として最低最悪の行為です。送ってもらったところできゅんとなんて絶対にしませんが。

「先生待ってください、痴漢ですって叫びますよ」

 追いながら、先生の背中に投げかけます。振り返らなければいっそ叫べるのに。

 先生は止まって振り返りました。

「番号は確認できたかい」

「はい。五〇一でした。でもどうしてあの男が部屋番号を呼び出すと分かったのですか」

「さっきね」

 先生はポケットから手を出すと、指に何かを引っかけてくるくると弄び始めました。

「少し拝借させてもらったんだ」

「それは……鍵、ですか」

「その通り」

 もしかして、さっき肩をぶつけたときに。

 この人、やっぱりおかしいです。

 口角を少し上げてにやりと笑う先生の顔が月明かりに照らされます。その顔が直後、生気の抜けたものになりました。

 そうです、この道をひたすら戻らなくてはいけないのです。


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