月光を浴びるように見上げる人。
こちらの更新はお久しぶりになりました。薫先生視点です。
彼らが常連となっているバーからの帰り道、
みなさんと別れて斉藤さんと二人、少し歩くことにした。
私が、なんだか歩きたい気分だったのだ。
隣の駅まで歩こう、と言ってみた。
「勝手に散歩しよう、なんて言って、大丈夫でしたか?」
隣をのんびり歩いてくれる人に問いかけると、笑顔で答えてくれる。
「大丈夫ですよ。それほど酔ってませんからね。」
今日一番の話題は、このたび現れた遠藤先生の婚約者候補、というものだった。
もちろんどこぞの教授のお嬢様で、お父上に会いに来たついでに
よそ見をして歩いていたら、遠藤先生に勝手にぶち当たってきて
勝手に転んだ。(遠藤先生談)
助け起こしてくれた姿に一目ぼれした、とか何とか言われ、
それ以来つきまとわれているらしい。
もちろん遠藤先生は断り、断って、断って、断りぬき、
しまいには「婚約者がいますから」と言ってのけた。
(遠藤先生と真里絵さんは、婚約はしてはいないが。)
しかし、「そんなことではあきらめない!」
と息巻いている彼女にいい加減辟易していた。
あの表情にあまり出ない遠藤先生が、心底うんざりした表情に見える日が来るとは、
人生何が起こるかわからないものだ。
遠からず真里絵さんの出番になるのだろう。
当の真理恵さんは余裕の表情で、
「そんな人くらい、自分で何とかしなさいよ。」
と言っていたが、おそらく拝み倒されての出動になりそうだ。
これを機に、本当に婚約や結婚、という話になるのかもしれない。
「遠藤、たまに思い込みの激しいのにあたったりするんですよね。
大学時代も、たまに真里絵がこてんぱんに泣かしてましたけど。
あ、泣かしたっていうか、勝手に向こうが泣いて悔しがってただけですけどね。」
そんな噂話も楽しく、のんびり歩く。
途中のファーストフードで温かいコーヒーを買って、
それを片手に、ゆっくりとゆっくりと。
日頃、会えないわけではない。
それでも勤務時間も休みもばらばらな私たちは、毎日会えるわけでもない。
会えた時の、ほんの少しの、こんなたわいもない時間が、かけがえない。
ふと、彼が立ち止まって空を見上げた。
「ああ、今日は天気もいいし、いい月夜ですね。」
今夜は満月に近い。確か十三夜。
もう少しで満ちる、その一歩手前の空は、きれいに晴れていて、
美しく輝く月は、満月と遜色ないくらいの明るさだ。
その月光を浴びるように空を見上げる人。
「月がきれいですね。」
夏目漱石が言った、という話があるのだそうだ。
「ILoveYou」を訳す時に、「月がきれいですね」とでも言っておけばいい、と。
ふと、そんな話を思い出しながら、隣に立つ人を見つめて、そうつぶやく。
「ええ、本当にきれいだ。」
そう返される笑顔に、心から幸せを感じて、またゆっくり歩きだす。
たまには、夜の散歩もいいものですね。
「I Love You」を二葉亭四迷は「死んでもいい」と訳したとか。
もちろん訳す元になっている文脈によるのだと思いますが、なんとなく「月がきれいですね」というのはロマンチックだな、漱石先生、と思います。
実際はわかんないと思うよ、そんなんじゃ、っていうのは、私が鈍すぎるのでしょうか?いや、わかんないだろう。