「フリーランスの底辺女」と捨てられた私。あなたの会社の基幹システム、私が一人で保守してるので契約打ち切ります
「俺ももう二十八だ。将来を真剣に考える時期だし、そろそろ『社会的信用』のある人間と家庭を築きたいんだよ。いつまでも自宅でパジャマのまま、不安定なフリーターみたいな生活をしてるお前とは、見ている世界が違いすぎる」
休日の昼下がり。表参道のオープンテラスカフェで、私、結城凛は、交際して三年になる恋人の翔太から、あまりにも一方的な別れを告げられていた。
彼の隣には、ゆるふわなボブヘアに清楚なブラウスを着た、いかにも「愛されOL」といった風情の女性が座っている。
「ごめんなさい、凛さん。私、翔太先輩と同じ会社の事務職なんですけど、プロジェクトのサポートをしてるうちに親密になっちゃって……。翔太先輩、うちのエースで来月から係長に昇進するんです。だから、奥さんになる人はちゃんとした『正社員』じゃないと、会社の人にも紹介できなくて恥ずかしいって」
彼女――美香というらしい――は、申し訳なさそうな表情を作りながらも、その目には明らかな優越感が浮かんでいた。
「フリーランスって聞こえはいいけど、要するにボーナスも有給もない、ただのネットの内職だろ? 俺の会社は業界中堅の『ネクスト・ロジスティクス』だ。安定した基盤がある。お前みたいな底辺のフリーランスを養っていく余裕はないんだよ。これ、同棲してた部屋の合鍵な。今月中に荷物まとめて出ていってくれ」
翔太はテーブルの上に鍵を乱暴に置き、美香の肩を抱き寄せた。
私は冷めたアイスティーを見つめながら、内心で深い、深いため息をついていた。
(ネクスト・ロジスティクス……。よりによって、そこか)
私はフリーランスのシステムエンジニアだ。
確かに、毎日スーツを着て満員電車に乗ることはない。基本的に自宅のデスクから一歩も動かず、スウェットにすっぴんという出立ちで一日中キーボードを叩いている。翔太の目には、私がパソコンで小遣い稼ぎをしている「底辺のフリーター」に見えていたのだろう。
私が毎月、彼の年収を軽く超える額を稼ぎ出していることにも気づかずに。
「分かりました。鍵は返してもらいます。部屋は私の名義で借りているので、出ていくのはあなたの方ですよ」
「はっ、強がるなよ。家賃の引き落とし、来月からキツくなるだろうから、引っ越し費用くらいは俺が出してやってもいいぞ?」
「結構です。……それより、ネクスト・ロジスティクスにお勤めなら、今月末はかなりお忙しいのではないですか? 確か、全社の受注管理システムの移行プロジェクトが大詰めのはずですが」
私がそう指摘すると、翔太はピクリと眉を動かした。
「なんでお前がうちの社外秘のプロジェクトを知ってるんだ? ……まあいい、お前の言う通りだ。うちの基幹システムは今、大規模なアップデートを控えていて、俺たち営業部もその対応で連日残業なんだよ。お前みたいに毎日昼まで寝てる奴には、この責任の重さは分からないだろうな」
「そうですね。全く分かりません」
私は静かに微笑んだ。
翔太は満足げに鼻を鳴らし、「じゃあな。せいぜい次の寄生先を見つけるんだな」と捨て台詞を吐いて、美香と共にカフェを去っていった。
残された私は、テーブルに置かれた合鍵を財布にしまい、スマートフォンを取り出した。
「責任の重さ、ね」
私はスマートフォンの画面に表示された、一件の『業務委託契約書(更新控え)』のPDFファイルを開いた。
クライアント名:株式会社ネクスト・ロジスティクス。
業務内容:基幹システム『NX-Core』の保守・運用管理。
月額報酬:二百五十万円(※緊急対応時の超過分は別途請求)。
ネクスト・ロジスティクスの基幹システムは、十年前の古い仕様で作られた、いわゆる「スパゲティコード」の塊だった。増改築を繰り返した結果、社内の人間では誰も全容を把握できなくなり、ブラックボックス化していたのだ。
私はかつて所属していたSIer(システム開発会社)時代にこのシステムに関わっており、独立してフリーランスになった後も、「結城さんがいないとシステムが止まる」と泣きつかれ、個人的に高額な保守契約を結んでいたのである。
あのシステムは、完全に『手動の延命治療』で動いている。
毎晩深夜二時に発生するデータベースのデッドロック(処理の衝突)を私が手動のスクリプトで解除し、メモリの異常消費を見つけてはプロセスを再起動させ、営業部が入力ミスで引き起こすエラーデータを直接SQLを叩いて修正する。
私がこの「見えない泥臭い作業」を毎日裏で行っているからこそ、ネクスト・ロジスティクスの全国の物流網はギリギリで稼働しているのだ。
「翔太が係長に昇進するってことは、あのポンコツシステムが吐き出す受注データをエクセルにコピペして、ドヤ顔で会議に出してるってことね」
私はアイスティーを一気に飲み干した。
翔太と美香の態度には腹が立ったが、それ以上に、私のプロフェッショナルとしてのプライドを「ネットの内職」「底辺」と侮辱されたことが許せなかった。
私は技術を売り物にしている。クライアントの社員からあのような暴言と侮辱を受けた以上、もはや『信頼関係』は完全に崩壊したと言っていい。
私はカレンダーアプリを確認した。
今日は二十九日。明日は三十日、月末だ。
私の業務委託契約は一ヶ月ごとの自動更新だが、契約書の第十二条にはこう記されている。
『甲または乙は、相手方の重大な背信行為、またはハラスメント等により信頼関係の維持が困難と判断した場合、即時および一方的に本契約を解除することができる』
「ちょうどいいわね。システムの移行プロジェクトで一番ピリピリしてる時期みたいだし」
私はカフェの席を立ちながら、ネクスト・ロジスティクスのIT部門の責任者であるシステム部長の佐藤氏宛に、一通のメールを作成し始めた。
件名:『業務委託契約の即時解除について』。
理由は「貴社営業部・翔太氏ならびに事務部・美香氏からの、私生活におけるハラスメントおよび私の職務に対する重大な侮辱発言により、信頼関係が完全に損なわれたため」。
送信ボタンをタップした瞬間、私の心から翔太への未練など塵一つ残らず消え去っていた。
あるのはただ、システムエンジニアとしての冷徹な事務処理の感情だけだ。
*****
翌朝。
私のマンションから自分の荷物をまとめて出ていった翔太の姿を見送った後、私のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
着信画面には『ネクスト・ロジスティクス 佐藤部長』の文字。
「はい、結城です」
『ゆ、結城先生!! おはようございます、朝早くから申し訳ありません! 昨夜のメール、拝見いたしました! あ、あれは一体何の冗談でしょうか!?』
電話の向こうから、五十代の温厚な佐藤部長の悲鳴のような声が聞こえてきた。
私が保守を引き受けているおかげで彼らは定時で帰れているため、彼は普段から私を「先生」と呼んで平身低頭に接してくれていた。
「冗談ではありません。メールに記載した通り、貴社の営業部の翔太氏と事務部の美香氏から、私の職業を底辺のフリーターと見下し、寄生虫扱いされるという深刻なハラスメントを受けました。私生活での出来事とはいえ、クライアントの社員からそのような暴言を受けた状態で、これまで通り御社の重要なシステムの保守を続けることは精神的にも不可能であり、セキュリティの観点からもリスクが高いと判断いたしました」
『しょ、翔太!? あのバカ、結城先生と個人的な関わりがあったんですか!? というか、底辺だなんて……うちのシステムの命綱を握っている大恩人に向かって、なんということを!』
佐藤部長の声が怒りと絶望で震えているのが分かる。
『結城先生、どうか思い直していただけないでしょうか! 翔太と美香には厳重な処分を下します! 報酬も倍……いえ、三倍お支払いします! 来月のシステム移行が終わるまで、あと一ヶ月、いや二週間だけでも……!』
「申し訳ありません、佐藤部長。これは金額の問題ではなく、コンプライアンスと信頼の問題なのです。本日付けで、私のアカウントへのVPN(遠隔アクセス)権限を全て破棄してください。これまでに作成したトラブルシューティングの手順書は、共有フォルダにアップロードしてあります」
『あの手順書、結城先生の超絶スキルが前提すぎて、うちの社内の人間じゃ誰も解読できないんですよぉぉ……! 先生がいなくなったら、うちのシステム、三日と持ちません!! お願いです、どうか、どうか!』
「契約に基づき、業務の引き継ぎ義務は発生いたしません。これまで大変お世話になりました。失礼いたします」
私は事務的に告げ、通話を切った。
そして、自宅のメインPCを開き、ネクスト・ロジスティクスのサーバー群を監視していた大量のターミナル(黒い画面)を一つずつ『✕』ボタンで閉じていった。
毎秒のように流れていたログの文字列が消え、画面が静寂に包まれる。
「さて、と。これで私の手は完全に離れたわ」
ブラックボックスと化した基幹システム。
私が毎日、データベースのパッチ当てやメモリの解放を裏でコソコソと行っていたから動いていた奇跡のバランス。それが今、完全に『ネクスト・ロジスティクスの自力』に委ねられたのだ。
あのシステムがどうなるか。私には痛いほど予想がついていた。
*****
一方その頃、ネクスト・ロジスティクス本社。
営業部のフロアでは、翔太が新品のスーツに身を包み、意気揚々と自分のデスクに座っていた。
「おはようございます、翔太先輩! 新しい香水、すごく似合ってます♡」
「おはよう、美香。邪魔なフリーター女も追い出して、これでやっと心置きなく仕事に集中できるよ。来月の係長昇進に向けて、今日の営業会議でもバッチリ数字をアピールしてやるさ」
翔太はパソコンを立ち上げながら、美香に向かって自信満々にウインクした。
「俺が担当してる大型案件、今日の午前中にはシステム上で受注処理が完了するはずだ。美香、請求書の準備を頼むな」
「はいっ、任せてください!」
翔太が基幹システム『NX-Core』のアイコンをダブルクリックする。
いつもなら数秒で立ち上がるログイン画面が、今日はなぜか真っ白なまま、マウスポインターが砂時計(読み込み中)の形になって回り続けていた。
「ん? なんだこれ、重いな……」
何度クリックしても反応がない。
周囲を見渡すと、他の営業部員たちも「あれ? システム繋がらないぞ」「ネットワーク障害か?」とざわつき始めていた。
その時だった。
「営業部の翔太!! 事務部の美香!! 今すぐIT部門のサーバー室へ来い!!」
フロア中に響き渡る怒声。
声の主は、普段は温厚で声を荒げることなど絶対にない、IT部門の佐藤部長だった。彼の顔は信じられないほど赤黒く鬱血し、額からは滝のような汗が流れている。
「さ、佐藤部長? どうしたんですか、そんな大声を出して……」
「いいから来いと言っているんだ!! 貴様らのせいで、会社が倒産するかもしれないんだぞ!!」
「と、倒産……!?」
翔太と美香は顔を見合わせ、訳が分からないまま佐藤部長に首根っこを掴まれ、冷房の効いたサーバー室へと連行された。
サーバー室の中は、異常な熱気に包まれていた。
数台の巨大なサーバーラックのランプが、危険を知らせる赤色で高速点滅しており、IT部門のエンジニアたちが「データベースの応答がありません!」「メモリ使用率99%、スワップ発生しています!」「ダメです、再起動してもすぐにプロセスがハングアップします!」と悲鳴のような報告を上げている。
「一体何が起きてるんですか……? というか、俺たち営業には関係ないですよね?」
翔太が不満げに尋ねると、佐藤部長は翔太の胸ぐらを思い切り掴み上げた。
「関係ないだと!? このシステム障害は、貴様が、結城先生を『底辺のフリーター』と愚弄して怒らせたから起きたんだ!!」
「は……? 結城? 結城って、まさか俺の元カノの凛のことですか?」
翔太が目を丸くする。
「元カノだろうが何だろうが知らん! 結城先生はな、うちのこのクソみたいな基幹システムを、たった一人で、文字通り寝る間も惜しんで維持してくださっていた【神様】なんだよ!! 先生の保守契約がなければ、うちは一瞬で受注も請求もストップする! それをお前のような無能な平社員が、私生活でハラスメントを働いたせいで、先生は激怒して今朝付けで契約を即時解除されたんだ!!」
「え……っ?」
翔太の顔から、スッと血の気が引いた。
「な、何を言ってるんですか。あいつはただの、家でパソコンをいじってるだけの……内職みたいなもんで……」
「馬鹿野郎!! 先生がうちからいくら報酬を貰っていると思っている! 月額二百五十万だ!! それだけの価値がある、日本でもトップクラスのエンジニアだ!! 先生の指先一つで、お前が自慢しているこの『安定した会社』の息の根は止まるんだよ!!」
月額、二百五十万。
自分の年収の半分近くを、彼女はたった一ヶ月で稼ぎ出していた。
翔太の頭の中で、自分が彼女に放った「寄生先を見つけろ」「俺が引っ越し費用を出してやる」という数々の暴言がフラッシュバックし、膝がガクガクと震え始めた。
「部長! 全国の物流センターからクレームの電話が殺到しています! 出庫指示データが抽出できません! トラックが出発できず、物流が完全にストップしました!!」
「クライアントのA社から、昨日発注した一億円分のデータが反映されていないと激怒されています!!」
サーバー室に次々と飛び込んでくる絶望的な報告。
「ひぃっ……」
美香が顔を覆ってその場にへたり込んだ。
「聞いているか、翔太。この数時間で生じた損害、そしてこれから生じるであろう数億、数十億円の損失。……すべて、お前たちのその腐ったプライドと暴言が引き起こしたものだ」
佐藤部長は、獲物を睨みつけるような冷酷な目で翔太を見下ろした。
「社長にはすでに報告済みだ。お前たちの懲戒解雇は免れないだろう。いや、それどころか、会社に与えた重大な損害に対する賠償請求が行われる可能性もある。覚悟しておくんだな」
「そ、そんな……俺は来月から係長に……エリートとして、美香と結婚を……」
「馬鹿め。お前の言うその『エリートの基盤』は、お前が見下していたフリーランスの女性が、たった一人で下支えしてやって初めて存在できていた虚像にすぎないんだよ」
翔太はその場に崩れ落ち、サーバーの発するけたたましいエラー音の中で、頭を抱えて絶叫した。
*****
数日後。
ニュースサイトの経済面には、『中堅物流企業ネクスト・ロジスティクス、深刻なシステム障害により全国で物流網が麻痺。取引先からの契約解除相次ぎ、経営危機の可能性も』という見出しが躍っていた。
私は、新しく買い替えた超高解像度のウルトラワイドモニターでその記事をチラリと眺めながら、淹れたてのコーヒーを口に運んだ。
翔太と美香は即日懲戒解雇となり、会社からの損害賠償から逃れるために実家に逃げ帰り、今は弁護士を立てて泥沼の責任のなすりつけ合いをしているらしい。
ネクスト・ロジスティクスからは、社長直々に「報酬を一千万円出すから戻ってきてほしい」という土下座のメールが届いたが、私は丁寧に辞退の返信を送った。一度壊れた信頼関係は、そう簡単には元には戻らないのだ。
「さて、と。次のクライアントからの依頼、さっそく取り掛かろうかな」
私の手元には、別の東証プライム上場企業から「月額三百万円で、うちのレガシーシステムを刷新するプロジェクトの顧問になってほしい」というオファーが届いている。
「底辺のフリーランス、ねえ」
私はキーボードに両手を置き、カチャカチャと軽快な音を立ててコードを打ち込み始めた。
誰にも依存せず、自分の腕一本で生きていく。
満員電車に乗ることも、理不尽な人間関係に縛られることもない。
このスウェット姿の自宅のデスクこそが、私にとっての世界最強の玉座なのだから。
それから半年が過ぎた。
季節は秋から春へと移り変わり、私のフリーランスとしてのキャリアはかつてないほどの絶頂期を迎えていた。
現在私がメインで顧問契約を結んでいる東証プライム上場のIT企業からは、完全にVIP待遇を受けている。基本はフルリモートだが、月に一度の定例会議のために出社した際は、役員直通のエレベーターを手配され、最高級のコーヒーが出される始末だ。
「結城先生。先生が基本設計を見直してくださったおかげで、新システムの稼働は極めて順調です。現場の残業時間も先月に比べて三割減少しました。本当に、何とお礼を申し上げたらよいか」
「いえ、私は契約通りのパフォーマンスを提供したまでですから。運用フェーズの自動化スクリプトも組み込んでおきましたので、来月からはさらに負荷が下がるはずですよ」
広々とした会議室で、プロジェクトマネージャーが拝むように私に頭を下げる。
技術と結果で正当に評価される世界。そこには「フリーター」だの「底辺」だのと見下すような、無知で愚かな人間は一人も存在しなかった。
会議を終え、私は珍しく都内のデパ地下に寄り道することにした。
いつもはネットスーパーで済ませているが、今日はプロジェクトの第一フェーズ完了の自分へのご褒美として、少し高級なお惣菜とワインを買って帰ろうと思ったのだ。
高級総菜のショーケースを眺め、財布を取り出そうとしたその時だった。
「……結城、凛?」
背後から、ひどく掠れた声で名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには薄汚れた作業着を着た、酷く痩せこけた男が立っていた。手には清掃用のモップとバケツを握りしめている。
ボサボサの髪に、落ち窪んだ目。
「……翔太?」
私は一瞬、誰か分からなかった。
かつて表参道のカフェで「社会的信用のある人間と家庭を築きたい」とオーダースーツ姿でイキっていた、あの翔太の面影は完全に消え失せていたからだ。
「ああ……凛、やっぱり凛だ……っ! 頼む、話を聞いてくれ!」
翔太は周りの目も気にせず、モップを放り出して私にすがりつこうとした。
私は反射的に数歩後ずさり、彼との間に物理的な距離を取った。
「あなたと話すことなんて何もありません。清掃中なら、お仕事の邪魔になりますから」
「違うんだ! 頼む、助けてくれ! 俺は……俺はもう限界なんだ……!」
彼の口からポツポツと語られた現状は、想像を絶する転落ぶりだった。
ネクスト・ロジスティクスのシステム障害は、最終的に数十億円という会社設立以来の特大の損失を計上し、経営層は総退陣。そして、その引き金となった翔太と美香は懲戒解雇されただけでなく、会社から「重大な過失および善管注意義務違反」として、億単位の損害賠償訴訟を起こされたらしい。
「美香のやつ、裁判になった途端に『全部翔太先輩に脅されてやった』って俺に責任を押し付けて、どっかに逃げやがったんだ……! 実家の親にも勘当されて、家も借りられなくて、今はネットカフェ暮らしで日雇いの清掃バイトをしてる……」
翔太の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちた。
「凛……お前、今、月に三百万稼いでるって聞いたぞ! なぁ、俺たち、結婚の約束までした仲じゃないか! 昔みたいに、またあの部屋で一緒に暮らそう! 借金の返済、少しでいいから手伝ってくれ! 俺、主夫としてお前のこと支えるから……!」
そのあまりにも虫のいい、そして自己中心的な要求に、私は怒りを通り越して乾いた笑いすら込み上げてきた。
「翔太。あなた、システムの世界で一番やってはいけないことが何か分かる?」
「え……?」
「**『バックアップを取らずに、本番環境のデータを削除すること』**よ」
私は冷ややかな目で見下ろした。
「あなたは、私という人間を『底辺』だと見下し、バックアップも代替案も用意しないまま、傲慢にも自分の手で削除(別れを告げる)した。その結果起きた致命的なクラッシュの責任は、すべて管理者であるあなた自身が負うべきものよ」
「そ、そんな……! 俺が悪かった、謝るから! だから……!」
「私の人生に、あなたを復元する権限はもう存在しないわ。二度と私の前に現れないで」
私は一切の感情を込めずにそう告げると、踵を返した。
背後で「凛ィィィィッ!!」という絶望の叫び声がデパ地下のフロアに響き渡ったが、すぐに警備員が数人がかりで彼を取り押さえる気配がした。
私は一度も振り返ることなく、予約していた高級フレンチのデリを受け取り、タクシー乗り場へと向かった。
*****
自宅のマンションに帰り着く。
広々としたリビングの奥には、私のお気に入りのワークスペースが広がっている。
新調した最高スペックのウルトラワイドモニター、人間工学に基づいた高級オフィスチェア、そして静音仕様のメカニカルキーボード。
「……はぁ、やっぱりここが一番落ち着くわ」
私はスウェットに着替え、すっぴんのまま椅子に深く腰を下ろした。
グラスに注いだ赤ワインを一口味わいながら、PCの電源を入れる。
黒い画面に白い文字列が高速で流れ、私の脳と世界中のネットワークがシームレスに接続されていくこの瞬間が、私はたまらなく好きだ。
誰かに依存しなくてもいい。
理不尽な肩書きでマウントを取られることもない。
確かな技術と実績さえあれば、この指先一つで世界中どこにいたって生きていける。
「さて、明日の要件定義書のレビューでも始めようかしら」
私はキーボードに両手を乗せ、軽やかなタイピング音を響かせ始めた。
画面の向こう側に広がる無限の論理空間は、過去の愚かな男の記憶など一瞬で上書きしてしまうほど、圧倒的に自由で、美しかった。




