2.
フランス北西・内陸部に位置するマウント・セルヌ。
7600メートル超の高度を有し、これまで誰一人として山頂を踏んだことのない、『前人未到』とされる山の1つ。
名の由来は、人々に信仰される古代の神。
自然や狩猟、そして選別をあらわす。
まだ幼い日、父の書斎で一緒に写真をみて以来。
登頂を目標に掲げた日から計画を進めた。
登山ガイドとして働きながらスキルを高め、その時を待ち続けた。
窓から遥か遠方に望むセルヌは、リサにとって言葉にできないほど綺麗に映る。
自然が形作る岩の稜線を想像する。
かすかに紫がかった色合い。
不思議。呼ばれているような気がしてくる。
ついに登頂できる日が来た。
静かな高揚に震えながら、リサは再び人工クラックに手を伸ばす。
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登頂1日目、快晴。
悪路を進む4駆の車両。さっきからタイヤが砂利を噛み、横滑りしている。
揺れ続ける車内で、リサは窓からの風景をじっと見つめていた。
山肌がはっきりと見える。セルヌの山頂は白銀だ。
頂上から、いったいどんな景色が見えるんだろう。
ただ、そこに立ち、見てみたい。そのために私は。
高度4200メートルほどの途中段階までは、機能している交通手段がある。
そこからは、最初にテント設営可能なポイントまで歩くルート計画だ。
途中、休憩を2度はさむ約7時間の道のり。
車を降りた瞬間、足元が少し浮く感覚がした。
心臓が速く、息が妙に浅い。
___急速に高度が上がり、身体の順応が追い付いていないせいか。
とはいえ、リサ自身が普段からガイドとしての荷運びや付き添いといった仕事を兼ね、麓と数百~数千メートルの高度がある地点を行き来する『高度順応』を繰り返しているからこそ、この程度で済んでいる。
日頃、十分な運動も登山もしない人間だったら、ここで高山病の症状が出てもおかしくない。
実際、ゲホゲホと咳き込み、またはふらつく人。
頭痛で座り込む人、急に吐きだす人もよく見かける。
この少し先に、複数の山々を眺める綺麗なポイントがある。
多くの人々がそこを目指して来ている。そして、引き返す。
リサは大きく息を吸い込み、吐くのを繰り返してから歩き始めた。
空は青く、高い。風に運ばれて、草の匂い。
気が遠くなりそうなほど、先は長いだろう。
でも、重たいはずのバックパックがちょっと軽く感じられる。
取りつけられたトレッキングベルがチリン、チリンと音を立てる。
ウィン、キュイン。
機械音。リサの少し後を、長尺のグレーのザイルを巻き付けた小型ドローンが宙に浮きながらついてくる。ベージュと深いワイン色の配色。
予算の関係もあって、だいぶ旧型だ。
けれど、彼女にとっては慣れ親しんできたこの相棒以外、選択肢はなかったようだ。
なじみの町工場のおやじさんに頼み、メンテだけは抜かりない。
気持ちがペース配分にでているのか、早足になるリサ。
早速、ドローンの姿を見失いかけた。
「遅いよ」
言葉をぶつけても、追随速度は変わらない。
「……まあいい、先は長いから」
____________
9日目、早朝4時。
昨夜、19時ごろにベースキャンプへ到着。
テントで温かい食べ物と白湯を取り、6時間眠った。
身体は高所の環境にほとんど順応している。
「よし、行こう」
リサが見据えているのは、高さ6メートル以上はあろうかという垂直にそそり立った岩壁。
これが、最初に乗り越えるべきハードル。
慣れない人は見ただけで、すくみあがりそうな光景だ。
けれど、彼女はワクワクしていた。
さっきから観察を重ね、おおよそのルートを決めてある。
巨大な岩の裂け目……クラックに両手を伸ばし、しっかりと掴む。
手の間隔は肩幅以上も取り、よけい安定した感がある。
右足を、腰ほどの位置にある丸みを帯びた大岩の上へ。
左足は、そう離れていないクラックにきちんとホールドされた。
(うん、これなら)
「ふッ……」
足で踏ん張り、重心を移動する。
右手がギリギリ届くと踏んだ岩の上まで、一気に伸びあがる。
ひんやりとした、岩の先端の感触。浅いけれど、大丈夫と判断した。
もう片方の手は、やや下に位置するくぼみを捉える。
さあ、次は?___素早く目を走らせた。
中ほどまで登ってきたところで、ドローンがピピピ、という音を出し始めた。
それとともに、オレンジ色のランプが点滅する。
リサの『体力低下』を知らせる合図だ。
「まだ大丈夫だよ……」
しぶしぶといった様子で、ピトンを取り出す。
自己回転の機能が備わっているから、位置決めをして最初だけグッと押しこめばいい。
ニブい音が、すぐに澄んだ高音に変わる。かすかに火花が散る。
岩にしっかりと固定された証。
青いザイルをかけたカラビナで、身体を固定。
体重を預けて体力を回復させる。
「ふうぅ」
ピトンは便利。でも、岩に穴をあけるのはどうしても好きになれない。
自然を傷つけたくないから。
再び大岩にできたクラックに手を伸ばす。
淡々と、慎重に足場を選び垂直の岩壁を越えることができた。
呼吸を整え、辺りを見回すと丈のある草が茂り、風にそよいでいる。
細長いバッタが、背負っているバックパックをかすめて飛んだ。
案内板に近づく。この辺りはもう何度もきている。
でも、ちゃんと読むのは初めてかも。
付近に見られる動物の種類。そして登山者への通行止めなどの注意書きだ。
「ふーん、リスにイタチか」
木々や岩に渡された、白いロープを目印に歩いていく。
途中、黄色い花をつけたタンポポと、アザミを見つけて摘んでおいた。
タンポポは根を取らないようにして、葉も何枚か。アザミは花や茎にあるトゲを取り除いた。
……指先にいくつも切り傷ができているけど、このくらいは気にもならない。
ただ___さっき、野草を取ろうとしたら、数メートルほど先の木陰に大きな角のある鹿のような生き物がいた。
リサが気づくより遥かに早く、視線に捉えられていたと思う。
静かで、神秘的な眼差し。
でも、知らずに近づいていたらどうなったか分からない。
クマよけにもなるというトレッキングベルがあってよかった。
これは、友人のイネスが贈ってくれたものだ。
野草は、だいぶ迂回をして手に入れることができた。
2つ目の岩場までもそう離れていないようだ。
岩が段々になっているし、時間もさっきより短縮できそうに見えた。
気力を奮い立たせたいのか、リサは大きく息を吐き、登り始める。
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