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静寂の彼方へ  作者: 宙子
1/6

1.


 土砂の混じりの色をした横殴りの雪がドサドサと吹き付け、一帯がけぶっている。

 正確なところは不明だが、気温はマイナス20度をさらに下回る。


 中央の広大な雪原は、青みを帯びたアイスピラーが判別しづらい深い窪地をつくり、まるで海のようにも見えている。



 白い雪が覆い隠す、急な角度のついた傾斜をリサはただ一人、よろめきながら歩いていた。


「…………ハァー、ハァ」


 荒い息をつきながら見上げると、かすむ視界に入る。

 セルヌの頂が、これまでで最も近い。



 なんて きれい 、 なんだろ 。



 見たことのないグリーンに縁どられうっすらと輝くアイスフォール。

 ゴツゴツとした岩肌との対比。


 高度7520m超のこの環境には、自然の凄まじい造形美と人を寄せ付けない過酷さが共存している。



 酸素濃度は、麓に比して約3分の1。

 生物は生命活動を営むことが極めて難しく、急激に予想外のことが起こる。


 彼女はもう自覚できていないが、思考力・判断力、そして身体能力の大半を削り取られた、極限の状態だ。



 ___ドク ン! !!



 激しい心臓の鼓動で、胸が痛い。呼吸が止まる。

 視界がぶれ、目がかすむ。



 よろめき、倒れる。頭を低くして息をつく。


「ウッ……ァ」



 再び顔をあげた時、数メートル先に得体のしれない何かがフッと見えた。


( ……!?)


 反射的に叫ぶ。

 が、声は一瞬で豪風に絡めとられ、頭に反響して消えた。


 体力を消耗するだけの自殺行為。

 もはや判断がつかないのかもしれない。



 のろりと歩くうちに、世界は少しずつ元の色を取り戻す。

 わずかに残った『目的の場所を目指し続ける』クライマーの意思だけが、リサを支えている。




 _____________


 203X年、5月。快晴。


 クライミングジム・アルティトゥード

 フランス北西部の辺鄙なこの地域で唯一、本格的な設備のそろった施設だ。


 2年前に単身移住して以来、通いつめるリサにとってはなじみの風景。



 早朝のピンとはったような空気のなか、リサは人工クラックをめがけ手足を運ぶ。

 目指すのは、最上部にある小さなパープルカラーのホールド。



 自然に切り立つ岩壁を想定して作られたこの壁はほぼ垂直。

 それどころか上へ行くにつれ張りだす勾配がつきで、手足をかける窪みも浅い。


 ホールドは大小さまざま。平べったい大岩を模したものもある。

 難易度の高さから、挑戦できる人もごく少数だ。



 人のまばらな屋内にタンッ、と音が響く。

 滑らかなホールドに足がしっかりとかかった感触。


 意志の強さを宿す、ブラウンの瞳。スッと通った鼻すじ。

 日差しに焼けた小麦色の肌。

 サンカットスプレーだけを施した皮膚はやや赤みを帯び、頬には薄いそばかすが散っている。



「___あなた、朝からずっとだよね。もっと身体を考えないとケガするよ」


 呆れぎみに声を掛けられたのは、一昨日だったか。

 ジムに勤めるベテランスタッフの女性だ。



 でも私は疲れていないし、身体もちゃんとついてきてる。あともう少し。


「ハッ……」


 ホールドを握りこんでいたはずの手が滑り、落ちた。

 しまった!チョークの効果が切れたんだ。


 ほとんど同時に、右足もだらんと下がった。


 支えを失った身体を立て直そうと、残った手足にグッと力を込めた。

 息が苦しくなり、冷たい汗が頬を伝う。


 ……滑るホールドを何とかもう一度とらえようとあがく。

 しかし、足は虚しく空を切り、体重を支える腕がガクガク震える。


「ああ!」


 ___落ちた。一瞬逆さまになり、宙を蹴る。



 さっき、ピトンを打っていたからザイルにぶら下がることに。

 でも、3メートルは低い位置からの再スタートだ。



 サポート役の小型ドローンが、下の方でザイルを引っ張るのが見える。


「……はぁ」


 すぐにザイルを掴み、ほぼ自力でピトンの位置までのぼる。



 ビレイ解除。手足の疲れが回復するのを待つ。



 腰に提げたバッグから多めに取り出したチョークを、両手にはたく。

 白い煙が舞うなか、すぐに窪みに手を伸ばした。


(さっきより、着実に行く!)




 神経を集中させ、ルート取りを正確に。そこからは早かった。


 到達の感触を確かめ、滑り降りる。

 



 急な仕事が入り、練習を中断して駆けつけることになった。


 ようやくひと仕事終えた頃には、もう月がはっきりと見えている。これからリサはまたジムに戻るようだ。その道すがら。


 携帯している機器からガッ、とノイズが聞こえた。


「……た、やったぞ、ようやくだ。

 スポンサー様が、ようやく首をタテに振ったんだ。

 これであの超偉大なセルヌに挑めるぞ!!フーー!

 ん?おい、聞こえてるか?俺だよ、トニーだ」



「そう、分かったよ。……どうも」


 声の主の熱量が最高潮なことに反し、どこか冷めた様子のリサ。

 この男は毎度この調子だし、こんなものか。とも思う。


「おいおい、もっとこのトニー様に感謝してくれてもいいんだぜ」


 なかなか話を切り上げようとしない。

 自分の仕事ぶりがいかに素晴らしいか、スポンサーとのやり取り……。



 ああー、今にも欠伸がでそう。


 ひと通りしゃべったトニーは、一応は満足したのか、ようやく通信が切れた。



 リサは少しの間、瞼を閉じる。

 幸い、温まっている身体が後ろ向きな考えを吹き飛ばす。



 ジムに戻ってきた。


 仕切り直そう。慣れた手つきで、サッと髪を低い位置でまとめた。



 彼女には焦がれ続けた山、セルヌの頂しか見えていない。



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