1.
土砂の混じりの色をした横殴りの雪がドサドサと吹き付け、一帯がけぶっている。
正確なところは不明だが、気温はマイナス20度をさらに下回る。
中央の広大な雪原は、青みを帯びたアイスピラーが判別しづらい深い窪地をつくり、まるで海のようにも見えている。
白い雪が覆い隠す、急な角度のついた傾斜をリサはただ一人、よろめきながら歩いていた。
「…………ハァー、ハァ」
荒い息をつきながら見上げると、かすむ視界に入る。
セルヌの頂が、これまでで最も近い。
なんて きれい 、 なんだろ 。
見たことのないグリーンに縁どられうっすらと輝くアイスフォール。
ゴツゴツとした岩肌との対比。
高度7520m超のこの環境には、自然の凄まじい造形美と人を寄せ付けない過酷さが共存している。
酸素濃度は、麓に比して約3分の1。
生物は生命活動を営むことが極めて難しく、急激に予想外のことが起こる。
彼女はもう自覚できていないが、思考力・判断力、そして身体能力の大半を削り取られた、極限の状態だ。
___ドク ン! !!
激しい心臓の鼓動で、胸が痛い。呼吸が止まる。
視界がぶれ、目がかすむ。
よろめき、倒れる。頭を低くして息をつく。
「ウッ……ァ」
再び顔をあげた時、数メートル先に得体のしれない何かがフッと見えた。
( ……!?)
反射的に叫ぶ。
が、声は一瞬で豪風に絡めとられ、頭に反響して消えた。
体力を消耗するだけの自殺行為。
もはや判断がつかないのかもしれない。
のろりと歩くうちに、世界は少しずつ元の色を取り戻す。
わずかに残った『目的の場所を目指し続ける』クライマーの意思だけが、リサを支えている。
_____________
203X年、5月。快晴。
クライミングジム・アルティトゥード
フランス北西部の辺鄙なこの地域で唯一、本格的な設備のそろった施設だ。
2年前に単身移住して以来、通いつめるリサにとってはなじみの風景。
早朝のピンとはったような空気のなか、リサは人工クラックをめがけ手足を運ぶ。
目指すのは、最上部にある小さなパープルカラーのホールド。
自然に切り立つ岩壁を想定して作られたこの壁はほぼ垂直。
それどころか上へ行くにつれ張りだす勾配がつきで、手足をかける窪みも浅い。
ホールドは大小さまざま。平べったい大岩を模したものもある。
難易度の高さから、挑戦できる人もごく少数だ。
人のまばらな屋内にタンッ、と音が響く。
滑らかなホールドに足がしっかりとかかった感触。
意志の強さを宿す、ブラウンの瞳。スッと通った鼻すじ。
日差しに焼けた小麦色の肌。
サンカットスプレーだけを施した皮膚はやや赤みを帯び、頬には薄いそばかすが散っている。
「___あなた、朝からずっとだよね。もっと身体を考えないとケガするよ」
呆れぎみに声を掛けられたのは、一昨日だったか。
ジムに勤めるベテランスタッフの女性だ。
でも私は疲れていないし、身体もちゃんとついてきてる。あともう少し。
「ハッ……」
ホールドを握りこんでいたはずの手が滑り、落ちた。
しまった!チョークの効果が切れたんだ。
ほとんど同時に、右足もだらんと下がった。
支えを失った身体を立て直そうと、残った手足にグッと力を込めた。
息が苦しくなり、冷たい汗が頬を伝う。
……滑るホールドを何とかもう一度とらえようとあがく。
しかし、足は虚しく空を切り、体重を支える腕がガクガク震える。
「ああ!」
___落ちた。一瞬逆さまになり、宙を蹴る。
さっき、ピトンを打っていたからザイルにぶら下がることに。
でも、3メートルは低い位置からの再スタートだ。
サポート役の小型ドローンが、下の方でザイルを引っ張るのが見える。
「……はぁ」
すぐにザイルを掴み、ほぼ自力でピトンの位置までのぼる。
ビレイ解除。手足の疲れが回復するのを待つ。
腰に提げたバッグから多めに取り出したチョークを、両手にはたく。
白い煙が舞うなか、すぐに窪みに手を伸ばした。
(さっきより、着実に行く!)
神経を集中させ、ルート取りを正確に。そこからは早かった。
到達の感触を確かめ、滑り降りる。
急な仕事が入り、練習を中断して駆けつけることになった。
ようやくひと仕事終えた頃には、もう月がはっきりと見えている。これからリサはまたジムに戻るようだ。その道すがら。
携帯している機器からガッ、とノイズが聞こえた。
「……た、やったぞ、ようやくだ。
スポンサー様が、ようやく首をタテに振ったんだ。
これであの超偉大なセルヌに挑めるぞ!!フーー!
ん?おい、聞こえてるか?俺だよ、トニーだ」
「そう、分かったよ。……どうも」
声の主の熱量が最高潮なことに反し、どこか冷めた様子のリサ。
この男は毎度この調子だし、こんなものか。とも思う。
「おいおい、もっとこのトニー様に感謝してくれてもいいんだぜ」
なかなか話を切り上げようとしない。
自分の仕事ぶりがいかに素晴らしいか、スポンサーとのやり取り……。
ああー、今にも欠伸がでそう。
ひと通りしゃべったトニーは、一応は満足したのか、ようやく通信が切れた。
リサは少しの間、瞼を閉じる。
幸い、温まっている身体が後ろ向きな考えを吹き飛ばす。
ジムに戻ってきた。
仕切り直そう。慣れた手つきで、サッと髪を低い位置でまとめた。
彼女には焦がれ続けた山、セルヌの頂しか見えていない。
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