第三話 起きない災い
村の朝は、静かだった。
鶏の鳴き声と、木の軋む音。
遠くで誰かが井戸を引く水音が聞こえる。
――平和だ。
異様なほどに。
この村は、森と山に挟まれた辺境にある。
本来なら、魔獣被害や作物被害が絶えない場所だと聞いた。
だが、俺が生まれてからというもの、
その“本来”が一度も訪れていない。
「今年は豊作だなあ」
「鹿も猪も、近寄らなくなった」
「森が静かすぎるくらいだ」
大人たちはそう言って、笑っている。
誰も不安がらない。
むしろ、運が向いてきたのだと喜んでいた。
俺は、母親の腕の中から空を見上げていた。
雲ひとつない、澄み切った青。
……前の世界では、戦いの前ほど、空は濁っていた。
嫌な予感が胸をよぎる。
⸻
その日は、山から風が強く吹いていた。
木々が揺れ、葉擦れの音がざわざわと重なる。
「嵐が来るかもしれんな」
村長が空を見て、そう言った。
「今年は天気が安定してたからな。
そろそろ荒れてもおかしくない」
経験からくる判断だった。
だから村人たちは、家の戸を補強し、
家畜を納屋に入れ、備えを始めた。
――本来なら。
夕方になるにつれ、雲は厚くなった。
遠くで雷鳴も聞こえた。
誰もが、今夜は荒れると思っていた。
だが。
夜になっても、雨は降らなかった。
風も、止んだ。
不自然なほど、ぴたりと。
「……おかしいな」
見張り台に立っていた青年が、首を傾げる。
「さっきまで、あんなに風があったのに」
空を見上げると、雲が――
村を避けるように、左右に割れていた。
まるで、ここだけを通らないように。
翌朝。
山の向こうの村が、土砂崩れで半壊したと知らされた。
「……うちは?」
「無傷だ」
使者の言葉に、誰もが息を呑んだ。
距離はほとんど変わらない。
地形も似通っている。
なのに、被害は“向こうだけ”。
「運がよかったな……」
そう言うしかなかった。
誰も、理由を考えなかった。
⸻
数日後。
今度は、疫病の噂が届いた。
隣領で高熱と咳が流行り、
死者も出始めているという。
「人の行き来を止めよう」
「井戸の水は煮沸だ」
村は素早く動いた。
だが、不思議なことに――
誰一人、体調を崩さなかった。
子供も、老人も。
熱も出ない。
咳も出ない。
「……免疫が強いのか?」
「いや、そんな話は聞いたことがない」
村の古老が、ぽつりと呟いた。
「わしが若い頃も、こんなことはなかった」
その視線が、一瞬だけ――
俺の方に向いた気がした。
だが、すぐに逸らされる。
誰も口には出さない。
出さないまま、日常が続く。
⸻
赤ん坊の俺には、できることがほとんどない。
泣く。
眠る。
抱かれる。
それだけだ。
それなのに。
俺が熱を出さない日ほど、村は穏やかだった。
俺がよく眠った夜ほど、翌日は何事も起きなかった。
まるで――
俺の状態が、村の運命を左右しているみたいだった。
「……気のせいだ」
そう言い聞かせる。
だが、戦場で何度も味わったあの感覚が、
ここでも確かに存在している。
“もう終わった”という予兆。
戦いが起きる前に、終わる。
誰も剣を抜かないまま、終わる。
結果だけが、先に決まる。
「……同じだ」
ここは違う世界のはずなのに。
⸻
ある日の昼下がり。
母親が洗濯物を干していると、
突然、地面がわずかに揺れた。
「地震……?」
村人たちが顔を上げる。
ほんの一瞬。
だが確かに揺れた。
「山が崩れるかもしれん!」
誰かが叫び、村は一斉に外へ出た。
俺も母に抱かれたまま、広場へ集まる。
皆が山の方を見つめる中――
揺れは、それ以上大きくならなかった。
数分後、完全に止まった。
後に分かったことだが、
山の反対側では大規模な崩落が起きていたという。
やはり、村だけが無事だった。
誰かが笑った。
「本当に……奇跡みたいだな」
笑い声が広がる。
安堵の笑顔。
俺は、その光景を見つめながら、
胸の奥が冷えていくのを感じていた。
奇跡じゃない。
これは――
勝利のあとに起きる、
“何も起きなかった”という結果だ。
敵も、被害も、犠牲も。
すべてが、最初から存在しなかったことになる。
「……俺が、ここにいるせいで」
声にはならない。
もしこの力が、前の世界と同じなら――
いずれ、何かが歪む。
そう思った瞬間。
母が俺の額に、優しく頬を寄せた。
「大丈夫。あなたが来てから、この村は幸せよ」
その言葉が、何より重かった。
守っているのか。
壊しているのか。
俺には、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは。
この村では、
“起きるはずの災い”が、すべて起きていないということだった。
そしてそれが――
これから先、俺が旅に出る理由になる。
そんな予感だけが、胸に残っていた。
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