第3話 帳場に残る声
山あいの温泉地に、観光客の姿はほとんどなかった。
今川昇太は小さな旅館の前でキャリーバッグを止め、建物を見上げる。
暖簾は出ている。
だが、呼び込む力がない。
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帳場に入ると、女将が一人、帳簿をめくっていた。
「本日はお世話になります。今川です」
「……ええ、聞いております」
声は丁寧だが、どこか遠い。
この旅館は、赤字ではなかった。
それでも、確実に“下って”いた。
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昇太は、あえて宿泊客として一晩泊まることにした。
部屋は清潔で、湯も悪くない。料理も、手が込んでいる。
——なのに、心に残らない。
夕食後、帳場の前を通ると、誰もいないはずの廊下で足音がした。
女将が、昔の帳場に向かって小さく話しかけている。
「……お父さんなら、どう言う?」
昇太は、聞かなかったふりをした。
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翌朝。
ラジオ体操を終え、昇太は帳場に女将を呼んだ。
「この旅館、何をやめたか覚えていますか」
女将は驚いた顔をした。
「やめた……?」
「声です」
昇太は静かに言う。
「帳場で、お客さんに話しかける声」
数字を追うあまり、効率を重ね、
気づけば“人の温度”を切り落としていた。
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昼過ぎ。
昇太は従業員を集め、たった一つだけ提案した。
「今日から、チェックイン時に三十秒、雑談をしてください」
決まりはそれだけ。
マニュアルも、評価表も作らない。
「帳場は、情報を処理する場所じゃありません」
「安心を渡す場所です」
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夕方。
最初に来た宿泊客に、女将は少しだけ笑った。
「遠いところ、お疲れさまでしたね」
その一言で、空気がほどけた。
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帰りのバス停。
昇太はキャリーバッグを足元に置き、山を見上げる。
旅館は、直さなくていい。
思い出すだけでいい。
再生ではなく、回復。
それが、この場所に必要なすべてだった。
バスが来る。
昇太は振り返らず、次の町へ向かった。




