平民から男爵令嬢になった私が、逃げたら捕獲された話
むかしむかし。とある貴族の若者が屋敷に仕えていたメイドと密やかな恋に落ちた。
しかし、男にはすでに、家の決めた婚約者がいた。
身分の隔たりは越えがたく、メイドは自ら身を引き、屋敷を去った。
やがてメイドは町はずれの小さな家で娘を産み、慎ましく暮らし始めた。
だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。
娘が十二を迎えた頃、メイドと男の正妻が、ほぼ同じ時期に病に倒れたのだ。
男は、二つの別れを経てようやく、過去と向き合う覚悟を決めた。
そして、亡き女へのせめてもの償いとして、娘を迎え入れた。
「かつて屋敷に仕えていた者との間に、一人娘がいる」
娘は手続きを経て、『男爵令嬢』の立場を得た。
出自は隠されず、社交界では「男爵がメイドの子を家に入れた」と小声で言い交わされた。
男は娘を想い、貴族子女の学園へ入れることにした。
娘は、父の名に恥じぬよう懸命に努めた。
だが、市井の暮らしで染みついた所作は簡単には変わらない。
姿勢に、言葉遣いに、笑い方までもが、「育ちが知れる」と陰で言われた。
それでも娘は今日も、下品と囁かれながら、高爵位の令息の目を引く為に媚びを売っている。
と、人々は面白可笑しくピーチクパーチクと姦しく噂する。
──はい。この『噂話』に登場する娘、それが私、ジア・ガスカースです。
語られていることの半分は嘘にもかかわらず、世間ではそれが本当になっている。
まず、父(と呼びたくないので以降『男爵』と呼ぶ)と母が恋に落ちたのは嘘。男爵の暴走と妄想。
母が自ら身を引いたってのも、嘘。
実際は、追い出された。
町はずれの小さな家で慎ましく暮らしてたってのは本当。
ささやかながら、けっこう幸せに暮らしてた。
裕福ではなかったけど、母は刺繍が上手で、私もそこそこ腕が立ったから、たまにはお菓子も買えたしね。
私が十二歳のときに母と、ガスカース男爵夫人が亡くなったのも本当。
亡き女への償いだなんてのは、嘘っぱち。
都合よく使う為に引き取っただけ。
男爵が娘を想って学園に入れたのも嘘。でも、入学自体は本当。
折檻のような教育を受けさせられ、十六歳で貴族子女の学園に放り込まれた。四年制の学園で、今は二年生の十七歳。
父の名に恥じぬよう懸命に努めたってのも、嘘。
だけど、市井での暮らしで染みついた所作が簡単には変わらないってのは本当。
私が「下品」って陰口を叩かれてるのも本当。
そして、高爵位の令息の目を引く為に媚びを売っている──これも、残念ながら本当。
当然、媚びを売る理由はある。
なんてったって、カスカース男爵にミッションを与えられているから。
「公爵家、もしくは侯爵家、あるいは伯爵家の子息を誘惑しろ。そして、既成事実を作り、責任を取らせるという言質を取ってこい」
ですってよ。
驚きのカス発言だよね。
では、なぜ私が言いなりに媚びを売っているのか、って?
失敗すれば、五十も年上の好色なジジイの玩具にされるから。
妻でも愛人でもなく、玩具。つまり、奴隷だ。
三度ほど顔を合わせたそのジジイは、女が思う『生理的に無理』を十倍濃縮した煮凝りみたいな男で、例に漏れず、私も「おえっ」以外の感想がなかった。
会話したときの、ジトッとした目も、喋り方も、息遣いも全部が無理だけど、いかんせん、奴は金持ちで、カス男爵に金を貸している人物だった。
カス男爵が私に高爵位の令息と既成事実を作れと言うのは、もちのろん、親心ではない。
あのジジイに頭を下げるのに嫌気がさしているからに決まっている。
要は、カスから見ても不愉快なジジイってことだ。
私を売ってあの男と『縁』を結ぶようなことは避けたいし、あいつに一泡食わせてやりたいんだろうな。
それに、男爵は、私が高爵位の令息と結婚すれば実家の借金が片付く魂胆を持ってるんだよ。
はあ、まじカス。
そんなわけで私には選択肢がなかった。
生理的に無理を十倍に凝縮したジジイか、高爵位の令息か──
そんなの、考えるまでもないでしょ?
生きる為には、それしかなかった。
だから私は、今日も「きゅるるん」という効果音を背負って、目を付けた侯爵家令息に粉をかけたり、愛想を振りまいたり、媚びを売っている。
「ウォーレス、おはよう!」
待ち伏せしていた廊下で、彼──ウォーレス・ウォロノフに駆け寄る私の笑顔は、きっとめっちゃ可愛い。
まあ、この顔だから利用価値云々とかで引き取られたんだけどね。
そういうわけで、私は自分が可愛いのは自覚してるんだな、これが。
「よう、ジア。今日もうるせえなあ」
「元気って言ってよ」
ウォーレスの家は侯爵だけど、彼の家が礼よりも武を重んじる家系だからか、気取った喋り方じゃなくて話しやすい。
あ、礼儀がなってないってことじゃないよ? ウォーレスってば、食事の仕方がすっごい綺麗なんだから。
「もう少しで剣術大会だね」
「だな。ようやく一か月切った。早く試合したくてたまんねえよ」
「私、応援行くね」
「おう」
ニカッと白い歯を見せて笑うウォーレスに、口角が上がる。
いつも遅くまで練習している彼に、悔いのない結果が訪れることを願ってやまない。
そして、私にも憧れがあったりする。
学園の騎士科主催の剣術大会では、優勝者が意中の令嬢に優勝旗を贈るのが習わしなんだけど、そのときに私も優勝旗を貰えたらいいなあ、なんてこっそり思ったりしてる。
貰えたら、幸せなんだろうな。嬉しいだろうな。
そんなことを思っていると、廊下の先の柱の陰で三人組の令嬢たちがこそこそ何かを言っているのが見えた。「また言い寄ってる」「下品な女」なんて言っているのだろう。たぶん。いや、絶対。
彼女たちには、学園に入ってすぐ呼び出されて、『注意』をされた。ウォーレスってば、顔も性格もいい侯爵家令息だからモテるんだよね。
曰く、私は「身の程知らず」なんだそうだ。
そこで言い返さなければよかったのに、言い返したのが悪かった。
その日から、嫌がらせが始まった。
もっとも、お嬢様方の嫌がらせなんて可愛いものだった。
だって虫を机の中に入れるくらいだし?
でも、そんなのは平気なんだよ~。なんせ下品な平民育ちなのでね~。
「ね、優勝したら、優勝旗、私にちょうだい?」
「ばあか、なんで俺の優勝旗をジアにやらなきゃならないんだよ」
「え~? ウォーレスってば知らないの?」
「あ? 何をだ?」
本気で知らないらしい。
「はあ、脳筋だねえ」
「るせえなあ」
──思えば、この瞬間が、一番幸せだった。
あの日から、まだ一年しか経っていないのに、何年も前のことのように感じる。
今の私は、国境近くの教会で暮らしている。
◇
剣術大会を一週間後に控えたその日、私はカス男爵に左頬をひっぱたかれていた。
本当のことを言われると、人間は本気でキレる生き物だと、このときに改めて知った。
──「できるわけないでしょ、おっさん馬鹿なの?」と、言っちまったのだ。えへ。
ひりつく頬を押さえながら、私は男爵を心のどこかで冷静に観察していた。
奴は顔を真っ赤にして、「いいから、早く既成事実を作れ!」と品のないことを叫んだ。
怒鳴りながらも、その目は焦っていた。虚勢で自分を保っているのが見て取れた。
もう金が本当にないのだろう。そして、ジジイへ頭を下げたくないのだろう。
……さっさとジジイに私を売らないのは、買いたたかれているからだろうか?
私は、自分のことが少し憐れに思えた。
こんな奴の血が自分に混ざっているなんて、絶望でしかないでしょ?
踏んだり蹴ったりだと思って、ちょっと泣きそうだった。正直言って、弱ってた。
口の中が切れて、血の味がして気持ち悪かったし。さすがの私も凹んでた。
そして、そんなブルーな気持ちのまま登校すると、例の悪口三人娘に囲まれた。
いつもの彼女たちとは雰囲気が違っていた。
やけに余裕があり、まるで山の頂上にでも君臨しているような顔で私を見下ろしていた。
そんな小さな山からマウンティングしてどうするの?
などと思いながらも、私は彼女たちの話にまんまと落ち込まされた。
「ほら、ここから見えるでしょ。ウォロノフ侯爵令息と、ご令嬢が歩いているのが」
指を差された先。窓の向こうに見えるのは、ウォーレスが可憐なご令嬢を馬車からエスコートするシーンだった。
そう、シーンだった。
まるで物語のような、美しいワンシーン。
「あの方がウォロノフ侯爵令息のご婚約者様よ」
「あれを見てもまだ付きまとう気?」
彼に、婚約者はいない。
そう、本人から聞いていた……。
「知らないあなたに教えてあげるわ。この間、正式に決まったのよ!」
「……」
私は、今朝も鏡の前で笑顔を作り、髪飾りと香りを選んだ。『任務』と自分に言い聞かせて。
カス男爵の借金、命令、既成事実。
全部、頭の中で繰り返した。
だからこそ、胸の奥が沈んだ。
私がやろうとしていたのは、誰かの幸せを奪うことだったのだと、はっきり分かった。
彼は、色恋の類に疎くて、剣と夕食のことが最重要な脳筋で──
計算のない笑顔と気取らない喋り方で、浮いている私に普通に話しかけてくれた。
女に手の早い、評判の悪い子爵令息からさりげなく庇ってくれた。
私の刺繍入りのハンカチを本気で褒めてくれた。喜んでくれた。
その相手を、私は『標的』と思っていた。
窓辺から目を離せずにいる間にも、彼は令嬢に微笑んでいる。
令嬢は、絵のように整った所作だった。私の即席のマナーではない、本物の品格を持っていた。
私は、指先に残る香水の匂いを握りつぶした。
「任務だから」の言い訳が、急に薄っぺらく思えた。
それでも、頭の中では繰り返していた──既成事実を作れ。失敗すれば、あのジジイの玩具だ。
けれど、足は動かなかった。
窓越しに二人を見ていると、自分がひどく醜く思えた。
ああ、私は恋していたんだなあ、と気付いたのはこのときだった。
好きになっちゃ、いけなかった。
……好きになりたくなかった。
どうせなら、「奪ってやる」と思える悪女になりたかった。
カスの血を継いでいるのなら……。
──そして、私は逃げだした。
着の身着のまま王都を出て、手持ちの金で辻馬車を乗り継ぎ、やがて金が尽きると三日三晩歩き続けた。
夜露に濡れた石畳は滑りやすく、靴底はすり減り、灯の見える民家の扉を叩く勇気も出なかった。
ようやく辿り着いた教会の門前で、力尽きて倒れ込んだ。
平民育ちの足は粘ったが、皮が剥け、爪から血が滲んでいた。
私は、シスターに頼み込み、新しい名『アシュテン』と名乗り、教会に住まわせてもらうことになった。
学園は退学扱いになっているだろうけど、もう関係なかった。
ジアという名は、捨てた。
噂にならないよう、母譲りの自慢の金髪も染めた。
流れの薬売りから買った安い染料だったけれど、粗悪品ではなく、むらなく染まった。
今の私は、黒髪のアシュテンだ。
シスターには『訳アリ』と思われているだろうが、彼女は何も聞かなかった。
何日も眠って、体が動くようになった頃、ようやく手伝いを始めた。
私の仕事はもっぱら元気すぎる子供たちと遊ぶことだった。
でも遊ぶだけじゃない。字も計算も、女の子には刺繍も教えた。
男爵家に行って良かったことは、多少の学が身についたことだろう。
私の学んだことは、子供たちの未来に繋がる。
そう思えば、自分の存在に意味がある気がした。
教会での暮らし。
子供たちの笑い声、朝の祈り。
日々は穏やかで、変わらない。
ただ、たまに。
そう、たまに、夜が怖かった。
男爵が自分を探しに来るかもしれない恐怖。
母が死んだ夜の記憶。
家鳴りが足音に聞こえ、風の音に心がざわめいた。
「ここは安全なはず」と何度も自分に言い聞かせても、不安は消えない。
早く、もっともっと時間が過ぎてほしいと思った。
すべてのことは、時間が解決してくれるから。
◇
その夜、風の響きがいつもより重く感じられた。
窓の外で犬が遠く吠え、教会の古びた扉が、ぎい、と悲鳴をあげる。
「?」
最初は夢だと思った。
けれど、軋みは二度、三度。
やがて、きしみが止み、廊下を踏む靴の響きへと変わった。
こんな時間に、誰が……?
胸の奥がひやりと冷たくなる。
足音は近付き、止まった。
私の部屋の前で?
ドアノブがゆっくりと回る音がして、私は息を殺した。
開いた隙間から、低い声が漏れた。
「見つけたぞ、小娘」
その声を、忘れられるわけがない。
喉が凍りつき、体が動かなかった。
次の瞬間、腕を掴まれ、口を塞がれた。
叫びたくても声が出ない。
教会の奥で、誰かが蝋燭を落としたような音がした。
でも、誰も来なかった。
夜気と汗が肌を冷やす。
視界が霞み、意識が沈んでいった。
◇
目を覚ましたとき、空気が冷たかった。
重たい香が鼻を刺す。
どこかで焚かれている香木の匂い。
ぼんやりとした視界の先には、金の飾りのついた天蓋、艶のない絹のカーテン。
豪奢なのに、息が詰まるほど静かだった。
外の光は遮られ、蝋燭の灯りだけが、床に長い影を落としている。
頭が痛い。何か嗅がされたせいだろう。
軽い吐き気と眩暈がして、手の先が痺れていた。
手足は自由だけど、扉には外から錠がかかっている。
叩いても、叫んでも、返事はない。
そもそも力が入らず、大声も出せない。
すぐに息が上がって座り込んでしまう。
壁の向こうで、何かが落ちるような音がした。
幻聴だろうか。怒号?
怒鳴り声も聞こえた……気がした。
そのたびに心臓が跳ねる。
ここがどこなのかも分からない。
けれど、あの声だけは、耳の奥にこびりついて離れなかった──「見つけたぞ、小娘」
夢でも幻でもない。
ジジイが、私を見つけたのだ。私はとうとう、捕まった。
足音が一つ、また一つ。
床板が鳴るたび、息が浅くなる。
甘いようで苦い香が喉に張りついて、息が苦しい。
足音が止まった。すぐ向こう側だ。
影が動いた気がして、背筋が凍る。
「くそジジイ……」
手は動かせなくても、歯がある。
喉笛に噛みついてやる。
私はめそめそ泣いたりしない。
大人しくやられてたまるもんか。
最後まで抗ってやる。
戦ってやる!
決意と同時に、扉の前で、閂が外れた音がして、乱暴にドアが開いた。
「ジア!」
「……?」
「無事か!?」
聞きたかった声だった。
夢か、幻か。
いや──
「なあんだ、ここは、てんごくだったのかあ」
「はあ? 天国? ああ、くそ……薬、嗅がされてるのか? おい、ジア、俺が分かるか?」
ウォーレスの手が、私の頬に触れた。
温かい。
よかった。
私は天国にいるんだ。
それで、私を憐れんだ神様が、嫌な記憶を消して、代わりにご褒美を見せてくれてるんだ。
ウォーレス、顔が大人っぽくなってる。
記憶のまんまじゃない。
でも嬉しい。
神様、ありがとうございます。
アーメン。もう思い残すことはありません。
「ジア、しっかりしろ!」
声が遠くなったり近付いたりして、現実と夢の境目みたいだった。
けれど、一拍後、ウォーレスの手の温度が現実を引き戻した。
「ここは天国じゃねえ、地獄の真ん中だ! 俺はお前を助けに来たんだよ!」
火の匂い。
誰かの叫び声。
何かが割れる音。
ウォーレスの腕の力は、現実だった。
「……うそ、ほんとに、ほんもの? うぉーれす?」
「ああ、そうだ。俺だ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の糸がぷつりと切れた気がした。
息がこぼれた。
そして安堵した途端、全身から力が抜けて、視界が霞み、意識がゆっくりと沈んでいく。
気が付いたときには、ウォーレスに抱えられて焚火に当たっていた。
どうやら、どこかへ向かう途中で一度休んでいるらしい。
けれど、その景色も一瞬で消えた。
次に意識がはっきりしたのは、教会でも、あの趣味の悪い部屋でもない、天蓋のある広い寝室だった。
「?」
窓から朝の光が差している。
そして、私の隣にウォーレスがいた。
「……え? んええええーーーっ!?」
な、なんで一緒に寝てるの?
飛び起きようとしたけど、体に力が入らない。
腕を動かそうとしたら、その腕を掴まれた。
「動くな。まだ熱がある」
「いやいやいや、説明して!? なんで隣に!?」
「お前が泣くから、仕方なく──」
「仕方なく一緒に!? 誰とでも寝るってこと!?」
「っち」
「舌打ち!?」
「……るせえなあ」
「いやいやいや、うるさくもなるよ!! っていうか、ここどこ? っえ、あ、ちょ……っ!」
ぎゅうう、と。抱き枕の如く抱き締められて動けない。
教会で可愛がっていた猫ちゃんのように腕を突っ張ろうとしたけど、できない。
さすが脳筋。脳筋は力が強い。
だが、私も本気で突っ張れない。
これがジジイならぶっ殺してやると根性を出すけど、抱き締めてくるのは好きな男である。突っ張れない!
「ここは俺んち。ジアは変態ジジイに嗅がされた薬で丸一日眠ってた。もう夜が明けてる。怪我の手当てと清拭はうちのメイドがした。あと俺は誰とでも『仕方なく』は寝ない」
意味深だから、軽率に『寝る』だの『寝ない』だのか言わないでほしい。
まあ、私も言いましたけど。
とか思っていると、またぎゅうう、と抱き締められた。
「探した。ずっと、探してた。ようやく見つけた。……会いたかった」
「え……?」
声が、震える。
「お前が消えてから、男爵が行方不明になった。屋敷も荒れて、借金の噂だけ残った。代わりに、変態ジジイが血眼になってお前を探してた。俺はその動きを追ってた」
ウォーレスの手が私の髪に触れ、黒く染めた髪の根元を確かめるように撫でた。
「教会に出入りしていた薬売りから情報を得たけど、見つけたときには、もう教会に手を回してやがった。今夜、あいつが動くって聞いて……。間に合ってよかった。あ、変態ジジイは今、尋問中だから心配しなくていいぞ。そのうち、男爵の居場所も吐くだろう」
一拍の沈黙。
「俺の言ってること分かるか?」
「ええっと?」
首を振る。馬鹿でごめん。
「好きだ」
「っ、うっそだあ!」
「嘘じゃない。去年、剣術大会には出てないけど今年は出るから、今回の大会で優勝旗持ってきたら婚約してくれるか?」
「え、待って、なんで去年出てないの? ん? 待って待って」
「去年はジアがいなくなったからそれどころじゃない。あと、待ってる。ここにいるだろ?」
「そういう意味じゃなくて……ウォーレス、婚約者いるでしょ? ほら、あの、ふわっとした可愛い子!」
「? ジアの説明が、ふわっとしてる」
「茶髪で青い目の、可憐なご令嬢だよ!」
思わず語気が強くなった。自分でも驚くほど嫉妬っぽい声だった。
「あ? ああ、二番目の兄貴の婚約者だな。シャンパニー伯爵家の次女……って、ジアは貴族詳しくねえか。そういうわけで、俺は誰とも婚約してない」
「ウォーレスは、お兄さんがいるの?」
初めて聞いた。
あれほど一緒にいたのに、なんで?
……あ、そうか、私が家族の話をしなかったからか。
「いる。七つ上と、四つ上に。二つ下に弟もいる」
ウォーレスは婚約してない。
そして、三男。四人兄弟。これは理解した。
でも、私に求婚してるってのは、絶対嘘じゃん。
だって、あり得ないでしょ?
行方不明で借金まみれのカスの娘に求婚なんて、そんな夢みたいな話ある?
口から洩れる「嘘」にウォーレスは「嘘じゃねえよ」と間髪容れずに言ってくるけど……婚約なんてできるわけないじゃん!?
こんな不良債権と結婚したいと思う男がいたらそれはもう詐欺じゃん!
「詐欺じゃねえ」
おっと、私の心のツッコミが口に出てたみたい。
「全部出てるんだよ! ったく、ごちゃごちゃうるせえ。四の五の言わずに俺の嫁になれ!」
「無理だよ。借金まみれの男爵の娘なんだよ?」
「その男爵家はもうねえ。借金も不正も、王都の監察局が調べを進めて暴いた。爵位も取り上げられた。お前はもう『ガスカース男爵家の娘』じゃねえ」
「ますます貴族の誰とも釣り合わないよ」
「武功で爵位を取ったウォロノフ家は血より剣だ。誰を娶ろうが問題ない。それに俺は三男だぞ」
「大問題だってば。男爵位がないってことは、私、平民なんだよ?」
「だから三男だっつってんだろ。……まあ、ジアがそこが気になるならどっかの家に養子に入るか? 功績のある人間の推挙があれば一年もかからねえし、アテもある。それに王都の礼法院で身分登録すりゃ正式に『準貴族』だしな」
ウォーレスは、言いながら私の髪を指先でいじった。視線は真っすぐで、冗談ではないらしい。
「どっちにしろ俺が学園を卒業してからだけど、再来年には結婚できる計算だな」
貴族の身分やら法律がよく分からない私には、彼の説明を聞いてもちんぷんかんぷんだ。
でもウォーレスは、それをまるで明日の天気でも話すみたいに、軽く言ってのける。
「? そうなの?」
「そうなの」
私の言葉を真似て、彼は少し笑った。真面目な話をしていたはずなのに、急に照れたような笑みだった。
「で、ジアは今んとこ退学扱いになってるけど学園通いたいか? 通うんなら、ジアの卒業まで待つ」
「……あ、特に」
「じゃあ、結婚は再来年だな。んで? 他には何が疑問だ? 不安なことでもいい。なんでも聞け。全部答える」
疑問も不安なことも、きっとたくさんある。
そのはずなのに、今の私の頭が馬鹿になったのか、元々馬鹿なのか、何も浮かばない。
いや、だめだ、考えろ、私!
あるはずだ、何かとてつもない問題が!
ああ、ちょ、ちょっと、人が真剣に考えるときに耳たぶ揉むのやめてくれません!?
くそぅ、この男、なんなん?
脳筋だと思ってたのにぃぃっ!
剣と肉にしか興味ないです、みたいな雰囲気で私の色目にも、よろめかなかったくせにぃぃっ!
ここに来て、オス感だしてくるのは何なの!?
こんなの、こんなの!
「……ない。……ウォーレスと、結婚したい、です」
って言っちゃうしかなくない!?
は~~~、誘惑するつもりが誘惑されちゃったよ!
しかも激チョロだよ!
返事したと同時に、けっこう大人な感じのキスをされてヘロヘロになった私は、「んじゃ、このまま既成事実でも作るか」と寝間着のボタンに手をかけられながら言われ、「す、するか馬鹿ーっ!」と彼のほっぺたにペチッとパンチをお見舞いした、その瞬間、「ぐおおおおお!」と腹の虫まで叫び、ウォーレスを大爆笑させたのだった。
◇◇◇
そんなわけで、あっという間に二年が経った。
ウォーレスの言う通りに、あっさりすんなり事が進み──気付けば本日、結婚式である。
ちなみに結婚式は、既に一回やっている。
何を言っているか分からないと思うが、大丈夫! 私も分かってないよ!
一回目の結婚式は、私が『アシュテン』として暮らしていた教会で挙げたんだよね。参列者は呼ばないで、教会のシスターや子供たちに祝福してもらったの。
ウォーレスはこの二年間かかさず、この教会に月に一度、支援物資を送ってくれている。
さて、晴れの日に思い出したくはないけれど、区切りとしてまとめておこう。
男爵とジジイ。この二人は今、それぞれ、強制労働所と療養施設にいる。
あのジジイは捕まる直前に倒れて、もう正気じゃないらしい。
男爵家の借金は、爵位返上と引き換えに国が帳消しにした。
もともと領地を持たない分家だったから、誰も大きな損はしなかったんだって。
あと、心優しい王妃様が私の境遇を憐れんで配慮してくださった。
高貴な方なので、お会いすることは叶っていないけれど、僭越ながらお手紙を差し上げた。
どうやら恋物語がお好きなお方らしく、ウォーレスとのことをぐいぐいごりごり便箋三十枚の熱量で聞かれた日が懐かしい。
そんな王妃様と私は、今では秘密のペンフレンドである。
「こんなにとんとん拍子に進んで怖くない?」
ぼそりと呟いた瞬間、部屋の空気がふわりと揺れた。
一拍おいて、六つの視線が私を見る。
──覚えているだろうか、『例の悪口三人娘』を。
彼女たちは本日、私のブライドメイドをしてくれている。
なんでって思うじゃん? 私も思う。
彼女たち曰く、私の境遇も知らずに「色々、ごめんねごめんね~」って、気持ちらしい(超意訳)。
当時は、ウォーレスに婚約者ができたって勘違いしてたそうで、私を責めたのもそのせいだったらしい。
婚約者持ちに言い寄るのは令嬢的にアウトだから、あれはガチの『注意』だったっぽい。
「何も知らないのに上からごめんなさい」って、涙ながらに謝ってきて、ブライドメイドを申し出てくれた彼女たちに、悪感情なんてない。
許すとかの次元じゃない。そもそも、最初から怒ってなかったし。
この件に関して、ウォーレスは「ジアは甘い!」ってぷんぷんしてたけど、私はそうは思わない。
だって、二年前の私ってば、かなり非常識だったし。
それに、反省して謝罪できるってすごいことじゃない? 私は、その誠意に感動したの。
「まあまあ、ネガティブですこと」
「暗い顔をするのはおやめなさい。おブスに見えますわよ!」
「そうそう、私たちがブライドメイドを務めるんだから、自信を持ちなさい」
と、まあ、こんな感じなんだけどね。
ツンデレって可愛いよね~。
「そろそろ時間よ」
「ほら、行きなさい!」
「笑顔でね」
友人となった彼女たちに背中を押され、控え室を出る。
バージンロードは恐れ多くも、ウォーレスのお父様──つまりこれから義父になる人と歩く。この人がまた、穏やかで温かい人なのだ。
なんなら、義母も人当たりが柔らかく、兄弟たちも気さくで、その婚約者様方まで親しみやすい。
この家に入ってまだ日も浅いけれど、皆が気さくに声をかけてくれる。
式の前夜、私は正式にウォロノフ侯爵家の一員となった。
名だけのことだけれど、それでも『ガスカース』という名を消せたとき、少し泣きそうになった。母の名を汚さずに済んだと思ったから。
ウォーレスはもう王国騎士団に任官していて、近衛第三隊の隊士を務めている。
式の前日も、鎧の留め金を磨いていたくらい張り切っている。
私たちは侯爵家の別邸に暮らす予定で、これから新しい家を整えるところだ。
その未来を思うと、嬉しい。
……でも、少しだけ怖い。
胸の奥がそわそわして、息を整える。
扉の向こうでは、もう楽団が演奏を始めていた。
ステンドグラスを透けた朝の光が、長いヴェールを染める。
私の手を支える義父の掌が、温かい。
歩くたびに裾が揺れて、胸の鼓動の音が自分でもうるさい。
視線の先、祭壇の前にウォーレスが見えた。
その顔を見た瞬間、私の『少しだけ怖い』は、どこかへ消えた。まじ単純。
ああもう。
日を追うごとに、どんどん好きが増えていってる。
……なんて、頭悪いこと考えるくらい好き。
目が合った。
彼が小さく息を吐いて、ふっと笑う。
私のことを可愛いと思ってる顔だ。好き。
神父様の祝詞が厳かに響きはじめた。
「天と大地を結ぶ契りのもと、今ここに、二つの魂は互いを伴侶として選びました。善き日に、善き誓いを──」
その声の合間に、ウォーレスの口角がわずかに上がる。
「早くジアとキスしたい」
私も!
……でもね、神父様のありがたい祝福の言葉の合間にそんなこと言っちゃだめなんだよ。
「しー」
「ドレス似合ってる。めっちゃ可愛い」
「私がめっちゃ可愛いのは知ってる、うん。だから、しー。静かにしようね?」
「ふ。その顔も可愛い」
「しー!!」
あ、声がデカくなっちゃった。
「──それでは、誓いの言葉、聖典第二十二節を……」
神父様は一度目を閉じ、ため息まじりに続けた。
「……まあ、もうよろしいでしょう。神の御前において、互いの誓いはすでに果たされました。どうぞ、誓いの口付けを」
ほらあ、神父様が祝福の言葉を巻いちゃったじゃ~ん。
でも、まあ、いっか。
このあと、歴代最長の誓いのキスをして、神父様に少し叱られたけど、新婚だし、神様は大目に見てくれるはずだよね?
母が生きていたら、笑ってくれたと思うし……──だから、これでいい。
これが、母の願った幸福の形だと信じている。
というわけで、平民から男爵令嬢になった私は、脳筋でキス魔な騎士様のお嫁さんになって、末永く幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
【完】




