19 地獄パノラマ
有機溶剤のヒリつく臭いに慣れた鼻にも、それはまったく異質で、胸の悪くなる臭いだった。
異質だが、容易に想像のつく臭いだった。
菅原は松浦に訊いた。
「おまえいつからここにいるんだ?」
「僕も外から帰ってきて、井上さんと入れ違いに。みんな飯に行って誰もいねえぞって。それで僕、じゃあ留守番してますって‥‥‥」
松浦は「なんすかあ?」と泣きそうな顔で鼻をグジュッとすすった。
「刑事さん、これは‥‥」
「ええ、この濃さは、ふつうじゃないですなあ‥‥」
衣川刑事は携帯を出して、掛けた。
「稲村。俺だ。おまえ今どこだ? よし、じゃあ3、4人連れて撮影所のスタジオスカーレッドに来い。急げ、サイレン鳴らしてこい。あ、それとな、全員拳銃持ってくるように。いいから、急げ!」
電話を切ると、衣川は背広の下のフォルダーから拳銃を出し、カチッと安全装置を外した。青い顔で見る菅原に、
「わたしも人を撃ったことはありませんがね、覚悟しといてくださいよ」
と緊張を隠さずに言った。
菅原は松浦に訊いた。
「井上は外なんだな?」
「え、ええ。戻ってませんよ」
「そうか」
菅原は目で刑事に確認し、頷いたので、思い切り青い顔をしながら「臭い」の元を捜した。
作業台の下、大型工具の陰、棚の陰、
棚の‥‥、コンテナ‥‥‥‥。
出来上がった「魔界鬼」の腕が入っているはずのコンテナを引っぱり出して中を覗いた菅原は、
「うわあああっっっ!」
と、いつものクールさをすっかり忘れて大声を上げ、後ろに飛び退いた。
「どうしました?」
「かかかかか‥」
あわあわと顎を痙攣させて震える指で差して、ようやく言った。
「顔‥‥、丸山の顔が、入ってる‥‥」
「誰です?」
「う、うちの、お、女の子‥‥‥」
スカーレッドに女性スタッフは2人いる。その2人の顔を衣川は思い浮かべた。
青いコンテナの中に、鬼の腕を血に染めて、口を半開きにした丸山の顔がじっと恨めしそうな目をして入っていた。
首だけ。
衣川は拳銃を構えて周囲を油断なく見渡しながら、自分も近くの棚のコンテナを覗いていった。
「うっ‥‥‥‥‥‥」
そこにも、舌を半分飛び出せて白目を剥いた男の血まみれの生首が入っていた。
「うひゃああっっ」と松浦も悲鳴を上げた。
「あああ、あれ、ちちち、血がっ!」
椅子の中でずり落ちそうにしながら松浦が指さす棚の中、そこはずらりと魔界鬼の顔と胴が並んで置かれていたが、その顔の一つ、胴の2つからボタッボタッと赤黒い液体が流れ出して滴を落としていた。
刑事は横に歩いていって、胴を持ち上げてみた。中でゴロッと丸い物が転がる感触がした。上の鬼の顔を持ち上げると、ゴロッと、髪の毛をたなびかせて頭が下に転がり落ちた。跳ねた血が刑事の顔に当たった。
「うぎゃあああああっっっ!!!」
大声で悲鳴を上げて、椅子を蹴倒すと松浦は頭を抱えて机の下に逃げ込んだ。
衣川の足下、血しぶきをこびりつかせた白い肌の女が恨めしそうにじっと上を見上げていた。2人の女の子のもう1人だろう。
もう1つの胴も、きっと中にもう1人の生首が入っているのだろう。それで5人。菅原と松浦と井上の、残りのスカーレッドスタッフの人数分だ。
菅原は衣川の反対の方に立って、転がり落ちた女性スタッフの顔を、蒼白な幽霊のような顔をして、今にも倒れそうにしながら見つめ、言った。
「馬鹿な‥‥、そんな馬鹿な‥‥、こんな、こんなことが、現実に起こるわけない‥‥‥‥」
衣川は、さんざんこういう物を作って慣れているであろう菅原の狼狽ぶりを哀れに眺めた。
そうだよ、これは、現実なんだよ、と。
ひどい顔で呆然としていた菅原が、ハッと何かに気づき、
「刑事さん!」
と叫んで衣川の後ろを指さした。棚の裏側に、黒い影が立っている。
作り物が、動いた、と思うと、
ビュッ、
「うわっ!」
長い刃が胸の高さで飛び出してきて、衣川はびっくりして危うく飛び退いた。
ガンッ、と後ろから黒い足が蹴っぽって、鬼の胴が飛び出すと、くるりと回って中から男の生首がビュンと飛び出して空を飛んだ。
「貴様あっ」
衣川が拳銃を構えると、黒光りする未来的なデザインの全身鎧が棚の横に回ってきて、日本刀を振り上げ、ビュン、と斬りかかった。
「くそおっ」
衣川は必死の形相で両手で構えた拳銃を撃とうとした。
「待ってくれえっ!」
菅原が叫んだ。
「井上えーっ! おまえ、井上なんだろうっ!?」
未来の鎧武者は刀を上に構えて止まった。
映画「幻魔黙示録」の主人公魔界戦士兵衛牙。ゴーグルの目にフルフェイスのマスクで着ている人間の顔はまったく見えない。主人公の顔が見えないのはどうかと思うが、映画の終盤まで主人公はこのかっこうで顔を見せない。ある若手人気俳優が演じることが決定しているが、そのキャスティングは極秘で、映画公開の初日までその正体は一切秘密という仕掛けだ。
しかし、今魔界戦士兵衛牙になっているのは‥‥
「答えろおっ! 井上ええっ、おまえなんだろうっ!!??」
魔界戦士兵衛牙は、
「うるっせえなあ〜」
くぐもった不機嫌な声を出した。
「井上えっ!」
叫ぶ菅原に、
「うるせえっつってんだろう? あんたはなあ、いっつも、目の上のたんこぶなんだよおー」
井上は言った。
「井上‥‥」
菅原は泣きそうになって言った。
「なんでだよ? なんで‥‥みんなを殺した? 仲間じゃないか? なん‥っでだよお〜‥‥‥」
「いらねんだよ、どいつもこいつも、下手くそなくせにアーティスト気取りでよおー。だがよお、一番邪魔なのは、あんたなんだよ、スカーさんよおー? 俺のデザインいくつも没にしやがってえ〜、あんたのモンスターなんてぬるいんだよお〜、俺の方が、ずっととんがってんだよお〜〜」
「馬鹿野郎、おまえのだっていくつも採用してんじゃねえかよおー? なんで‥、みんなまで殺すんだよお? 俺は、信じないぞ、おまえがそんな下らないことで仲間を殺しただなんて‥、信じてたまるかよお〜‥。
‥‥聞け、井上。それはおまえの本心じゃない、おまえは、操られているんだ、催眠術で、ミスター・パピーって妖怪に。そうですよね、刑事さん!?」
「そうだ。井上」
衣川は両手で構えた銃をぴたりと鎧の胸に狙いを定め、一時も目を離さずに言った。
「殺人はすべてミスター・パピーが人を操ってさせたものだ。おまえも、もしかして『スーパーウルフマン』のゲームをやったんじゃないか?」
ぐらっ、と、井上の上に構えた刀が揺れた。
「そうなんだな? おまえも最後までクリアして、ラスボスのスーパーウルフマンを殺したんだろう、ウルティメートウルフマンに変身して? それがマスター・パピーの仕組んだ催眠術なんだよ。目を覚ませ井上。これは、おまえの意志でやってることじゃあない!!」
ガチッガチッと鎧の首が動いた。迷っているのだ、と菅原は思った。
「井上‥‥」
菅原はゆっくり前に歩き、それを察した衣川が、
「菅原さん、来ないでください!」
と制したが、菅原は進み、ちょうど部屋の中央で止まった。
菅原は井上に話しかけた。
「なあ、井上。俺たちの仕事を思い出してみろよ? 俺たちはいかに本物らしく偽物を作るかってことにプライド懸けてきたじゃないか? ガキっぽいけどさ、人を騙すのが快感なんじゃないか? それなのに‥、本当にこんなことしちゃあ、駄目だぜ?‥ おまえのモンスター作りの腕は大したもんだよ。俺はおまえの腕を、最高に買ってるんだぜ? なあ、頼むよ、おまえの特殊メイクのプライドを、思い出してくれよ? 頼むよ」
菅原は泣き笑いの顔で手を差しのばした。さあ、刀を捨てて、この手を握ってくれ、と。
「スカーさん‥‥‥、」
刀が、半分、下りた。
「スカーさん‥‥。
実はさ‥‥‥俺‥‥‥‥」
「なんだ?」
菅原は誠実に仲間の言葉を聞こうとした。
「‥‥‥だけじゃないんだよね」
「え?」
鎧の首がクリッと斜めに傾げ、井上は言った。
「俺だけじゃないんだよね〜〜」
何を言っているのか? 菅原がいぶかしげにすると、
「菅原さん!!!」
衣川が叫び、拳銃の狙いを横に振った。
「うひゃひゃひゃひゃあ〜〜っ!!」
「うわああっっ??!!」
鬼が、こん棒‥‥金属バットを振り上げて躍りかかってきた。
振り下ろしたバットは菅原の脚をかすりブルーシートを叩き、「ゴイイ〜〜ン」と固い音を響かせた。
「うひゃひゃひゃひゃあっ」
ブン!、と振り回すバットを無様にひっくり返りながらよけた菅原は、必死になって逃げようとしたが、ずるっとブルーシートが滑ってこけた。ずれたシートの下から大量の血溜まりが現れた。
「うひゃひゃあっ」
「わああ〜〜〜っっっ!!!」
「くそっ」
銃を鬼に向けた衣川は、横からビュッと刀を振り下ろされて慌てて転がってよけた。
「うっはっはっはっはあああっ」
ビュンッ、ビュンッ、と井上は得意になって日本刀を振り回し刑事を襲った。
衣川は、
「‥‥‥‥‥」
パンッ。
撃った。
パンッ、パンッ、パンッ。
撃った。
「うひゃひゃひゃあっ」
「うわああ〜〜〜っっっ!!!」
パンッ。
撃った。
「がっ、」
カン、カラララーーン、と派手な音をさせて金属バットは転がり、肩を撃たれた鬼のマスクの松浦はのけぞり、
「うやあああああ〜〜っっ!!」
わめいて刑事に襲いかかってきたが、
パンッ。
今度は衣川は冷静に松浦の脚を狙い撃った。
「ぎゃっ!」
叫んで松浦は脚を後ろに飛ばされ、腹這いにビタンと落下した。
衣川はすかさず走り、肩を踏みつけ、
「動くなあっ!」
銃の狙いをもう片方の肩につけた。
「ぐっぐっぐっぐっぐ‥‥‥‥‥、い‥‥、ってええ〜‥‥」
激痛に松浦はすっかり意気地をなくして大人しくなった。
血溜まりに転げて、起き上がった菅原は、よろよろ立ち上がって、転がる黒い鎧に歩み寄った。
下に手を伸ばす菅原に、
「菅原さんっ!」
刑事は厳しい声を投げかけたが、菅原はそのまま日本刀を掴んで持ち上げた。
「‥‥‥‥これ、切れませんよ‥‥」
「なっ、」
さすがに衣川は驚きの声を上げた。
「なんですってえ!?」
菅原は顔を歪め、唇を噛んで、言った。
「死んでしまった、みんな、みんな、俺の大事な仲間が、俺の大事な財産が‥‥、ちくしょお‥‥‥‥‥」
衣川の撃った銃弾はすべて鎧の胴に命中していた。プラスチックの鎧に本物の強度があるはずもなく、ドクドクと、血溜まりが大きく広がっていった。
甲高いサイレンの音が迫ってきて、止まった。