15 犯罪の可能性
マスター・パピーの名に異常な反応を見せた刀脇だったが、具体的なところは何も分かっていない。しかしこれ以上は危険と判断し、教授は再度の催眠術を禁止した。衣川刑事としても残念ではあるが致し方ない。
稲村刑事と念のため看護士が刀脇を自宅マンションに送っていき、衣川刑事は2人の専門家に意見を聞いた。
専門家たちは意見を交換した。
「パニック症候群でしょうかねえ?」
「ええ。しかしあの異常な攻撃性は、外へ向かったもので、内に籠もる防御の姿勢ではない。単なる恐怖ばかりでああなったのではない。考えられるのは、恐怖の対象への同化願望でしょうか?」
「そうですね。徹底して自己を打ちのめされると、ああした反応を示すこともある。虐待を受けた子供が、親になって自分の子供を虐待してしまうのと同じメカニズムですな」
「もしそれがマスター・パピーの催眠術のせいだとしたら‥‥、それは催眠術ではなく、洗脳でしょう」
「そうでしょうねえ。しかし洗脳には時間が掛かります。人格の破壊を招くこともしばしばある。刀脇氏のように忙しく、常に人の目に晒されている人には難しいのではありませんか?」
「そうですね。彼の行動を調べてみなければ結論は出せないが、難しいように思いますねえ」
ちょっと待ってください、と衣川刑事が割り込んだ。
「洗脳というのは、どんな風にやるんです?」
「恐怖と、拷問です。洗脳とは、本来その人とは相容れない思想を無理矢理受け入れさせることですから、その自我を破壊しなければならない。思想を受け入れることを強要し、繰り返し繰り返し、執拗に恐怖と苦痛を与えるのです。繰り返し繰り返し行うことで、次第に、その思想を受け入れない自分が悪いのだ、と思わせるようになるのです。その思想を受け入れることが正しいのだ、その思想を受け入れれば自分は幸せになれるのだ、と思わせるのです。戦争がそうであり、独裁的な専制政治がそうであり、過酷な取り調べによるえん罪の発生も同じメカニズムです。繰り返し無限に続くと思われる恐怖と苦痛、人の精神は自分を守るため、自分を曲げて、それを受け入れてしまうのです」
「ですから、逆に言えば、洗脳にはそれだけの時間と手間が掛かるということです。信頼関係によって成り立つ催眠術もそれなりの時間が必要だが、洗脳にはそれに倍する時間が必要ということです」
「なるほど」と衣川刑事は頷いた。
「催眠術はその人の隠れた願望を表に引き出す。だからその人が本心から望まないことは決してやらせることが出来ない、ですな? 一方で洗脳は、その根本部分をぶっ壊してしまう、真逆の行為と言っていいですか?」
「まさにその通りです」と専門家たちは頷いた。
衣川刑事は唸って、訊く。
「マスター・パピーが、催眠術のスタイルでそれを行うことは、絶対に不可能ですか?」
これも専門家は一致した意見を出した。
「絶対に、不可能です」
衣川刑事は、うーーーん‥‥、と唸った。
衣川刑事の執着する肝心のマスター・パピーはというと。
マスター・パピーこと益口寿夫には新米の刑事2人がずっと張り付いていた。
捜査陣で催眠術殺人の可能性を指示する者は1人もなく、それでも切れ者の衣川がうるさく主張するのでパシリの若者2人が訓練がてら見張りに付けられたのだ。
益口寿夫は目立たないが実はちょくちょくテレビの仕事をしていた。元々腹話術師でしゃべりが上手く、別の名で声優もしていた。顔芸も得意なのでコントのちょっとした脇役も器用にいい仕事をした。はたまた別の名で俳優として昼ドラの気のいいおじさん役や、皮肉にも振り込め詐欺にあってしまう気の毒なお爺ちゃんや、時代劇で悪代官にお店やかわいい一人娘を取り上げられてしまう正直で善良な商人など、どちらかというとかわいそうな小市民の役を多く演じている。マスター・パピーのイメージからしてやくざの親分やそれこそ嫌らしさたっぷりの悪代官などやったら似合いそうだが、そうした役はやらないようだ。
益口寿夫はマスター・パピー以外でも、 風貌の割りに目立たないが、けっこうな売れっ子なのだった。
毎日ちょこちょこ出かけていって小さな仕事をそつなくこなし、素顔はいい年したおじさんで、張り付いている新米刑事2人にはとてもこの好人物が凶暴な殺人事件を裏から操っている妖怪じみた極悪犯罪者には思えない。
1週間経ち2週間経ち、アホらしくて、すっかり張り込みも尾行もいいかげんになっていた。
久しぶりにマスター・パピーとしての仕事があった。
平日お昼のバラエティー番組にゲスト出演し、会場100人の女性たちに4択のアンケートをし、きれいに25人ずつ4つに分ける、というのに挑戦した。
アンケートのお題は「彼氏にしたいのは誰?」という実に他愛ないもので、ステージの、若手イケメン俳優、お笑いタレント2人、ベテランの性格俳優、の4人から選ばせる。
マスターはひな壇のお嬢さんたちの反応を見ながら4人それぞれに面白おかしいポーズを取らせていった。
そうしてオーケストラの指揮棒を振って、「はい、せーの、ポンッ」と手元のボタンを押させた。
電光掲示板に現れた結果は、惜しくも25対25対0対50で、「おっ、おおっ、え〜〜〜!?」の声で「なんでやねんっ!?」と声を上げる「0」のお笑い芸人といっしょにマスターはずっこけた。「50」のベテラン性格俳優はでへへえ〜と照れまくった。この結果にマスター・パピーは不満も露わに
「おいおい〜、スタッフ君〜、打ち合わせと違うじゃないかあ〜?」
と、最初から仕込みであったかのようなことを言って笑われた。しかしその笑いの中にほぼ100点満点の結果に対する驚きのどよめきが大きく含まれていた。
マスター・パピーはシルクハットを取り、白塗りの気味悪い顔にニカッと大きな笑いを浮かべ、出番を終えた。
そんな愉快なひとときを過ごし、化粧を落とした益口寿夫は一般市民として駅前通の雑踏の中を歩いていた。
刑事2人は雑踏の中でもあるし、とっくにやる気もなくしてまるで不用心にただ後を追って歩いていた。
その1人が、突然
「うっ」
とうめいて、雑踏の中、道の真ん中で座り込んだ。
先に行きかけた相棒はあれ?と気づき、
「おい、なにやってんだ?」
と声を掛けた。
座り込んだ相棒は青い顔を上げ、
「‥‥背中‥‥‥」
と小さな声で言った。
その後ろで「きゃああっ」と若い女が派手な悲鳴を上げた。
「この人、背中にナイフが刺さってるう〜〜〜っ!!」
「なにいっ?!」
刑事は相棒の背中に回り込んだ。
左の腰、背広の上から、刃の厚い幅のあるアーミーナイフらしき物が深々と突き刺さっていた。
「ちくしょうっ! 動くなよ、今救急呼んでやる! おおーい、誰か! 駅の人間呼んでくれ! 頼む!急いでくれえっ!!」
駅前の雑踏は騒然となり、やがて駅から駅員と警官が駆けつけたが、その頃には、益口の姿はとっくにどこかに消えていた。