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六話 テスト返し

 久野くのたまは憂鬱だった。

 

 地獄のテスト期間を終えたばかりだというのに、その翌日には「テスト返し」というさらなる試練が久野を待ち受けている。勉強が苦手な彼女にとって、テスト返しはいわば「公開処刑」のようなものだった。


 一限目は、担任であり英語教師でもある八来須やくすあんこ先生のテスト返しである。あんこ先生のテストは一癖も二癖もあり、その場のノリで書いているかのような問題が多く出題される。今回のテストでは特に、英文を日本語に訳す問題が久野の頭を悩ませた。頭をフル回転させた結果「理科教師の中村がグッピーに薬を盛った」とか、「校長が図書室にエロ本を隠した」といったどこか既視感を覚える答えになった時は、さすがに自分の頭を疑った。


 クラス全員の前で一枚ずつ解答用紙が返却される。自分の番が近づくにつれて心臓の鼓動が鼓膜を打ちつける。


「久野たまさん」

「はっ、はい!」


 名前が呼ばれると、久野は上ずった声で返事をし、関節が消失したかのような足取りで教卓に向かった。渡された解答用紙は内側に折り畳まれており、じっとりと汗ばんだ手がそれを受け取る。急いで席に戻り、手に握り締めたまま座ると、心を落ちつかせるために深く息を吐いた。


 すると、隣の席の泉妻いずつまたんぽが顔を覗き込むように話しかける。


「ねえ、たまちゃん。何点だった?」


 その瞬間、久野の心臓は飛び上がる。


「泉妻さん……まだ食べていないのに味の感想を求めるタイプでしょ……」


 久野はまだ解答用紙を握りしめたままだ。彼女は解答用紙を机に置き、野次馬の泉妻をキッと睨みつけて追い払った後、恐る恐るそれを開く。


 記されていた点数は……72点。


 最悪の事態は回避できたと、久野はホッと安堵の溜息をついた。だが、その瞬間、彼女の耳に悪魔がささやく。泉妻に謎のほほえみを向ける。


「点数を比べて負けた方がジュースを奢るってのは……どう?」

「乗った!」


 久野はしめしめとほくそ笑む。彼女の狙いはジュースなどではない。泉妻に成績で優位に立つことで潜在的な優劣が生まれ、彼女をコントロールできる、そんな魂胆が隠されていたのだ。久野は泉妻を自分よりも馬鹿だと思っているため、勝利を確信してこの勝負を仕かけた。


「この勝負、もらった!」


 久野は自分の解答用紙を自信満々で泉妻に見せる。しかし、泉妻のテストに記されていた点数は……92点だった。


「あっ、私の勝ちだ」


 久野は顔面蒼白になる。まさかあの泉妻が高得点を取るなんて、夢にも思っていなかった。あまりの予想外な展開に目を泳がせ、うわ言のように問いかけた。


「な、なぜ……そんなに高得点を……」


 泉妻は気恥ずかしそうに答えた。


「いやー、今回はあんまり調子よくなかったんだよねー」

「あば、あばば、あばばばば……」


 久野は感電したかのように身体を震わせ、頭の中が真っ白になったまま、その場にへたり込んだ。優位に立つつもりだったはずが、逆に泉妻にコントロールされる側になってしまったのだ。まさに「ミイラ取りがミイラになる」瞬間である。


「そんな……どうして……」


 勝利のシナリオは絶対的なものであるはずだった久野は、こんなにもあっけなく崩れ去るとは夢にも思っていなかった。


「私の方が賢いはずなのに……!」


 放心状態の久野は、すがるように泉妻に這いよると、最後の望みに賭けて言った。


「じゃ、じゃあさ……泉妻さん、どこを間違えたの……?」


 もしも泉妻が間違えた部分が、自分の正解した場所ならば、少しは優位に立てる――そんな微かな望みが残っていた。


「えーっと、ここかな?」


 泉妻は自分の解答用紙を机に広げると、間違えた箇所を指し示した。それは、語群を使って英文を作る問題だった。久野は、その指差された部分に目を凝らす。



『私の友達の久野はいつも本を読んでいる』



 その文章を見た瞬間、久野の心に複雑な感情が湧き上がってきた。泉妻が自分のことを「友達」と書いているのだ。それだけで久野は胸が少し暖かくなった。


「泉妻さん……」


 久野は思わず泉妻のことを見直した。彼女の無邪気な性格の裏に、暖かな友情が隠されていたのだ。だが、その感動も長くは続かなかった。久野は視線をさらに下に動かすと、あんこ先生の赤字コメントを見つけた。



『語群が使われていないため減点です。あと、久野さんはBLが好きなのでそれがあると良かったかもですね」


 BL……BL……BL……BL…………。



 赤字でしっかりと書かれているその一言に久野は、頭が真っ白に溶け落ちるような感覚に陥った。その空白を塗りつぶすように憤怒が込み上げてくる。顔がみるみると赤くなった。


「BL……BLが好きって、誰がそんなことを!」


 久野は阿修羅のごとき形相であった。彼女のプライベートな趣味――それを知っているのは限られた者だけのはずだ。久野はその事実を隠しているため、誰にも話してはいない。それがどうしてあんこ先生に知られているのか。


 久野の頭に浮かんだのはただ一人。


「竹林のやろー!!」


 顔を真っ赤にした久野は、椅子を蹴るように立ち上がると、捨て台詞を残して教室を飛び出した。泉妻は何が何だか分からず、オロオロとしていた。


 

 教室が静まり返る中、全てのテストを返し終えたあんこ先生は教卓の前に立ち、軽い口調で言った。


「今日は遅刻してこないと思っていたのですが、自主的に廊下に立つとは、遅刻常習犯として殊勝なことですね」


 あんこ先生の呟きが終わると、教室は一瞬の静寂の後、ドッと笑い声に包まれた。クラスメイトたちはいつもの雰囲気に戻りつつある。あんこ先生もテストの結果について一息つくように笑みを浮かべた。


「それでは、クラスの最高点は92点でした。そして、その点数を取ったのは……泉妻たんぽさんです』


 あんこ先生が言い終わるのと同時に、教室にざわめきが広がった。誰もが泉妻の高得点に驚きを隠せない様子だった。泉妻自身も一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、すぐに頬を赤らめた。


「あっ、やったー?」


 クラスメイトたちが次々に泉妻へ拍手を送った。泉妻はますます顔を赤くし、なんとか照れ笑いで応じようとするも、どうにも恥ずかしさが隠せない様子だった。


 教室内が転校生である泉妻の予想外の高得点を称え、彼女を中心に和やかな雰囲気が広がっていく。――ところが。


 泉妻の前の席に座っていたアフロ頭の田中たなかは困惑した様子で控えめに挙手をした。


「……あの、先生。俺は何点だったんすか?」


 あんこ先生が成績表を確認すると軽く答えた。


「田中君? あなたは……98点ですね。おめでとう、頑張りましたね」


 その言葉を聞いた田中は少し自慢げにアフロを掻きながら微笑んだ。しかし、教室内は依然として泉妻への拍手と称賛で溢れかえっていた。


 田中は誰かが自分の名前を呼ぶのを待っていたが、誰も彼の存在に気づく様子はなかった。


「……ま、いっか」

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