30──410 Gone
この残酷なまでに真っ白な床は、リノリウムというらしい。
僕の目の前に座る少女、いや彼女は、ステンレス製のマグカップで緑茶を飲みながら、そんな話をする。
真っ白な床、真っ白な壁、真っ白な天井。真っ白なテーブルと椅子。どこまでも白く模様や汚れのない部屋。あとは、入口と窓が一つづつ。それだけに、窓から見える光景の異常さがより一層際立っていた。
「この真っ白なやつ、あんたの趣味なのか」
「機能性かな。それもある意味では趣味と言うだろう」
目の前に座るこの部屋の主、ゴト・リッチー氏。神様のインタフェースの先で待っていたのは、ハックではなく彼女であった。ああ、ただリッチー氏がいたというだけであれば、どれだけ良かったことか。
「リッチー氏は男じゃなかったのか」
「そうだね。いや、自分としても別に、男であるという痕跡を残したつもりもないのだが」
「それはそうだが」
それこそ、後世の我々が勝手に偏見を持って決めつけていただけだ。
「それで、ここはどこだ?」
「それは五回目の質問だな」
「じゃあ答えてくれなくてもいい」
この場所、今僕たちがいる場所は、世界の外側なのだそうだ。
世界の外ってどういう意味だろうな。
今分かっているのは、世界の中のできごとは、おおよそここに関係ないということ。
窓から見える景色に、世界の中の情報列が凝縮され蠢いているということ。
神様のインタフェースの向こう側、こここそが、世界の中を、現実を自在に改変できる場所であるだろうということ。
「ハックを復活させたいんだ」
「これを言うのは八回目だが、ハックという人間はいないんだ」
「でも僕は確かにハックと旅をしたんだよ。それとも何か、僕の記憶も思い出も全部偽物だって言いたいのか」
「そりゃあね」
私もその様子は見ていたと、リッチー氏が言う。ハックを起点にして、僕という人間の行動は監視されていたらしい。この安全圏から。僕は見世物じゃない。
「しかしねぇ。彼女は私が戯れに作った架空の人物に過ぎないのだから」
「うるさい。いくらあんたが凄い魔術師だからって、言っていいことと悪いことがある」
リッチー氏の目が開かれる。ああなんだその顔は、もう少し後ろめたさとか、感じろよ。なんでそんな満足げな顔をするんだ。
「よし、お茶を飲んだくらいじゃ、落ち着けないのは分かった。君が事態を飲み込めるように、歩きながら話そうか。何。時間はいっぱいあるんだ」
そう言って、立ち上がりドアの方へ歩きだす。
僕がついていきたくないと、椅子に座ったままでいると、さっきまで持っていたコップが、机が椅子が半透明に薄まっていき、その実体を消してしまった。
「ほら、行くよ」
ドアを開けても真っ白な空間が続く。
「ここは、最初は何もなかったんだ」
「今も何もないだろ」
同じような部屋が延々と続くだけで。
「そう見えるかい。文字通り最初は何も無かったんだよ。床も天井も壁も、上も下も。ただあるのは、かろうじて自分の体が用意できたくらい」
「用意できたって、どういう?」
「世界の外には生身のままでは出られないからね。持ち出せるのは情報だけ。だから、情報の繋がりだけを維持して、体はまた別途必要なんだ。世界の外側の理屈で動作する身体がね」
しばらく歩いていると看板のついた扉が見えてくる。等間隔に扉が並び、それぞれに名前が書いてある。ちょうど、アパートのような感じで。
グレース・エイホ。
ケイ・ゴスリン。
404。
カ†ミ。
後半二人はいったいなんだこれ。とりあえず無視しておくとして、前二人は知っている名前だ。第三のウィザードと第四のウィザード、ええと何の功績だったか。
「薄々察しているかもしれないが、ウィザードと呼ばれる魔術師は、必ず神様のインタフェースにアクセスするところまで至っている。そうでないと、世界を変えるほどの発見はできないからね」
「それで、この部屋がそれぞれ、ウィザードたちの部屋ってことか?」
「そうなるね。私が先輩としてのよしみで、こうして部屋を用意してやるんだ」
ほら、と。
キャニーと書かれた部屋に案内される。
部屋は案の定何もなく真っ白で、壁に沿うように設置された装置が嫌でも存在感を放つ。ベッドくらいの大きさと言うか、最初に僕がここで目覚めた時に入っていた、あの棺桶のような入れ物だ。色は黒で曲線の多い滑らかなフォルムをしている。
「ここに残るのなら、自由に使うといい」
「残るっていうのは?」
「元の世界に戻らないって意味だよ」
「簡単に戻れるのか」
「ああ。ここから帰る方が、来るより簡単だ。逸脱したものを元に戻すだけなんだから」
「逸脱?」
「だから言ったじゃないか。ここは世界の外側なんだ。しばらくこの部屋で、頭の中を整理するといい。私は少し用事を済ませてくる」
「ま、待ってくれ」
リッチー氏は振り返る素振りすらせずに退散する。
部屋には、例の装置と僕だけが残される。
このままここに居続けるのも、気がおかしくなりそうだったが、この得体のしれない空間を出歩いて大丈夫なのかという心配が勝った。
部屋の角に体をはめるようにして、三角座りをする。
そして言われた通り、今の状況を整理する。
まず僕は五体無事で生きている。知らない場所で目を覚ました。服や持ち物はなく、リッチー氏が着ていたのと同じような、無地の服を着せられている。
今はいつか。
魔導解放祭の準備期間、に、気を失ってここに来た。アクセスするまでに見たあの情報世界と、無数の探索を思えば、どれだけ時間が経っていたとしても不思議ではない。
ここはどこか。
いわく世界の外側。リッチー氏が作り上げたという場所。物理的に僕が今までいた場所と繋がっていないらしい。
僕は誰か。ここには誰がいるか。
僕はキャニーだ。それは変わっていない。記憶が混濁しているといったこともない。ここにはリッチー氏がいる。それと、他のウィザードたちもいるらしい。そういえば、第二のウィザードの部屋がなかったな。
ハックはいない。
なぜここにいるのか。
ハックを取り戻すため。
どうやって来たのか。
神様のインタフェースを目指して、ウィザードの残した魔法陣を利用して、辿り着いた。その過程で、たしか、もう駄目だって思ったところで、何かが起きて──。
「お~い。新入り~。挨拶しに来てやったぞ~」
ドアの向こうから声が聞こえる。このやけに耳障りな人を挑発するような語尾は、確か。いや気の所為だろ。
このまま居留守を決め込む方が不自然か。
扉を開ける。
「は~い。って、どうしたんだい? そんなまるで親の仇でも見るような顔してさ~」
扉を閉める。
「どうして、閉めるのさ~」
「死んだんじゃなかったのか!」
背中で扉を押さえながら叫ぶ。ゾンビでも見たみたいにそれはもう強く扉を押さえる。
相手は無理やりこじ開けようとかそういう思いは一切ないみたいで、普通に話しかけてくる。
「君が殺してくれたからね~」
それが自分を殺した相手に対する態度か? アイロンのように無理やり蘇生されて、精神が壊れている可能性を考える。
「何もおかしくないさ~。肉体なんて所詮、世界の内側で活動するためのインタフェースに過ぎないからね~と。今日はここの先輩として、色々と教えてあげようと思ったのさ、と」
この状況の解説なら、いくらでも欲しいところだが。死んでないのは百歩譲って、なぜここにこいつがいる。
「どうせ、あのリッチーのことだから~、抽象的なこと適当にしゃべってどっか行ってんでしょ~。僕のときもそうだったからさ」
「お前のとき?」
「そうさ。ほら、あの人自分が最初のウィザードだって、先輩面してるから。僕の部屋も用意してもらったし~」
確かにさっきそんなことを言っていた。それから、僕はこいつがアイロンの命を玩具にしたことを許しちゃいないが、倫理観の無さでいうとリッチー氏も大概だった。命を冒涜できるレベルの練度がなければここには来れない。僕は特殊例だろうなぁ。
「ほら開けてくれよぉ」
それでも開けない。どうせ待ってたら、またリッチー氏が帰ってくるんだ。そしたらそのとき聞けばいい。
「仕方ないなぁ。開けちゃうよ」
開けてくれから、開けるに言葉が変わる。僕はより強くドアを押さえ全身に力を入れるのだった。いやそれは徒労に終わるんだが。
「っと、あれ? なんでこんなにセキュリティ硬いんだ~? んじゃこっちは~。が~。駄目だねこれは。流石にこんなことにリソースは使えないや」
どうやら勝手に何か試して、駄目だったらしい。
「キャニー、愛されてるねぇ~。それじゃ。僕は肉体を作るのに忙しいからさ~。気が変わったら、お話だけでも聞きにきてよ」
立ち去った。か。なんだったんだ。というか、僕はどうすればいいんだ。放っておいていいのか、ここでもう一度殺……。
少しだけ手が震える。
駄目だな。僕にはもう理由がない。
それにしたって、愛されてるってなんだ。誰に? リッチー氏にか? おかしいだろ。
三角座りしなおす。
何か他にできることはないかと、魔術を紡いでみた。
何も起きない。
呪文が間違っているとか、あるいは、魔術を打ち消す何かがあるとか、そういうことではなさそうだった。うまくいえないけど、そもそも、呪文を解釈するものがないというか。
朝も昼も夜もなく。
眠気や喉の渇きなども感じない。
なので、いったいどのくらい時間が経ったか定かではないが、ほんの数分だった気もするし、一日以上だった気もする。
とにかく、リッチー氏が戻ってきた。
「ただいま。ひどい目にあった」
こちらの了承もなく扉を開けたリッチー氏は、焦げ臭さをまとっていた。何が合ったのかは、聞かない。面倒ごとの予感がする。これ以上自分の脳に情報を増やしたくなかった。
「ちょっとは情報整理できたかね」
「おかげさまで」
「なら、そろそろその体が、今までの肉体とは別物であると納得できたかな」
「え、どういう?」
「ん、いやほら。外の世界には外の世界用の体がなくちゃだめなんだ。この話は三回目だったと記憶している」
「じゃあ、元の身体は?」
「あるよ。ここから戻れば意識を取り戻すはずだ」
「気を失ったままになっているのか」
「そうだ」
リッチー氏は空中で独特のハンドサインをすると、指を小刻みにピアノでも弾くみたいに動かした。
「これが元の君の体の状態」
空中に写真が浮かぶ。
そこには魔法陣に突っ伏して倒れている僕が写っていた。尻が突き出された姿勢になっていて、少し間抜けに見える。
「もういい」
「だから、今の君は厳密には、あの君とは別人だ。これに関しては何を人間のアイデンティティにするかで変わる問題なんだが。長くなるので止めた方がいい」
とにかく、今の自分の体が元の身体と別で、本当にこの空間が元の世界から分かれた何かだというのは腑に落ちた。おそらくだが、ここにいる限りは寿命で死ぬとかそういったことはないのだろう。
千年以上前の人物であるはずのリッチー氏が目の前にいるわけだし。
「今の僕の状態は分かった。なぁ、そろそろ教えてくれよ、ハックを蘇らせる方法を」
「それは、一過性の精神状態じゃなかったんだね」
「当たり前だろ、そのために神様のインタフェースにアクセスしたんだから」
「そうだな」
「それで、できるんだろう。ここに来るまでに見た世界の情報の奔流、あれを自在にできるのが神様のインタフェースなんだろう」
「その理解は正しい」
「なら」
「だが、神様のインタフェースも万能ではないのだよ」
「なぜ。だってあなたは、神様のインタフェースを使って世界のルールを変えたんじゃないのか」
「それも正解。ああ、本当に、ハックという魔導書を作ってしまったのは、失敗だったな」
心の中で、殴りかかりたい気持ちと、ハックと同じ顔をした彼女を殴れない気持ちがぶつかり合って共倒れする。
「いいか」
「あの世界は見方を変えればフェイクに過ぎない!」
知らない第三者の声がする。
無機質で未来永劫変わらないと思われるような、白の壁が爆炎に塗り替えられた。
「おい、いい加減にしろよ。まだ約束の時間経ってないだろうが」
かつてない怒気をはらんだハック、じゃない、リッチー氏の声。一見理不尽に見えた業炎であったが、周囲の壁が溶けて半分ほど吹っ飛んだ程度で、僕とリッチー氏には焦げ後一つも残っていなかった。
ほんの一瞬見えたのが正しければ、リッチー氏が何かしらの魔術で防壁を貼ったのだろう。さっきの写真もそうだが、リッチー氏はこの場所でも魔術を使えるのか。
「はっはー。初めましてだな! 今回の新入りは随分辛気臭え面してんじゃん」
襲来したそれは、人間ではなかった。
形状こそ人であるが、その素材や質感は炎であった。
初めましてと挨拶する常識はあるのに、初手で部屋を爆破する非常識さ、暴力性、これはあれだ、暴風ツインテールの強化版のような。このタイプは逆らってはいけない、うまくいなしてお帰りいただくより他にない。
一目リッチー氏に向けると、出会って初めて意思が合致したのを感じる。
「は、初めまして、キャニーといいます」
「おう。オレは……、第ゼロのウィザードと呼べ」
「第ゼロのウィザードさん?」
ウィザードにゼロ番目があるなんて聞いてない。というか、そんな漫画みたいに新しく追加できるもんじゃないだろう。と思いながらも、否定せずに曖昧に返しておく。
「それは、すごいっすねぇ」
「なんだ? こんな腑抜けで、ここまで来れるたぁ。妙だな」
「あー、その。キャニー、コレはある意味では第ゼロのウィザードというか、そもそも人ではないというか」
リッチー氏がここまで露骨に言葉を濁したのは初めてだ。なんなの。第一のウィザードがハックのそっくりさんだったり、殺した相手が普通に話しかけてきたり、こんな意味不明なやつがいたり。
「ああ。オレは人間じゃなくて、なんだ。この世界最初のバグというか、お前らがここにいるのはオレのおかげだ!」
「それは、それは、ありがとうございます」
「お前、聞いてこないのか」
何をさ。
「他のやつらは、第ゼロのウィザードを名乗ると、色々と聞いてきたんだよ。そりゃもうウンザリするくらいにね」
「はぁ」
「ま、一人くらいそんなやつもいるか。それで本題だ」
第ゼロのウィザードは足を大きく開いて、両手を組んで、僕にこう言った。
「別の世界に行かないか!」
人外ゆえの超大な覇気を含んだ声は、有無を言わせずに付いて行きたくなる誘惑を喚起する。もし、僕がここに明確な目的を持ってこなかったら、あるいは、目的を果たしてしまっていたら、付いて行ったのだろう。
また流されるように。
「大変魅力的ですが、それはできません。僕には、ここでやることがあります」
凛とした応答ができたと、思う。ここだけは譲ってはいけない。これのせいで逆鱗に触れて、死んでしまう……なんてことにならないように、祈っておく。
「そうか。しょうがねぇな。じゃ、行くわ」
意外にも、放課後気まぐれに普段遊ばないやつを誘って断られたみたいに、軽く流された。その後、視界が爆炎で埋まる。
天井を突き破って、それはいなくなった。
「はああああ。いちいち物壊さないと出ていけないのかね」
リッチー氏のクソデカため息が、床で跳ね返って天井に空いた穴から拡散する。
天井の向こうには、無限に広がる真っ暗な海に、光る砂粒をばら撒いたような星空が広がっていた。
星空に見えたそれはすぐに閉じ、奥行きすら吸収する黒一色になる。続いて、ゆっくりと傷が治るように、天井の穴も塞がっていく。
「あれのことは忘れていいぞ。あれに世界という概念は狭すぎる」
リッチー氏はまた机と椅子を出現させて、今度は緑茶ではなくコーヒーをコップに注いだ。
強烈なキャラクターが通りすがっていたせいで、何を話していたか忘れてしまった。確か、ああ、第ゼロのウィザードが言っていたのは、あの世界はフェイクに過ぎない、か。
「どういうことかという説明は、不要だと思うのだが」
「頼む説明してくれ」
「あの世界は、計算機上に構築されたもので、その全ては仮想的な情報処理の結果に過ぎないんだ」
「つまり、どういうこと……なんですか?」
「なぜ魔術というものが使えるのか考えたことはあるか?」
そんなの、なんでだろう。なんでだっけ。それこそあなたの功績なのでは? 適切な情報列を用意して、コンパイラなんかを使えば、事象に変換できて。
「なぜ、口で発した音が、火炎や水に変わるか。それらは魔術を抜きにすれば、まったくの別もののはずだ」
「いやでも魔術がそうなってるんだから」
「それがなぜなのか。不具合だよ。これは世界の不具合なんだ」
世界の不具合? こうして人間が便利に暮らしたりできることが増えているんだから、何が不具合なのか。ああいや、魔術がない世界が正常なのだとしたら。
神様のインタフェースにアクセスする過程を思い出す。
世界にパラメータが見えたあの体験。
「魔術は情報列を事象に変換する。すなわち事象とは情報列である」
これは、より高いレイヤーでの見方を得るために必要な、直観だった。
「火も水も、命も精神も、すべてただの情報列の変化でしかない。情報処理の結果でしかない。これは魔術を極めれば明白だ。それゆえに、魔術は世界を改変しうる。ならば、そのような世界における神様のインタフェースとは何か。それは、世界そのものである。世界そのものであって、世界を運営するもの。その権能をたかが、一人間が得られてしまうということ」
そうして、世界そのものと、一人間が接続される。全は一、一は全。魔術を極めた人間は、文字通り世界である。なぜなら、その根底のルールから書き換えられるのだから。
「この事実は、裏を返せばあの世界に真実は存在しないということでもある。任意の事象は代替可能である。私が行ったように、ある瞬間から全ての人間に魔術が使える可能性を付与することができる。全人類が改変される。そうとも気づかないうちに」
リッチー氏がコップに入ったコーヒーを床に向かって撒くと、コップから飛びでたコーヒーの雫は天井に向かって落ち始めた。
「今すぐに全ての魔術を、使えないようにすることもできる。生涯付き添ったパートナーを、記憶ごとなかったことにすることもできる」
空っぽになったコップをテーブルに置くと、さっき撒いたことが嘘だったように、なみなみとコーヒーが注がれた状態に戻っていた。
「つまらんことよ」
自分がこれまで経験したことも、嫌だった思い出も指一つで消すことができる。
「いや待てよ。なら、簡単に戻すこともできるんじゃないか。やっぱりハックを取り戻せるだろ。すべてが偽りだっていうなら、逆にいえば、ハックだって他の人間と違いはない。それに、人間がフェイクだっていうなら、ここにいる僕はなんだ」
「おーけー。答えよう」
リッチー氏は指を一本立てる。
「一つ目、戻すことができる。それは間違いだ。戻すには過去の状態を完全に保存しておかなければならない。世界を任意に変えることはできても、狙った正しい状態とは何かという情報が必要になる。
君はさっきばら撒かれたコーヒーの雫の配置を覚えているかな。君でなければ、他の誰かが、あるいは資料でもいい、どこかに保存されているだろうか。
二つ目、ハックは他の人間とは違う。なぜならば、他の人間は人間としてプログラムされて計算された存在ではあるが、ハックは違う。ハックは私の手で作り出したもので、人に似た行動はとるが、属性として人間ではない。あの世界の人間をフェイクだと見なすなら、ハックはさらにそれの真似事にすぎない」
「ちょっと待ってくれ。そんなのはどうでもいいんだ。フェイクだとかもう。もういっぱいいっぱいなんだよ」
「三つ目」
僕の割り込みを無視して彼女は続ける。
「今ここにいるキャニーは、あの世界から抜け出した存在である。その意味で、君もここにいる私もフェイクではない。なぜなら、あの世界としての一連の情報処理から切り離されているからだ」
「それって」
「本当の本当に世界の手のひらに踊らされずに、自分というものを持てるのは、世界の外に脱出した我々だけなのだ」
そんな、そんな残酷なことって。
そうであるなら、僕が今まで生きてきたことに何の意味もなかったっていうのか。僕が殺してしまったアイロンは。むしろ、殺して、殺し尽くしてしまったのは間違いだったのか。あんな風に、蘇生し続けることこそ、彼女のためだったのか。だって、戻す方法はあるんだろう。
「そうか」
いや、そんなこともう悩まなくてもいいのかもしれない。僕はここで第二の人生を始めるんだ。あの世界のことは全部忘れて、それなら、さっきの誘いに乗って旅に出るのもよかったかもしれないな。
いや、そうは思えない、ハックのいない旅なんて。
「じゃあ、ハックが蘇生できないのは」
「もうハックを再構成できるだけの情報はどこにも存在しないんだよ。魔術に焚べてしまったからね」
「過去の情報は」
「残らない。あの世界は一定以上古くなった情報は、保持できずに削除される。それが世界の限界だ」
世界最古の記録が、四千年ほど前だったか。
あの世界では誰も、四千年以前に世界があったかどうかすら、証明することはできない。
「もちろん、その一定期間とやらに関係なく、削除したものは削除されたままだ。人が死ぬということよりも、それは重いのだ。ハックなんて存在していたことすら忘れられていただろう」
「そ、それでも。僕は、僕は! ハックのことをまだ覚えている!」
感情任せに叩いた机から、衝撃も痛みも返ってこなくて、興奮の矛先が体のすみからすみまでループしはじめる。
居ても立っても居られない。
「覚えてる? 何を」
「旅をして一緒に戦って、話をして」
「そうだな。それで、ハックの好きな食べ物は覚えているか」
「は?」
そんなことが、それくらい──知らない。
「ハックの趣味は」
それも、知らない。
「それがどうしたって」
「知らないのはなぜ?」
「なぜって、話してなかったから」
「その情報がないハックは、キャニーの知ってるハックだろうか。ああ、君は私のラボで見つけたハックの習作を。これじゃないと切り捨てたね。じゃあ君にとってハックとはなんだい。君の頭の中の情報でハックが構築できるか試すといい」
時間が凍る。
あの世界の内側とこちら側を唯一平等に流れているという時間が、重く一秒進むごとに僕のことを押し倒そうと迫ってくる。
ここは世界の外側。
ここより外は、何もない虚無が広がっている。
僕は、逃げられない。
逃げる場所がない。
呼吸が乱れる。
僕の身体は、いとも簡単に精神に引きづられて乱された。
立っていることすら、ままならない。
世界の外側に逃げ出しても、僕の身体は世界の中のルールを引っ付けたまま。
こんな反応を僕に課しているのは誰?
僕は今、冷静に頭を働かせて考えなくてはならないのに。
誰が僕の身体を引き裂こうとしているの?
記憶の中にハックがいる。
それを壊さないように取り出して、元のハックといえるの?
僕がまだ知れなかった部分はどこに行くの?
分からない。
分からない。
思考は進まない。
感情は止まらない。
その全てが僕の一部なのに、少しも言うことを聞かないで、誰かの言いなりに僕の中を食い潰そうとしている。
こんな僕からハックは生まれるの?
知らない。
本物を知らない。
「ああ、ごめんなさい。キャニー。君をこんなに乱すつもりではなかったんだ」
僕を乱すのはお前?
「そうだね。君は帰った方がいい。願わくば幸福な生を」
ああ、世界の情報列が遠ざかっていく。
眠ることは、死ぬことに似ている。
世界の外側に繋がったへその緒は切れ、世界の中に意識が戻っていく。
僕が息を吹き返すとそこは、鉄格子と真っ黒に汚れた石の壁でできた独房であった。
苦しい、苦しいと、赤子みたいに泣きじゃくった。




