29──ENTER
魔導解放祭まで二週間。
この時期に入ると、祭りの準備も大詰め、関連する施設は一般の出入りが禁止される。
この国の首都ボルタ。
僕が住んでいた場所。
ただいまと言いたいところだが、僕は帰るために来たんじゃない。
空が時間の境界を知らせる赤色で覆われる。
すっかり暗くなったどこかの路地裏で、突入の時期を見計らう。
神様のインタフェース。
とうとう僕自身の魔術の腕では到達できなかった。
諦めたわけじゃない。
道が見えただけ。
この街にはカテドラルという、リッチー氏が公に残した数少ない施設がある。
用途は三つ。
魔導学会の開催。
礼拝堂。
そして、人にコンパイラを埋め込む機能。
この三つ目こそが、リッチー氏の残した功績だ。この国の住民は、一定の年齢が来るとカテドラルにある魔法陣によって、首にコネクタを刻印する。それによってコンパイラが使えるようになり、声による魔術が使えるようになる。
そして、このコンパイラこそ、リッチー氏が神様のインタフェースを用いて実現したことだったのだ。
逆に考えると、この魔法陣には神様のインタフェースへの道のりが記録されている。はずだ。そうでなくとも、過去に神様のインタフェースによって実現したという事実へと潜れば、そのまま神様のインタフェースへの手がかりを得られるだろう。
試す価値はある。
リスクもあるが、しかし、普段は一般開放されている建物だけあって、入り込むのは容易い。さらに、祭りの準備で一般の人すら寄り付かないとなれば、多少の警備を片付ければそれで住む話だ。帰りのことは考えなくていい。
神様のインタフェースにアクセスできれば、そんなものどうとでもなるはずだし、そうじゃないなら、もう、どうにでも──いやよそう。
時間だ。
徐々に浮足立つ街の空気を濁さないように、気配を消して目的地へと向かう。特別な警戒はいらない。ただバレないように認識阻害の魔術を使えばいい。オペラにバレてからさらに強いものを用意した。
今の僕は人の目に映っても残らない。
周囲に気を配ると、解放祭に向けて準備するために一時的に閉まっている施設、待たずにすでに祭りをはじめていて、新商品やら何やらを宣伝している屋台、相変わらず変化のない飲み屋なんかがある。
旅に出ないままの僕だったら、騒がしさの先触れを感じて、憂鬱になりはじめる時期だ。解放祭の間は案外暇ではあるが、準備期間は誰もこない特別展の準備や、国庫解放に一部ものを貸し出したり、警備員だってのに、運搬に駆り出されることもあった。
ふと目に入った横断幕で、あれから三年が経っていることを知る。
周期的なイベントのない生活をしていると、月日が泥のように溶けていく。
そんなにも長く旅をしていたんだなぁ。これだけ長くこの街を離れるなんて、昔の僕は想像もしていなかった。なんとなく生きて、なんとなくずっとこの街で居続けた。
冒険小説に憧れはするものの、ハックと出会うまでは憧れのままで。
そうだ、憧れのままであればよかったのかもな。
過ぎたことに手を伸ばしたから、こうなった、でもそれを取り戻したくて足掻いている。
もうすぐ終わる。
待っててくれよハック。
ハックに会ってそしたら、今度は、憧れの通りの旅をするんだ。
ハレの日を予感させる空気のなか、僕の意識はどこか遠くへ逃げたがる。
懐かしい街並みのなか、僕だけが後ろめたさを感じている。
この街を好きになったつもりも、別に帰属意識を感じていたこともなかったはずだ。
昔からなんとなく一人で、自分の居場所を決めかねていた。
にも関わらず、今より一層周囲から浮いている気分になるのは、なぜなのだろうか。
見知った風景。
知らなかった感情。
ひょっとするとこの街を親のように思っていて、自分が今からやることを知られるのが恥ずかしいのかもしれない。
そうかこれは思春期の所在のなさに似ている。
得体のしれない懐かしさとは微妙に違う感慨に浸っている。
気づけば目的地、カテドラルに到着していた。
入口にいる警備員を魔術で眠らせて、人じゃないものを通すために作られたかのような、巨大な扉を押し開ける。
その先に待っていたのは。
「元気してたかよ。少年」
明らかに僕より少年っぽい見た目のやつに、少年と呼びかけられる。
巨大な廊下。
ステンドグラスが西日を地獄のような混沌とした色に変え、僕達を照らしている。
ここから右に行けば学会などに使われる会議棟、まっすぐいけば礼拝堂。
その、礼拝堂の方向に、夕暮れの影にしては長く高い、真っ黒な人型のものが見える。
ジャンゴとその人形だった。
そして、空中に一つ、何か投擲されたものが見える。
それは音と光だった。
間に合わない。
「────」
自分の中に生じたパニックを切り離して、魔術を発動する。ただ広範囲に火を放つ魔術を。
大丈夫だ、今回は覚悟を決めてきている。
自分を俯瞰して操作できれば、うろたえることなどない。
さらに次の魔術を、視野が戻るまでは、がむしゃらに転がりながら、相手が近づけないように壁を作り続けた。
ギリギリまで圧縮した呪文が、声になり音になり、別の現象へと転換されていく。
十秒経過。視界が戻る。
まだ、壁は貼り続ける。
刀を抜いて。
息を整え。
ギリギリで迫る銀爪を体重移動で避ける。
頭二つ分くらい大きな黒い人形が、突き飛ばせるくらいの近さで、やけに細長い腕を突き出している。
同時に後ろ。
ジャンゴが警棒を振りかぶる。
前に出ているということは、人形か?
僕は黒い人形の胸ぐらにタックルをするように、接近して爪の間合いを外しつつ、逆手に持ち替えた刀で後ろにいるジャンゴを牽制した。
次の瞬間に詠唱。
黒い人形の服を燃やす。
戦闘中に使える短い魔術では大したことはできないが、それでも対象を指定して燃やすくらいはできる。
発火した後も人形ギリギリに張り付くのはやめない。
中の構造自体はこの程度の火力では駄目にならないだろう。
人形が僕から離れようと後ろに下がるのに合わせて、前へ。
だが、右の逆手で持っていた刀がついてこない。
振り返ると、牽制で出したはずの刀がジャンゴに深く刺さっていた。
わざと刺さったのか。
刀を手放す。
やっかいなのは黒い方だ。そっちを無効化する方を優先。
黒い人形の後ろへ。
続いて長めの詠唱を開始。
なっ。
黒いやつの両腕の関節が真逆に曲がって、爪が僕の方へと迫る。
それを飛んで回避。
嘘だろ。
前に進むのと同じ早さで後ろ向きに追ってくる。
なんだこいつ。
ここまで人間離れした動きをする人形だったか。
口での詠唱は続けつつ、両手でも呪文を紡ぐ。
両手の表面に、物理的に貫けない層を作成する。
ステゴロはやらないんだが。
迫る爪を拳で弾く。弾く。弾く。
三回弾いたところで、爪による攻撃から、手のひらでの掴みに切り替わる。
爪が効かないから。じゃないな。たしかこいつの手のひらには魔術による事象を無効化する魔術がついていたはず。
うまく手の外側の爪の部分に拳を当てて防御する。
そして詠唱が終わる。
巨大な炎で出来た鳥が、人形へと飛ぶ。
向こうが回避しようとするが、もちろん追尾ありだ。
全力で横に避けながら、それでも避けきれず、手のひらを使って消そうとする。が、当たる瞬間に、火の鳥は分裂して後ろへと回り込む。
さて、小さい方、ジャンゴの見た目の方の人形が消えているということは。
また後ろか。
見かけ以上に素早いが、小さい分どうしても体重が軽いのが良くない。
ジャンゴが振り下ろしてきた刀を白刃取りして、持ち主を蹴り飛ばす。
よし、武器が帰ってきた。
人形たちの動きはかなり早いが、シキほどじゃない。四六時中刀抱いてるやつに比べたら、対応できないなんてことはない。
「強いな」
火炎が着弾し、全身から黒い煙を上げながら、黒い人形が立ち上がる。
「騎士団の首席も狙えるくらいだ」
なんだ、勝てないから会話で時間を稼ぐつもりか。
「さすが、バーナーズ家の三男だ」
「あ?」
僕は駆ける。
突きの構えで、その人形の中に籠もっているだろうジャンゴに突き立てるつもりで。
「解除」
黒の人形が割れる。
ちょうど刀を突き立てようとした場所が開いて、生身のジャンゴが吐き出され床に着地する。
同時、切っ先が入れ違うように、黒い人形のがらんどうへ差し込まれる。
ジャンゴの拳が僕の喉を殴る。
避けきれずに嗚咽が漏れた。
不意を突かれた。とはいえ、本人が非力だからだろう、戦闘続行に支障はない。
「モード。Qモデル、レイテスト」
吹っ飛ばされる。
一瞬遅れて理解が追いついた。
刀を突き立てた人形が、そのまま刀ごと僕といっしょに跳躍したのだ。
「僕は思うんだ。人間を模倣して、僕の祖父は半自動人形を作った」
ジャンゴはこちらを見ながら、ゆっくり後ろに下がる。
人形が開いている。
腕が中に挟み込まれて、血が滲む。
抜けない。
銀爪が迫る。
開いた片腕でナイフを人形の肩に食い込ませて、無理やり軌道をおかしくする。
もう片方が止められず、背中が裂ける。
詠唱が終わる。
人形に飲まれたままの右腕と刀から、爆風が広がる。
横に振り払って、どうにか拘束から抜け出せた。
「それを超えるなら。人間を超えないといけないと」
腹部を爆破させたにも関わらず、人形は辛うじてのこった半分の装甲で、姿勢を保つ。
欠けた部分のバランスを埋めるように、歪に首が傾いている。
そして、上半身が後ろに倒れたかと思った、次の瞬間。
僕は上に吹っ飛んでいた。
ああ、蹴り上げられたのだ。下を見ると人形がのけぞったままの姿勢で停止して、落ちてくる僕を切り刻もうと待ち構えている。
凄まじいスペックだ。
時間が薄く長く伸ばされていく。
落下までに、刀を下に突き立てるように持つ。
補助の魔術を発動する。
狙ったラインで落下できるように。
ほんの少しだけ刀が先行できるように。
刀を射出した後、すぐに跳べるように。
蹴り上げられた軌跡の頂点へと到達するまでの間に、自分の動きを頭の中で構築する。
落下する。
シミュレーションした動きをトレース開始。
真下を見て、刀を押し込み突き出す。
上半身の向きごと上を見ていた人形が、床に背中を打ち付けた。刀が刺さって、床に釘付けになる。
落下する。
手だけで柄の頭へ着地するように、押す。
左右から爪が迫るより早く、バク転するかのように、爪の間をかいくぐって飛ぶ。
着地。
時間の流れが元に戻る。
人形は床から起き上がろうとして、水に落ちた虫みたいにもがいている。
続けて僕は隠蔽の魔術を紡ぐ。ジャンゴから完全に姿を隠すために。
刀の周辺の装甲が割れてもがれ、人形は立ち上がる。
腹と胸の部分のパーツが崩れ落ち、中央を太く貫く背骨が剥き出しになる。
「消えた」
僕を見失っているジャンゴを放置して、目的地へ向かおうとしたが、立ち上がった人形と目が合ってしまう。
人形が跳躍。
人間ではありえないバネ。太い背骨を使った跳躍。姿勢が完全に崩壊している。
それが真っ直ぐに、こちらに向かってくる。
見えているのか。
どう来る。
人形は転がるように、瞬間的に四足歩行になりながら、その次に並行に回りながら、予測のつかない形で飛んでくる。
両腕に干渉できない層を作って、とにかくガード。
うまくそこで受けて、衝撃は浮いて吹っ飛ばされることで逃がす。
問題はその次。
掴まれなかったのは不幸中の幸いだが、このまま受け続けても意味がない。
動きが無茶苦茶すぎて、懐に入って避けるのは無理。
吹っ飛ばされながら、床に刺さった刀の方へ。
使うしかないか。
少しだけ、記憶を薪として、魔術にくべる。
床から刀を抜く。
柔らかい布にでも刺さっていたのか、というほどに抵抗なく切っ先が抜ける。
「全ては斬れるもの」
物質的な強度や位置関係など関係ない。
今から僕は、より高いレイヤーを斬る。
シキが修練で辿り着いた最奥を、魔術を使って一時的に再現する。
視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、しょせん最下層に現れる表層でしかなく。
その裏側に、より高次な魔術的次元が存在する。
見えた。
相手の魔術の根幹を成す部分を、一刀両断した。
遅れて物理階層へフィードバックが起きる。
人形の背骨が真っ二つに縦に裂け、それに伴って、各関節から力が抜け糸の切れたように、床に散らばる。
「まだやるか」
「まいった降参だ。今のどうやってやったんだ?」
両手を上げるジャンゴの方へ歩く。
「それでさ。ここからどうするんだ? 目的って神様のインタフェースか?」
刀の峰で意識を刈り取った。
「もう、話をする気はないんだ」
くそ。
記憶をくべて魔術を使ったからか、脳の中央付近がジンジンと熱を持っているのが分かる。
大丈夫、消えてもいい記憶……だったはずだ。
使ってしまった今となっては、それがなんだったかも分からない。
日が沈み窓から差し込む光が、夕日から月に代わっている。
ったく。いつ増援が来るか分からない。
どうしてみんな僕に構うんだ
早く、魔法陣の方へ。
その部屋は、礼拝堂の地下にある。
この国の住民の多くが利用する施設であるにも関わらず、入口は狭く、一度に一人しか通れない。
明かりは壁際に設置された小さなろうそくが四本。
夜目が効かなければ何も見えない。
部屋は魔法陣から一メートルもすればすぐに壁にぶち当たる。
文字通り、その魔法陣を保管するためだけの部屋。
入口の開いている部分の壁、それに、左右の壁は新しく修繕された形跡があるが、奥側の壁と床は、石の削れ具合から、完成当時と同じままにされていることが伺える。
大の字に広がった人をちょうど囲い込める大きさの魔法陣。
床石の角が削れて丸くなっているにも関わらず、床に伸びる線は今描かれたかのように輪郭がはっきりしている。
そのため、床から浮いているようにすら見える。
最後に、奥の壁には祈るような形で上半身のみの彫刻が、壁から生えていた。
確か、この彫刻が魔法陣の起動に必要な、魔術具なのだ。
僕は手早く、魔法陣と壁の彫刻の内容を把握すると、早速魔法陣を起動した。
薄暗い部屋の中で、魔法陣が無数の色を帯びる。
その色は自ら光を放っているように明るく見えるが、壁や周囲にその影を残さない。
まるで世界から浮いているかのようだった。
次に、本来の用途であれば、首元にコンパイラを埋め込むが、僕にはそれがすでにある。
魔法陣が僕の首元を参照するあたりで、既存の呪文に上乗せして、逆方向への伝搬を発生させる。
コンパイラがいかにして生成されるか、否、人間がいかに魔術を使えるように改変されるのか。
その道順を逆流して、高位の階層に至る。
より強い権限を。
あらかじめ用意しておいた解析用の呪文を順番に試していく。
意識を集中していくにつれ、感覚が世界から解離していく。
埋没する埋没する。
無数に脳裏を流れる魔術のログが、徐々にただの情報列ではなくなっていく。
その源流を辿る。
より強力で世界を改変できる魔術を。
本来魔術の使えないはずの人間に魔術が使えるようにすること。
それは世界を改変することだ。
だから、その流れの中に、世界へと至るパスがある。
用意してきた魔術具を消費しながら、絶えず詠唱を続ける。
魂が解離する。
僕という魔術実行プロセスは、肉体とのリンクを相対化して自由を手に入れる。
呪文に手触りを感じるようになったあたりから、僕はあの薄暗い地下室から消えた。
自らの口で紡いていた魔術は、いつしか思うだけでひとりでに動く使い魔へと変わる。
魔術階層、OSIレイヤー。
物理層、解離。
精霊層、透過。
亡霊層、統合。
悪魔層、繁殖。
自己組織的探索プロセス開始。
世界が広がる。
一段階上るごとに世界の見え方が変わっていく。
絵を見た瞬間に、その制作過程を味わえるように。
些細な癖から、その人の人生を直感できるように。
膨大な情報が僕の脳を通過して、過ぎ去っていく。
この中から僕の求める権限に辿り着かないと。
見るつもりもないものが、次々に現れて、形を結べずに捨てられていく。
ここで、脳を焼き切ってしまえば、そのまま廃人になって終わるだろう。
次は絞る。
呪文で編んだ魔術で、情報をとり、見方を一段上に上げ、必要な知識だけを錬成する。
天使層、創発。
モザイク模様の知覚が思考が、焦点を結ぶ。
現れた。
途端に、世界の情報処理プロセスと溶け合っていた自分が、はっきりと自覚される。
今まさに自分の自我は生まれたのだと錯覚するような、誕生の体験。
しかし、手も足も脳もない。
体はないのに、確かにここにいる。
そして、目の前に、一枚の窓が現れる。
その窓は世界の理を覗き見るための道具立て。
神様のインタフェース。
視覚的には、記号的な真四角の外枠の中に、二つの細長い、記入欄のようなものが見える。
念を押して言うが、ペンなんて道具はここにはない。
なんなら道具を使うための、手も生えていない。
ならば、どのようにして、これに触れるというのだろう。
そうではない。
見えた、すなわち、すでにアクセスできている。僕とこれの間には相互作用が発生している。
使い方は自ずと分かる。
「何か」
そう文字が一つ目の空欄に記入された。
「」
入力する気を取り下げれば、空欄に現れた文字は消えた。
「キャニー」
「バーナーズ」
記入しても何も起きない。
直感的に違うと分かる。
ここは署名する場所じゃない。
「復活」
「ハック」
これも違う。
ここは命令を入力する場所じゃない。
神様のインタフェースが目の前にあるのにも関わらず、僕には使い方が分からない。
そうではない?
使い方が分からないのではなく、まだ使えない。
遺跡の入口に厳重な隠蔽が施されていたように、これも。
鍵穴に対応した鍵があれば、扉は開く。
セキュリティに対応した魔術を使えば、遺跡は開く。
ここに対応するものは?
文字が記入できることは分かった。文字数は分からない、それにどのような文字が許されるのかも分からない。
間違ったとしても、どのように間違ったのかフィードバックは得られない。
得る方法はあるのかもしれないが、今の僕にはない。
試すか、片っ端から。無限に近いパターンを。
無謀だと思うが、可能性はゼロではない。
やれるだけやるか。
僕は考えるのを止めて、ランダムに片っ端から試し始めた。
一回目。
二回目。
四回目。
八回目。
十六回目。
三十二回目。
六十四回目。
百二十八回目。
二百五十六回目。
五百十二回目。千二十四回目。二千四十八回目。四千九十六回。八千百九十二回。一万六千三百八十四回。
終わらない。
現実ではどれだけの時間が経っているのだろうか。
まだ試せるか。
こうしている間にも僕の肉体は捕まっているのだろうか。それとも、もうこの空間に霧散して、肉体などなくなってしまっているのだろうか。
おかしいな。単純な精神活動だけの、ただ試すだけの作業なのに、疲れてしまっている。
心が折れそうだ。
いつまでやればいい。
一生か?
こんなものが僕の人生か。
三万二千七百六十八回。
六万五千五百三十六回。
精神が摩耗して、無に近づいている。
目の前には同じ景色しかない。
世界は存在しない。
届かない。届かない。
なぁリッチー氏、こんなものどうやって、この先に行ったんだ。
教えてくれよウィザード。
ねぇ神様。
祈りが届いたのか、それとも気まぐれか。
十三万千七十二回。
十三万千七十三回目を記入する前に、変わらないはずだった世界に異変が起こる。自分が記入したはずのない、文字列で空欄が埋まっている。
「キャニー」
「********」
0x0a を入力する。
初めての体で、意識が覚醒する。
真っ暗な空間、やや傾斜の付いた場所に寝かされている。左右は寝返りが打てないくらい狭く、息の跳ね返りが閉塞感を感じさせて、ああ窮屈だなぁ。
「さあ、もう、できたかなっ」
棺桶のような入れ物が開き、目が光を受け取る。
かすかな空気の流れが肌をなぞり、息を吸うと清潔感のある香水か何かの匂いがする。口の中は乾いていて、朝寝すぎた時の味がする。
「はじめまして。キャニー」
おそらく思春期前であろう少女の声。
口調こそ知らないが、声色は僕の知っているそれだった。
「私の名前はゴト・リッチー。ご存知、第一のウィザードだ」
ぱつんと切り揃えられた黒髪。幼気なのに、こちらを見通すばかりか、飲み込むような瞳。服装だけは違っていて、見たこともない汚れも模様もシワもない、洗練された服装を着ていたその人は。
「ハック、なのか?」
「残念だが違う。繰り返すが、私はゴト・リッチーだ」
「は?」
「ハックは私が作った存在しない人物なんだよ」
あれ? あれぇ。
視界が浸水して何も見えない。
泣き方を勉強してない子どもみたいに、ぎこちなく泣いた。




