22──黄泉路へ その1
頭の中が酷い静寂で埋められている。
さっき自分が作り上げた無数の墓標から、逃げるように山を突っ切って、倒れながら走って果てた。そして今は、自然と一体化しつつあるあばら屋の壁に、全てを預けてへたり込んでいる。指の先は真っ黒になって、爪と指の境目が汚れで埋まり、足の先にはボロ雑巾みたいな靴が付いていた。
とはいえ、腹が空いた。
荷物のたぐいは全て回収できるだけ回収して持ってきてあるし、いつ汲んだか分からないが、途中で汲んだ水もある。あとは、食い物の残りがあるかどうか。存外無事だったリュックをひっくり返して中身を出す。今更、パンや干し肉が床に落ちた程度で気にすることもない。
ただ嫌に頭の中が広く感じた。「おーい」と叫べば、反響しそうなくらいだ。
そうだ、いつからだろう、ハックの声が聞こえなくなったのは。別れたのだと実感したのはいつだったか。
「お主」
咄嗟に僕は声を出した。そうすればハックが現れたつもりになれると。どれだけ本気なんだろうな。
ぶちまけた荷物の中に、まだ食べられそうな干し肉があったから、軽く炙って柔らかくしてから奥歯で噛む。自然と魔術を行使していることに気づいて、知らない第三の腕が生えていたような不気味さを感じた。
どういうことだ、魔術を使うのはハックだっただろう。僕じゃない。
とにかく食料と水の残量を確認できたから、残りの散らかった荷物をリュックに仕舞い直す。すると、一枚の紙が目についた。だってこの紙はオペラに置き手紙をするのに使った紙で、書き損じは全て捨てて来たんだ。だから、ここに文字の入った紙などあるはずがない。
あるとしたらそれは──。
二つに折られていただけの紙を優しく広げる。僕の文字ではない。達筆でも整っているわけでもないが、的確で読み取りやすい文字だった。同じ調子で最初から最後まで、人間じゃないか、さもなくば、熟練の書記が書いたような。
とにかく読んでみる。
『お主へ』
「ハック? どうして? お前は僕の中にいるんだから、手紙なんて書く必要ないじゃないか」
くしゃりと握りしめたいが、指先に力が込められない。
『お主がこの手紙を読んでいる頃には、わしはもう消滅しておるんじゃろう。最後の瞬間には話もできないと、そう読んでおる。じゃから、こうしてお主が泣きながら手紙を書いている時の脳時間をもらって手紙を書いた。
念を押して言うぞ。わしは消滅した。そして、もう戻ることはない。絶対に。時間を過去に戻せないのと同じじゃな。
じゃから、わしが望むのは、元気に生きて欲しい。ただそれだけじゃ。
オペラと仲良くしろなんて言っても、お主には無駄じゃろうから。
せめて、わしのことも、ここ最近の戦いも忘れて、全部忘れて生きておくれ。
じゃあの。
追伸:わしとしての記憶は全部使い切っていくつもりじゃが、知識は置いていくからよしなに使うと良い。
──ハックより』
全部、分かった。
ああそうか。ハックは魔術として消費されたんだ。魔術を発動するには、それに相応するだけのコードを消費しなくてはいけないから、声であれ文字であれ、あるいは他の何かであれ、何かしらの形でコードを表現しないといけないんだ。だから、ああそうじゃないか、僕はどれだけの魔術を使った? あの時の戦いで詠唱を省いた場面はなかったか? 自らの魔術の代償に記憶を捧げたやつがいなかったか? 僕は何も知らずにハックを使っていたのか?
戦わなければハックは生きていたか?
誰のせい、誰のせい、何が悪い、どうしてこうなった。僕は何を間違えた。
ぎりぎりと、奥歯に挟んだ干し肉を噛み潰す。
「くそがっ、くそがくそがよーーーーーーー」
吐くように叫んだ。
意味が分からなかった。
ここまで一緒にやってきたのに、誰よりも近い位置に勝手に居候しておいて、僕を日常の外に連れ出しておいて、勝手にどっかいきやがった。
僕を助けて連れ出してくれた。
なんなんだよ。
行かないでよ。
置いて、行かないでよ。
手紙を読み返す。
こんな僕を──。
オペラの文字が目に入る。
僕はオペラに何をした?
勝手に救世主気分で手をとって、抱えられなくなったら逃げ出して、ハックと同じだ。もうダメなんだ。何人も人を殺した。ああ、何人だっけ、数も名前も顔も何も覚えていない。作業だったからだ。何もかもから逃げて、そうするしかないと思い込むための作業だったからだ。なんて愚かなんだ。その上ハックもいなくなって、これ以上僕は何をすればいい? オペラに合わせる顔なんてない。故郷に帰るわけにもいかない。確かにあいつは悪人で、孤児院も悪の組織だったけど、それでも僕は人殺しで、多くの罪を犯した。この汚れた手を取る人なんていない。
一人きりなんだ。
さびしぃよ。
目から落ちた水滴が手紙を濡らす。
今のがなけなしの体内の水分だったのか、喉が渇いてくる。
水筒の水じゃ足りなくなったから、頭の中に浮かんだ呪文を口ずさんでみる。
すると、じわりじわりと空中に水滴ができてくる。
混じりっけのない水球が現れる。
それを、飲む。喉が潤う。味がしなくて、心がすさむ。
何度目か変わらないどうしようを考える。
もういっそ頭の中を洗剤で洗って、まっさらにしたいくらいだった。
僕なんて、なぁ。どうなってもいいんだからさぁ。
どうやって生きたらいいか教えてくれよぉ。ハックぅ。
生きてて、生きてていいのかよ。
ハックは生きろと言ったんだ。言った本人がいなくなるなんてズルいじゃないか。
頭の中で自分の母親がチラつく。
好きに生きて良いと言った母親。生き方を教わらなかった自分。何も残さず母親は死んでしまった。また置いていかれた。
やけになって頭の中をひっくり返す。何かないか探す。
何もなければ、ここでずっと眠るだけだ。
思考と呼ぶにはあまりにも幼稚な行為を、やたらめったらに続けた。
そして、天啓が下りてくる。
ハックとは何だったのか。
僕の頭の中に間借りしていただけの幽霊ではない。この世に幽霊がいるかどうかなど分かりもしないが、ああ少なくともゾンビのようなものは殺したばかりだが、しかしハックには体がない。元々魔導書の形で博物館に保管されていたものだ。それが、開封と同時に僕の脳に移動した。
それならば、ハックの元がなんであれ、第一のウィザードに作られた魔術具であること、人の手で作られた物であることには変わりがない。死んだ人間をそっくり操る方法があったんだ、人の手で作られた魔術具一つ再現できない理由がない。
当たり前のことだ。
それなら僕のやることは決まりだ。
第一のウィザードであるゴト・リッチー氏の遺跡を、片っ端から開けて回ればいい。現代に至るまで様々な魔術具や研究ノートは算出されているが、活動していた期間を考えると百分の一にも満たないだろう。それらは全て、紛失していたのではなく、封印されたまま見つけられていないだけなのでは? そこにはハックのスペアも存在するのでは? ハックはリッチー氏の伴侶をリッチー氏が保存したものだったはずだ。最初に聞いた時は半信半疑だったし、思考停止してしまっていたが、アイロンの蘇生を見てしまったのだから現実として考えるしかない。そう、死者は蘇るし、それは再現性のある事象なのだ。
であれば僕は、それを目指すしかない。幸いハックが残してくれた魔術の知識がある。多分これで充分ではないだろうが、才能のなかった僕がここまで理解できるようになるなんて、一生かかっても無理だっただろう。
ならば行くしかない。
今度こそ何も失わないために。
手始めに、ハックが前にリッチー氏のラボがあると言っていた、あの村か。光の舞うあの景色を見た村、昨日のことのように思い出せる。僕の人生であんなに綺麗な景色を見たことはなかった。そんな場所が最初の目的地なんて、なんだか運命めいたものを感じる。
ああ大丈夫。きっと大丈夫。
ハックから受け取った魔術はある。
いくらかかっても成し遂げてみせる。
待っていてくれ。
腹の底から湧いてきた興奮のまま、荷物をまとめて外に歩き出す。
不気味に鳴くカラスも、焼くような夕暮れも、今の僕には応援歌に聞こえてきた。
さぁ、始めるぞ。




