七秒後の世界
ドイツの研究所に属する神経科学者でヘインズ博士という人がこんなことを言っていた。「人間の決定は、脳活動によって強力に準備されている。意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」と。要約したどこかの記事では『意識をする七秒前に脳が判断をしている』とのことだった。
それを僕は、正しい位置から転げ落ちた雑貨が閉口する部屋で、不意にも思い出した。
死にたくなる。
そんな気持ちが沸き上がる毎日だった。それは最初こそ微々たるものだったが、今では膨れ上がった借金のようになっていた。一度しか出来ない自己破産をするしか、手が浮かばないほどに。
僕は······かつて弁護士を目指した人間だった。ただそれも九年前のことだが。五年間の内に受からなくてはいけない司法試験に五度落ちた僕は、ついに、その道を歩むことを許されなくなった。
五年間以上が、水泡となって弾けた瞬間だった。
足元が崩れるというよりも、人生なんてのはこんなに呆気ないものかと思った瞬間だった。「インスタ」だの「彼女が出来た」だの、友人や誰かが“普通の幸せ“を次々と手に入れる中で、僕は、それまでの時間を無駄にする努力だけをしてきたのだから。僕は、僕自身を“馬鹿だ“と思うくらいしか出来なかった。
そうして、妥協と言えば言い方は悪いが、公務員になった。――が、長くは続かなかった。
司法試験に落ちた末、そこに辿り着いたという貼り紙は、周りにとっては面白い刺激だったらしい。ひっそりとしていても、後ろ指を指される日々だった。だが、日本社会というのは年下でも、明らかに自分より力が劣っているとしても、上の者に頭を下げるのが通例らしい。俺は人より頭を下げる回数が多かった。
そして、そうしている内に、仕事を辞めていた。
仕事は人並みにこなしていたのだが、馴染めないというのはこんな居心地が悪いのかと知った。だがその裏では、以前思った“普通の幸せ“を歩んでいれば『こうなっていたのかもしれない』と安堵もしていた。嫌いな人間模様だった。この時ばかりは、弁護士になれなくて良かったと思った瞬間だったかもしれない。
猿みたいな社会からリタイアして僕は、そこで稼いだお金で堕落した日々を過ごしていた。一人暮らしのワンルームの部屋に、それなりの家具や雑貨を揃えてみたりした。最低限の生活が出来るほどのベッドや机はあったが、それ等がやってきた時、少しだけ部屋が賑やかに感じた。自分の好きで溢れているのだから当然かもしれないが。
小さな植木やスノードームを置いたり、街で見つけたよく分からない小さな手作りの木製人形を置いてみたりした。しかし、その中でもある時から集めだしたのは、漫画や小説、そして映画にゲームだった。
どうしてそれ等に夢中になったかと言えば、娯楽であり、フィクションだからだろう。ただ、勉強と仕事に勤しんできたこの身とってはとても刺激的だった。少しだけ“普通の幸せ“という楽しさが分かった瞬間だった。
そして、ふとある時、作る側へ回りたくなった。
理由は、作者が自分の伝えたい事や表現したい想いがあるのだと知ったこと。そう遠くない未来に、蓄えてきた金がなくなるだろうと思ったからだった。親しまれる動画をインターネットに投稿するだけで稼げる時代なのだから、いい時代だと思った。パソコンもネット回線も繋いであった。
しかし、現実はそう甘くなかった。
半年、動画を投稿してみたものの、稼げたのは小学生の遠足程度。とても生活出来るものではなかった。それから漫画も小説もやってみた。だが、全て駄目だった。
借金をした。
自分の好きに囲まれているはずなのに、首を絞められているようだった。首を絞められたいくらいだった。誰に届くこともない声なら、いっそ二度と喋れなくして欲しかった。
僕はまだインターネットに夢を見ながら、借金を返すために三十を越えてバイトをした。もはや、どうして金を借り、どうして金を返そうとしているのか、それさえも分からなかった。だが、生活をするためだろうと無理矢理言い聞かせ、身体を動かした。
就職はもう、とても出来るとは思えなかった。既にあるレッテルでこうなってしまったのに、年齢というもう一つのレッテルを貼られて、再び、社会に溶け込める気がしなかった。
バイトは、ほとんど無言のライン工場だった。一日中忙しなく働く機械より、機械のように死んだ人間をしていると思った。機械にさえ劣る存在のように思えた。
そして、そんな毎日が続くある日だった。
高校で中堅企業に就職した“とある友人“から結婚すると連絡が来た。携帯の画面には、とても幸せそうな写真が添えられていた。「おめでとう」と少しの祝福を返したが、普通を見せられ押し付けているようで、心の底から吐きそうな劣等感に苛まれた。
どうして、こんなことをしているんだ――と。
過去を振り返った。だが、思い出せたのは全て徒労の日々だった。弁護士を目指した数年も、フィクションに溺れた時間も、インターネットに夢見た残り時間も――、
全てが徒労だった。全てが徒労だと知った。
俺は、望んだ未来はもう手に入らないと知った。
部屋を強盗のように散らかして、蹲るようにして髪を掻き毟った。全てがまるで、七秒前に作られた世界のように感じて自分の運命を呪った。自分の世界を今まで以上に終わらせたいと思った。
ドアノブに紐を掛けた。
手に掛かる紐を放そうとした。
ふと、顔を上げた。
そこには自分の、壊れた世界だけがあった。
手から紐を滑るように放した。
カーテンを締め切ったぼんやりとする部屋の中、割れたスノードームだけは最初から「自分はこうなる運命」だと知っているようだった。