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翌朝の事である。
続きの間で豪華な食事を取り、各々装備を整えて部屋を出た。
侵入して最初に取得したカードキーを持ってまずは椎名が上物と言った地上部分を見て回った。
地上三十階建ての建物は十九階までは白い空間の部屋がいくつかあるだけだった。その中のいくつかは誰かが寝泊りする事が想定された作りになっており、大概はベッドが一つ二つ置いてあり、バスルームと手洗いが併設されていた。その部屋の作りは牡丹が母と数日過ごした部屋によく似ており、矢張りあの時の建物ではないかと想起させた。
そして、二十階以降は牡丹たちが現在寝食をしている部屋と同じような部屋が二十四階まで続いた。
二十五階以降は昨日見た椎名がバーチャル・リアリティシステムが設置された部屋があった。
不思議な事に、この建物の二十九階部分までは人とは遭遇しなかった。矢張り本体は地下である事は間違いなさそうだった。
「人っ子一人いないのは不気味だな」
須藤が呟き、三十階に到達した。
エレベーターの扉が開くと一人の男が立っていた。
三人は咄嗟に獲物を強く握った。
「やっぱり帰ってきてしまったか」
男は、牡丹を施設から追い出し捨てた男であった。
★
男に三十階フロアの最奥の部屋に案内された。
床は壁と同じウォルナットの床材で、窓際に机が置かれている。来客を対応する応接スペースが部屋の中央にあり、そこに三人は案内されて座った。
男は部屋の向かって右側の扉に消えて、少しすると盆にカップを三つ置いて現れた。
「インスタントだがね」
そう言ってインスタントコーヒーを差し出した。インスタントとは言え貴重品だ。三人は有難く口を付けた。
「お久しぶり、でいいんですよね?」
牡丹がそう聞くと男は頷いた。
記憶にある男は非常に恐い顔の記憶しかなかったが、少し神経質そうな面立ちの顔を悲しそうに歪めた。男が笑ったのだと分かった。
「そう、久しぶりだね。戻って来れないように戻りたくなくなるようにしたつもりだったが、無理だったな」
すまないね、男は言った。
「お名前を教えてください」
「海老名 優だ。君のお父上の元で研究をしていた。皐月さんとは大学時代の同級だったんだよ」
「海老名さん。母は、父は、今どこにいるんでしょうか」
海老名は緩く首を振った。
「そ……うですか」
想像しなかった訳では無い現実に牡丹は最早身を立てて居られない程の感覚に襲われる。貧血のような症状にじっと目を瞑って堪えていると、士郎に肩を抱かれて倒れ掛かった。
「経緯を説明したい。横になったままで聞いて欲しい」
海老名はそう言って語り出した。
★
「所長、運用はまずまずのようですね」
海老名が水槽の中の少女のデータを眺めながら背後に立つ男性に聞いた。
男性は、一条 透。この研究所のトップを務める男だった。
「順調だ。まずい事になってしまった。海老名君、上に提出するデータをこちらに差し替えてくれないか」
透は海老名に書類を渡した。書類に書かれているデータは実際のものよりも脳波が不安定で、とても運用には適当では無いと思わせる程度に改竄されたものだった。
「椎名さんは納得するでしょうか?」
海老名の問い掛けに透は渋面を作る。
「検体の状態も操作しなければならない。しかも、ばれたら唯では済まないだろう」
すまん、と透は目を伏せた。
椎名はこの研究所の持ち主だ。
優秀な科学者を雇い、自らの欲望の研究を為す手伝いをさせている。
この研究所は椎名の家が代々受け継いできた山を切り開いて作ったものだ。
当時は何の為かは分からなかったが、椎名が施した研究所を守るようにした強固なシェルターは役目を果たし、戦火を免れた。
透は、椎名に何がしかの弱みを持たれているようだった。そしてそれを盾に透にとっては不本意な研究をさせられ、あまつさえ研究所の所長を担っていた。
海老名は学生時代の助教授であった透に付いて行く形で、椎名の研究に加担していた。
海老名は初め、椎名の構想の末端を聞いた時に夢物語であると思った。そう思わせるくらい現実味がない話しだと思った。しかし、段々とその異常さを理解していった。
仮想現実の世界に完全に肉体と別離した意識を送り込み、新たな生を与える。簡単に説明するとそう言った技術を作りたいのだそうだ。
つまりそれは現実世界での人間の生を打ち切り人格のみをAIに管理されるという事だ。
海老名の目の前にいる少女はその構想のプロトタイプである。現在少女はきちんと肉体はある状態であるが、その内実現したら肉体は不要となるので廃棄予定であると聞かされた時は人間の本能的な恐怖と嫌悪感に苛まれた。
直ぐにでも研究所を出ることは出来た。しかし、海老名は尊敬する師を置いて出る選択を出来なかった。
———そうして世は戦乱に巻き込まれる。
透は、自宅に残した妻子である皐月と牡丹を迎えに行くと、海老名と椎名の制止を振り切って出ていった。
それが海老名が透を見た最後であった。