詩人の匂い
喫茶店の扉は閉ざされて僕を拒んだまま開かない。僕は隣り合う古書店で見かけたあの娘を追いかけてここまで来た。彼女の後ろ髪からは詩人の匂いがする。薄汚い言葉は使いたくない。出来るだけ、出来るだけ。綺麗に装飾された言葉を使いたい。奥行きがなくても、表層でも、綺麗に包装された言葉を。それは僕を逃亡させてくれるからだ。この国に安全圏なんてなくても。逃亡させてくれる。
若い息子に看取られる聾唖のゴヤ。黒装束の巨兵に守られる美貌の人。決して見ることの出来ない女性の秘め姿。楽しいから笑う。悲しいから泣いて。嬉しいからほころぶ。そんな当たり前のことも出来なくなって。沈んだ月の裏でユートピアが燃え盛ったのは、多分僕のせいだ。残念だけどね。そう。とても残念なことだ。深く深く心は埋もれていって、その「目」は、恋人たちがお互いに何も関心がなくなった時に、東京スカイツリーが懺悔する姿でも見るんだろう。
貧乏人へ不意に舞い込んだ万馬券。自動車が大破して転がってきた見舞金。スクラッチで3つ数字が揃ったカード。でもそんなもの彼らは欲しがるだろうか。今現在の彼らが。だって彼らは心も体も動かなくなって、死が間近にあるんだから。そう。彼らの死は決して遠くない。胸が痛いけれどそれは本当のことだ。
僕は君をあの喫茶店に連れて行きたい。体がまだ動くうちに。
君をあの喫茶店へ連れて行きたい。心が凍え死ぬ前に。
あの喫茶店へ。
そう。あの喫茶店へ。だってそこでは夢色の薔薇が見れるって話だから。
あの娘もそこにいるはずだ。古書店で見かけたあの娘も。でも悲しいことに、僕らは絶対に彼女とは知り合いになれない。なぜって彼女の後ろ髪からは、詩人の匂いがするから。だから近づけない、知り合えない、分かり合えない。彼女は永遠に他人のままだ。
僕は君をあの喫茶店に連れて行くよ。
君をあの古びた喫茶店に。
あの喫茶店へ。
そう。あの痛ましい想い出ばかりの喫茶店に。
扉はまだ僕の前では閉じたままだ。僕は喫茶店から締め出されて、詩を綴るだけ。綺麗に装飾された言葉を使って、安全圏のないこの国で逃亡しつつ、詩を綴るだけ。多分僕にとってあの喫茶店の扉は開かない方がいいのだろう。
そう。隙間からは心の傷を覗き見れる、その扉。
その扉は閉ざされたまま。
開かない方が。