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第3章

 ぼんやりと膝を見ていた。

 焦げ茶のパンツの膝には鉤裂きができていて、そこから覗く包帯の白が目立つ。その周りに黒っぽい染みが点々とついている。

 その手前に、真っ白なミトンがあった。よく見ると自分の手だった。

 手首まで包帯でぐるぐる巻きにされ、指先もすっぽりと覆われている。親指だけは顔を覗かせていたが動かない。麻酔が効いているのか、と気付くのに数秒かかった。

 ブーとブザーがなって、それまでタタタタタと聞こえていた音が止んだ。それで顔を上げると、休憩室の窓の向こうの入力室の皆が仕事の手を止めるところだった。チーフがこちらへ走って来た。ドアを開けて顔だけ覗かせると、

「おっ、しゃんとしたね。下行くよ」

 手招きされて、あとに続く。森さんも一緒だ。チーフが私達を連れて来たのは三階の会議室だった。そこには既に澤田さん、中嶋さん、古田さんが居た。

「何だ何だ」

と私が言うと、三人は「おー、元に戻ってる」と息を吐いて言った。

「元に?」

「…ずいぶん混乱してたからね、覚えてないのかな」

 古田さんはそう言って、私達が座ると「さて、森さんから見てどうだったのかな、泉ちゃんが怪我した時は」といきなり本題に入った。

「それが、廊下に出てたんで、三人居た人の向こうで泉さんが見えなかったんですよ。三人が給湯室から出ようとしてぶつかりあってて、ごちゃごちゃしてたと言うか」

「その時、泉ちゃんはどうだったの」

「えーと…」目をきゅっとつぶって考える。「後ろを通ろうとする人に押されて流しにひっついてたら、湯呑みが落ちて…そっちをよく見ようとして動いて…後ろから押されて」

「押されたのか」真顔の古田さんを初めて見た。

「あ、でも通る時にも押されていたから、わざとじゃないと、思い…たい、な」

「業務上過失傷害」と古田さん。

「だよな」とチーフ。

「そんな大袈裟な」

「大袈裟に聞こえるだけや。単なる事実やで」

「問題は誰もその三人の顔を見てないって事だ」

 やれやれ、と古田さんは苦笑した。

「森さんはすぐ外に出ちゃったし」

「俺は連中のつむじしか見てへんで」

「いいねえ、背が高くて」と古田さんは笑って、「泉ちゃんは見た?」

「いいえ。後ろだったし、狭くて振り返れなくて」

「その上、人見知りで顔そらしとんのやから」

 頬杖を突いて口を尖らせる澤田さんに言われ、返す言葉もなかった。古田さんは両手でポンとテーブルを叩いた。

「以上、こっちは泣き寝入りだ。詫びを入れにも来やしない」

 ふう、と皆が溜息を吐いた。私は「あの」と言って、

「混乱してたって言うのは…」

「怪我のとこ見せえちゅうてんのに嫌はないやろ、俺が痴漢のようだったわ」

「ごめん」

 布巾で手を覆い隠してネクタイで手首を縛った後、森さんに呼ばれて飛んできた市川チーフが皆に指示したらしい。杉田さんに連れられて病院へ行き、傷を数カ所縫った他、細かな傷にもテープをどっさり貼られて包帯ミトンの手になった。森さんが給湯室の湯呑みや私の血の跡を始末した。私の自失状態を見るのは初めてではない澤田さんが、とにかくそっとしといてやれ、と言ったそうだ。血塗れのネクタイは病院で処分された。私は「ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。

 私は包帯で重くなった右手をじっと見た。これでは仕事にならない。

 入力室に戻って、私はチーフの仕事を手伝う事になった。原稿のバッチ分けやディスクの整理、終わった仕事のフォーマット表をファイルに綴じたりなどの雑用だ。ぼーっとしてる、と諒介や澤田さんに言われるし、それは得意だが、仕事の時間中にする事がないと不安になる。

 飯塚さんに「当番を代わろうか、あと二日だし」とまで言われて、居心地が悪くむずむずした。もちろん断ったが、飯塚さんの事だ、きっと明日も手伝うと言うだろう。早めに出勤しなければ、と思うが朝起きられるか自信がない。

 澤田さんは、とうとう有楽町線で帰ると言い出した。

「不本意やけどしゃあない」

と言われては感謝の言葉も出ない。いつもにこやかな澤田さんが、『ずっと一緒』の紙を捨てられて以来むっつりしている。『一緒』の意味を汲んでくれていた人なので、私の代わりに怒っているんじゃないかと思う。そう言うと、ただ一言「アホ」と返ってきた。

「照れてるでしょ」

「そっち曲がって銀座出よか」

「その話のそらし方、諒介に似てるよ」

「寿司でも食おーか」

「回ってるやつ?」

「もう、ぐーるぐると」

 お寿司なら左手で食べられる。気配りの人、澤田さんはやっといつもの笑顔を見せた。

「東京で一つ、銀座で一つ」

「澤田さん、古い」

「今はこうか?東京と一緒、銀座で一緒」

「またバカにする」

「ちゃうな。東京と一緒、大阪も一緒」

「…澤田さんて」

「ん?」と横目で私を見る。

「音痴だね」

「そうなんや。小学三年の時、歌のテストで泣いた、って何で俺の秘密を暴露せなアカンねん」

「あはは」

「あんなあ、前に振り返るっちゅう話しとったやろ」

 澤田さんは正面を見てぽつりと言った。

「前は振り返らんようしとったけど、最近それもええんやないか思うようになったんで」

「ふうん?」

 それで『大阪も一緒』なのか。

 澤田さんの中の大阪時間はこれから時々止まるのかもしれない。静かに、きれいに。

 祝橋で首都高速道路を越える。銀座の明かりは華やかさを増してきた。

「蓼喰い虫さんも、もう気が済んだよね。この包帯見たらびびっちゃうかも。もう、何もないよね」

 いかす手袋、と私は両手を前に伸ばして手を澤田さんに見せた。右手は白い包帯ミトン、左手は雪の結晶柄の毛糸の手袋だ。彼は「そーやな」と言って頷いた。

 東京と一緒。

 大阪も一緒。

 いつも存在を感じ合う三人だと古田さんが言った。

 今、諒介は何を思っているのだろう。




 翌朝、駅から走って何とか早めに出社したものの、やはり飯塚さんはもう来ていた。

「加湿器は私がやるから」

 飯塚さんは加湿器の水を換えに出て行った。水に触るし、水を入れたタンクは重い。私は左手でデスクの乾拭きをする事にした。少しやりにくい。森さんが「おはようございます」と入って来て加湿器を見た。飯塚さんが来てくれてるよ、と私は言った。

 二人で拭き掃除をしていると、森さんが「泉さん、」と呼びかけた。

「昨夜、彼と電話で話したんです。仲直りしたんですよ」

「へえ、良かったねえ」

 互いにニコッと笑った。

「やっぱり不安もありますけど。でも彼も悩んでいたから、二人で頑張ろうと思って」

「うん」

 飯塚さんが戻って来た。私と森さんで椅子を転がして避け、飯塚さんが掃除機をかけたあとにまた戻す。

「三人だと早いねえ」

「何か面白い」

 森さんと二人で椅子を押して駆け回った。

 北海道の彼。私は友人の里美を思い出した。離れる事がきっかけで別れてしまった二人。胸が痛む。

 始業と同時に会社を出て病院へ行く。診てもらう間、顔を背けて手を見ないようにした。怖くて見られなかった。戻った私はチーフの席である大きなデスクの横にちんまりと座り、自分の席の電源を切ったままのマシンを見た。プリントした入力済みのデータを校正する。校正は別の部署の仕事だが、チーフが私のために分けてもらって来たのだ。左手で赤ボールペンを持って、ミスの箇所に印をつける。ミスは少ないので殆ど読んでいるだけの仕事だ。印の丸はぐにゃぐにゃと曲がった。

「何か左手が変な感じ」

 昼休みに給湯室へ向かって歩きながら私が言うと、森さんは「辛抱、辛抱」と笑った。給湯室では中嶋さんがもう壁の貼り紙を剥がしにかかっていた。傍らに大きな紙袋を置いて、そこへメッセージを入れていく。私達はいつも通りのお茶当番だが、今日は森さんが薬缶、私がお茶の葉を担当する。

「もう取っちゃうの?」

「早い方がいいと思って」

「あ、私が貼った新しいの、見ました?」と森さん。

「うん、ありがとうね」

 新しいの、とはちゃんとしたお祝いの言葉の紙だ。後から貼り直しに来た人は多く、昨日の三人もそうだったのだろう。

 中嶋さんが次々と剥がしてゆく手の先に、あの紙があった。

 『和泉諒介さん帰ってきてください。』

「待って、中嶋さん」

「何?」

「ちょっと言いたい事があるの。蓼喰い虫さんに」

「はあ?」

「あなたねえ、」

と指さしたつもりが包帯ミトンの手を突き出しただけだった。二人がクククと肩を震わせて笑う。私は赤面しながら「今の失敗。仕切り直し」と言ってから、「あなたね、」と左手で紙を指さした。

「そりゃ諒介の大阪行きはものすごくいい話だったわよ。だけど諒介は悩んだんだからね。口下手のび太君だから、誰にも何にも言わないで一人で悩んでたんだよ。知らないでしょう。私も知らなかった」

「泉ちゃん、自分で言い負けしてる」

「考えて考えて、やっと決めたんだよ。それで、それで、」

 涙がじわっと滲んできた。

「諒介は今、大阪で、一人で、力蓄えてるんだよ。それを帰ってきてなんて、何にも知らないくせに。私だって諒介が何やってるか知らない」

「おいおい」

「知らないけど、諒介は『待ってて』って言ったんだからね。向こうで本当にやりたい事をやってる諒介に、帰ってきてなんて言わないでよ」

「おおー」

「そうだったのかー」

 二人の拍手で恥ずかしくなってしまった。「以上」とお辞儀した時、ちょうどお湯が沸いた。森さんがお湯を急須に注いだ。

「気が済んだ。中嶋さんありがとう」

「いえいえ」

 入力室に戻りながら、私は森さんに言った。

「森さんの話聞いたら思い出したの。諒介が最初に大阪行くの断っていた事。それでやっと決めた時の事を思い出したら、何か腹立っちゃって」

 思わず苦笑いしてしまう。

「そうかあ。和泉さんも悩んだのかあ…。そうですよねえ、やっぱり。口利いた事ないですけど親しみ感じるなあ。…あ、でも和泉さん帰って来るんですよね?」

「え?どうして?」

「だって和泉さんに『待ってて』って言われたんでしょう?」

 タイミングが悪かった。森さんはそう言いながら、休憩室のドアを開けたのだ。その場に居た全員が固まった。私は一点透視法で描かれた絵のいちばん奥になったようだった。「何?何、何?」の嵐。こうなるともう、口をぱくぱくするしかできない。私は心の中で「澤田さーん」とドラえもんを呼んだ。

 何をどう言っても上手く伝わらない。

 諒介との約束は、そういう種類のものなのだ。




 午後の休憩はおやつの時間。今日はどら焼きと温泉饅頭だった。残った饅頭の箱に蓋をしておやつを詰め込んだロッカーを開けるとお茶筒がなかった。紅茶とインスタントコーヒーしか見当たらない。

「あれ、お茶っ葉は?」

「給湯室かな」

「あ、私が見て来ます」

 森さんが行こうとするのを止めた。「このくらいやらせて」

 給湯室は、もう以前の姿に戻っていた。あのお祭り騒ぎが嘘のように、オフホワイトの壁と大きな湯沸かし器、半分に減っている湯呑みが余計に閑散とした雰囲気に見せている。会社の給湯室はこれが普通よね、と思いながら茶筒を探す。あった、と伸ばした右手を止めた。指が曲げられないので左手を出そうとした。右手がズキズキと痛んだ。

 シュー、と低く、湯沸かし器が唸っている。

 怖い、と思った。

 開発部で誰か電話をかけているのか、遠く声がする。

 もう誰も来ない。───大丈夫。大丈夫…。

 砕け散った湯呑みが屑カゴにあった。

 眩暈がする。

 目の中をシュッと白い破片を載せた真っ赤な掌が過ぎって真っ暗になった瞬間、床が抜け落ちたかと思った。私は「やだっ」と小さく叫んで流しに縋りついた。

「痛い、」

 指は曲げられないのだった、中指に痛みが突き刺すと辺りが見えた。つかまらなくては落ちてしまう。流し台がぐにゃりと曲がって私は床に転がった。

「誰か」

 慌てて手を放し、壁の方に這って行く。足元が真っ暗だ。どろどろと溶けたようにやわらかく、私を呑み込もうとする。

 壁、壁、と手を伸ばす。左手で触ると壁がへこんだ。

「いや」

「誰か来て」

 ───誰か助けて、

 誰か───

「…諒介!」

 左手で掴んだのは水切りカゴの台だった。私の方に倒れてくる。目の前をスローモーションで湯呑みがガラガラと落ちた。パン、パン、パン、と湯呑みが次々に割れる音で、目の前が真っ暗になった。


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