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第2章

 休憩室は緊急会議になってしまった。

 私がいつまでも涙ぐんでいるからいけないのだが、お祝いの言葉を捨てられてしまった飯塚さんも気持ちが悪いだろう。お弁当を食べる箸がゆっくりゆっくり動く。森さんは私が泣いてしまったのを自分のせいのように思って、心配して私の横に付いていた。彼女の手は給湯室からずっと私の肩の上にあった。

「まさかこの歳になって中学生日記をやるたぁ思わなかった」

 市川チーフが憮然として言った。

「誰が、って事はどうでもいいんです。ただ、」私はまた涙が出そうになるのをぐっと堪えた。「どうしてなのか…」

「あのー、それについて意見が」

と右手を挙げる佐々木さん。なるほど学級会のような雰囲気だ。涙が引っ込んだ。

「私、飯塚さん達を描いたんじゃないんだよね。ピングーの眼鏡を中嶋さんだって言われて、ああ、そうも見えるな、と思ったんだけど」

 私は驚いて佐々木さんを見た。皆「そうか」と頷いている。

「和泉君だ」

「そう」

「え?」

「泉ちゃんが何て言うかなーと思って何気なく描いたら、すっかり中嶋さんだと思い込んでこの紙使うなんて言い出して、顔はピングーだからいいかと思ったんだけど、あれが和泉さんに見える人が居たんだねえ」

「え?」

「だめだこりゃ」

 がくん、と佐々木さんは首を横に傾けた。

「あれがお祝いじゃなくて泉ちゃんのお願いだと思った人が居るのね」

と飯塚さんがぽんと手を打つ。

「和泉さん帰って来て、の人か」と大河内さん。

「うんうん」

「だから何でそういう発想から展開していくんだろう」

 やっと理解した私がぽつりと言うと森さんはようやく「ふふふ」と笑った。私も彼女に微笑みかけた。

「理由が判ればもういいです。これからは自重します。…何をどう自重すればいいのかわかんないけど」

「まあねえ、伝説の勇者が大阪じゃどうしようもないわな」

「はっ、もしかして私のせい?」と佐々木さん。

「そうだよー。春の伝説の語り部、佐々木の責任」

 春の伝説とは、昨年の春の展示会の時に説明会のオペレーターとして私が諒介と組んで仕事をした時の出来事で、諒介が居なくなった今になっても社内公認カップルとして───しかもそれは大きな誤解である───さんざんからかわれるのはその伝説のせいなのだ。

「いえ、佐々木さんのせいじゃないです」

 伝説になるような大ボケをかました諒介のせいだ。

「大人げないねえ」チーフは苦笑した。「二人とも気にしなさんなよ」

「はい」

 飯塚さんは私に微笑んで、またお弁当を食べ始めた。毎日自分で作っているというお弁当を、今度は中嶋さんに作るんだな、と思ってそれを見る。きれいな彩り、栄養バランス、料理上手だ。『ずっと一緒』の言葉が似合うと思って書いたのに、勘違いされてしまって飯塚さんまで傷つけてしまった。あの紙を捨てた人はそこまで考えなかったのかな、と思うとまた悲しくなった。

 午後の休憩時間に開発部を覗くと数人が居るだけだった。中嶋さんを探して休憩所へ行くと、彼は澤田さん、古田さんと一緒だった。

「中嶋さん、何か変な事になっちゃって…。ごめんなさい」

 昼休みのうちに飯塚さんから聞いていたらしく、中嶋さんは「僕らは気にしてないからね」と言った。中嶋さんは年下だが、落ち着いた雰囲気が私より年上に見える。

「しかし蓼喰い虫さんにも困ったもんだね」と古田さん。蓼、はもちろん諒介だ。

「フロアがちゃうから今まで何もなかったんやろな」

「うん。五階の人ではないねえ、勇者と姫をよく知る人じゃない」

「私をどうしても諒介とくっつけたい訳ねキミタチは」

 思わず拳を握る。

「いいや?」と古田さんはニコッとして、

「和泉が大阪へ行ってもう一年近く経って、なぜいまだに彼と泉ちゃんがセットになって売っているのか、いつも一緒の澤田と噂になってもいいではないかと思うのね」

「そら男前の俺と、このちりめんじゃことでは釣り合い取れへんからやろ」

「そういう事にしてもいいけど」

「古田さん、ちりめんじゃこで納得しないで」

「フフフ、この前も二人して給湯室でヤンキー座りになって顔寄せ合って話したり」

「ゲッ、見とったんか」

「それって、二人が和泉でつながっているからだと思うのね。二人を見ていても、三人なんだと思うような。和泉と君のセットに澤田がついてお買い得に見えながら、実はそうじゃない」

「俺はおまけか」

「だからそうじゃないと言ったでしょう。和泉にはそういう人と人とを結びつけるような牽引力がある。でも和泉から見ると逆なんだと僕は思うのね。三人の関係をうまくまとめているのは澤田だし、三人で居る事を面白くしているのは泉ちゃんだ。…僕はそう見ているんだけどね、フフ。そういう、三人で居たいと思うようなバランス取れた関係なんだよね。離れてても互いに存在を感じるくらいに」

 存在を感じ合う三人。細い目がなくなっちゃうんじゃないかと思うくらいにこやかに話す古田さんの言葉を噛みしめた。

 それはついこの前、私が思った事に似ていた。

 東京と一緒に。一緒に居たかった私達。

「うん。お正月に諒介と会った時にそんな感じだった」

「…あいつ、俺んとこに来たんや」

「そうか。澤田の所にね。さてそろそろ戻ろう。泉ちゃんも行こう」

 古田さんは煙草をもみ消していきなり立ち上がった。休憩所を離れて開発部へ向かい、廊下を曲がると、古田さんと澤田さんは海底の昆布のようにふにゃふにゃと壁に凭れてしまった。

「このドアホ」

「お正月の件は黙っててくれればねえ」

「え?」

「給湯室に誰かおったで。このフロアの奴やない」

「入力室の休憩時間は決まっているからね、泉ちゃんの他に誰も通ってないし」

「ああ、影が動いてたな、そういえば」

と中嶋さん。私は給湯室に背中を向けていたので気づかなかった。

「それが?」

と私が訊くと、澤田さんは傍らのベンジャミンの鉢植えに抱きついて「やっぱりちりめんじゃこや」と言った。

「お正月に和泉がこっちに来ていて、君と会っていた、というのが他のフロアに広まる。蓼喰い虫さんの存在をこっちも知ってる事はアピールしておいたけど、今度は何されるか判らないぞ」

 驚いた。古田さんはニコニコしながらそんな事を考えていたのか。

「まさか、そんな悪質な事はしないでしょ?」

「そうだよねえ」と中嶋さん。

「そもそも中嶋の婚約祝いなんだよ、あの給湯室は。そこまで考えなさいよ」

「…ふっとい神経…」

 中嶋さんの答えに、思わず笑ってしまった。

「ともかく気をつけるに越した事はない。飯塚さんだって気にするよ」

 三人は頷きあった。

 何だかとんでもない事になってしまった。

「きっともう何もないよ、私なら大丈夫だから、ね?」

「いや、これは僕への挑戦状だ」

 中嶋さんは握り拳で天井を仰いだ。

「だんだん腹が立ってきた。目の前で結婚式の祝電を踏みつけられたようなものだ」

「式場も決めとらんのにか」

「さっきの雪枝さんは悲しそうだったぞ、僕は蓼喰い虫さんを許さない」

「中嶋の芝居が始まると長いからね」

 行こう行こう、と古田さんに背中を押された。

「そんなに神経質にならなくても」

 私は退社して駅へ向かう道を、澤田さんと歩きながら言った。新大橋通りまで一緒に行く。交差点は赤信号だ。立ち止まって、澤田さんは首を傾けてこちらを見た。

「給湯室がああなって最初に、お祝いちゅう事で今度の週末に中嶋が全部持って帰るて言うてたんや。他のフロアにもそれは知らせてあるから、あれだけの量が集まってんねん。遊んどるようでもあそこに貼ったもんはお祝いなの。せやから悪質や言うねん」

 ぱっ、と信号が青に変わった。歩き出しながら話は続く。

「中嶋も呑気モンやから気づくのが遅いわ。やった奴も矛先が二人に向いてもうたんで困っとるやろ。これは由加にやってんでー、って、少なくとも一回は何かする筈やと古田も言うてる」

 その古田さんは「まあ、トウシューズを履く前にはよく振りなさいねフフフ」と笑っていた。諒介の友達はやっぱりよく判らない。

 築地川公園の橋を越える。柳の枝が寒そうに揺れている。

「しゃあないやんか、由加を知らん奴は、和泉が何で由加を気に入っとんのか知らんのやから」

「…澤田さんは知ってるの?」

「おもろいから」

 そんなところだろうと思った。どうせ私はちりめんじゃこだ。

「おもろいは和泉の最大級の賛辞や。知っとるやろ、あのおもろいモン好き」

「うーん、喜ぶべきか」

 何が面白いんだろう。やはり特異体質だろうかと考えて、ますますがっかりしてしまった。私自身は持て余しているこの特異体質は、私の周囲に不思議な出来事を起こしてしまうのだ。

 そのたびに、私の中にその原因を見つけてくれたのが諒介だ。

 この体質の事は彼しか知らない。大っぴらに言える事でもないので頼りは彼だけなのだが、頼ってばかりではいけない。

 『今、僕は力を蓄えているところなんだ。由加もそうしてくれないか』

 諒介はそう言った。だから私もそうしようと思ったのだ。

 マフラーの上から首の後ろに触れてみる。諒介が私の髪を切って襟足を剃った時の切り傷は浅く、あれから一週間経った今、触れてみても何もない。唾つけとくか、と指で触れたあとのすーっとした感触だけ残して、諒介はもう東京に居ない。

 私は部屋に帰って冷凍食品のピラフと玉子でオムライスを作った。それをキッチンのテーブルではなく奧の間に持ち込み、皿を床に置いた。ビデオデッキに諒介が送ってきたビデオを入れる。床に座ってベッドに寄り掛かり、食べながら観た。

 聖路加病院の辺りから歩いて会社へ、社内の様子、知らない人ばかりの部署が映る。給湯室を飾り立てて遊ぶ人達の明るい笑顔だ。この中に私の紙を捨てた人が居るのかな、と思うのは嫌だ。五階のフロア、休憩所、開発部、入力室。

 私。

 私が映るまで皆笑顔だったから、戸惑ってきょろきょろする自分が変な顔に見える。この時に諒介は、彼がこうやってビデオを撮るのは私が小説を書くようなもの、と言ったのだった。画面の私がフッと笑って、場面が変わった。

 この時に気がついた。諒介は私が笑うのを待っていたのだ。

 彼が皆に好かれるのが判る。蓼喰い虫さんも、そうなのだろう。

 私はテレビに映る築地の街並みをぼんやり眺めながら、いつか市川チーフが言っていた「泉ちゃんは縁があってうちの会社に来た」という話を思い出していた。ビルの間の古い家並みに、見つけ難い人の優しさに似たものが覗く。

 私は自分の部屋で、諒介の目線で勝鬨橋を渡った。




 木曜日。明日には中嶋さんが給湯室の『訳わからん物ども』を撤収する。来週になれば、他のフロアの人が五階をうろつけば目立つ。「明日までを上手く乗り切ればいい」と古田さんは言った。

 昼休みに森さんと給湯室へお茶をいれに行くと先客が居た。三人も居たので私達が入ると狭い給湯室はいっぱいになってしまった。

「邪魔ですね、すみません」と彼女達は言って、外へ出ようとするが通れない。森さんが「どきます」と言って外に出た。私は薬缶にお湯を入れ始めた。私のすぐ後ろを窮屈そうに誰かが通る。水切りカゴを載せた台が邪魔なのだろう、ガタガタ、カチャカチャと音がした。私は体を流し台にくっつけて「通れます?」と訊いた。

 その時、カチャカチャガタンと大きな音を立てて水切りカゴの台が傾いだのが判った。カゴに積み上げられた湯呑みの山の上の方が崩れ落ちるガラガラという音に続いて、ガシャンガシャンといくつも茶碗の割れる音が耳に突き刺さった。

「大丈夫ですか?」

 振り返ろうとするが、狭くて相手の顔を見るまでには振り向けない。私にくっついている人が「あーっ、すみません」と床を見下ろしているようなので、私もそちらを見た。

 ドン、と背中を強く押された。

 床に散らばる割れた湯呑みの破片が目の前にぐーっと近づいてきた。

 危ない。

 咄嗟に膝と右手を突いた。

「ああっ、」

 突き刺さった破片の厚みがありありと判る感じに息を呑んだ。掌の下で破片がチャリチャリと鳴った。背後でキャーッと悲鳴があがった。慌てふためいてぶつかりあう人達。「泉さん!ちょっとどいて、見えないよ」森さんの声だ。「澤田さん、澤田さーん!」と開発部の方へ向かって大声で呼んでいる。

 顔を上げた。目の高さにそれがあった。

 『和泉諒介さん帰ってきてください。』

 何が何だか判らなかった。

「すまんな、どいたって」と澤田さんが入って来たらしかった。「由加、」

 私の顔のすぐ横から澤田さんがぬっと顔を覗かせ、「何やっとんねんおまえ」と私の手元を見て言った。何って、私は何をやっているんだろう。「手、見せえ」と彼は私の右手首を掴んでぐっと顔の前へと引っ張って、顔をしかめた。

「いや───放して…」

「そんな場合か」

「…触らないで…」

 澤田さんは何も言わず、掴んだ私の手首をぐいっと引いて立ち上がらせた。流しの蛇口を捻って水を勢いよく出し、水に私の手を入れた。

 水の冷たさに、不意に視界がはっきりした。洗い落とされた細かい破片が流しに落ちてザラザラと音を立てている。

「アカン、今これは抜かん方がええ」

 何がいけないのかよく判らない。感覚がない。私は首を傾け、手を見ようとした。

「見たらアカン、由加」

 澤田さんが側に掛けてあった布巾をぱっと被せる瞬間に見えた掌が目に焼き付いた。

 それは手なのかと疑った。

 深々と突き刺さった丸い湯呑みの破片の白と溢れる血の赤。

 割れた指。めくれた掌。

 いや、と叫んだ。目の中を赤と白の粒子が飛び散った。


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