誘われる女
☆誘われる女
「あ、直井さん!」
今週に入ってから、というか、まだ、水曜日だけど。続いていることがある。
「おはようございます」
朝、エレベーターを待つロビーの前で、必ず声をかけられること。
「おはよう。最近よく会うね。いつもこの時間?」
「ええ、まあ」
鬼藤家に住むようになってから、早起きのおかげで乗れるようになった1本早い電車で通勤するようになっていた。そうすると、毎朝ここで会うのだ。狭山さんに。
「あ、ねえ、金曜日、時間ある?」
「はい?」
思わず作らない地声が出そうになった。こんなことで“明るく楽しい直井深”が壊れたら困る。小さく一呼吸おいて、相手を見上げる。
「美味しいイタリアンの店、知ってるんだ。よかったら、一緒に夕食、どうかな?」
最初の頼まれごとの日以来、ちょこちょこと小さな頼まれごとをするようになっていた。それはただ単に、化粧直しをしない私がランチから戻ってくるのが1番早いからとか、お茶出しに熱心じゃない私が、ほとんどいつもデスクにいるからとか、そんな理由だと思っていたけど、どうも、そうではないのではないかと、最近思い始めた。
「お誘いは嬉しいんですけど、いま、骨折している家族の送迎があるので、しばらくは定時で帰らないと・・・」
にっこり笑って断る。興輝には悪いけど、いい理由だと思って骨折に感謝すらしたい。
「そうなの?大変だね。ご両親とか?」
「あ、いえ・・・兄弟で・・・」
「直井さんってしっかり者だから、お姉さん?」
昔からよく言われるが、私は誰かの姉であったことは1度もない。常に兄の妹であり、興輝のお姉さんの妹であり、そして多分、興輝の妹なのだ。
「それ、よく言われます」
話はこの辺りで濁しておかないと、真実がばれてしまう。“明るく楽しい直井深”を演出はするが、私の私生活はかなり謎。それでいいのだ。
「俺は歳の離れた兄と姉がいるんだ」
うん、この甘え上手そうな雰囲気は、いかにもそんな感じ。
「あ、私、降りないと!」
焦ったふりして4階でエレベーターを降りる。やっと離れられてほっと一息。これが厄介ごとの単なる前兆だなんて、思いもしなかったけど。
「おはようございま・・・」
最後まで言い終わらないうちに、自分の席にたどり着かないうちに、私は“結婚できないトリオ”に取り囲まれた。
「ちょっと直井ちゃん、どういうことよ?」
「いつの間に抜け駆け?」
「どうしたらあんないい男捕まえられるわけ~?」
話の流れがつかめずに目を白黒させる私に、彼女たちは矢継ぎ早に質問してくる。それこそ、私が弁解も、答えもするすきがないほどに。
「あ、あの、何の、話?」
やっと落ち着いて席に座った私は私を取り囲むように立っている3人を見上げた。
「昨日の帰り、私たち狭山さんに声かけられて営業部の人たちとごはんに行ったのよ」
―――うん、よかったじゃん―――
「そしたら、狭山さんってば、直井ちゃんのことばっかりで」
「そうそう、直井ちゃんの好きな料理とか、どんな子なのかとか」
―――ああ、だからイタリアン―――
「あー、いや、仕事のお礼って言われたんですけどね。仕事でやってるからお礼とか、特にっていう感じで・・・」
「なに言ってるの、直井ちゃんなら私たち、応援するから!」
―――それはそれは予想外―――
「ここで狭山さんといい感じになれたら、念願の寿退社だよ!」
―――あなたたちの念願でしょ?―――
「直井ちゃんと狭山さんが付き合ったら合コン開いてくれるよね?」
―――あ、ただの合コン係?―――
「でさでさ、ふたりの結婚式に招待されたら、そこで出会いがあるかも~!」
―――もうそこまで話すすんでるの?っていうか私、万が一結婚できる機会があるとしても、会社の人なんて、絶対呼ばないけど―――
「いや、でも、取り敢えず家族の骨折が治るまでは夕食のお誘いとか受けられませんしね」
―――治っても受ける気がないんだけどね―――
「そんなの、1日くらい誰かほかの家族に任せてさ」
私には興輝を任せられる家族なんていない。というよりも、いま現在興輝と私がふたりきりの家族のようなものなのだから。
「とりあえず、今日からランチは作戦タイムね!」
ただでさえ気が重い1時間はさらに地獄の時間になり下がろうとしていた。
「おかえりぃ~」
昼の無意味な作戦タイムと、それに次ぐ午後の業務で、まだ水曜だというのに、若干気力を使い果たしたまま私は興輝を駅まで迎えに行った。
「ただいま・・・どうした?なんかあったか?」
テンション的についに負けそうになって“君こそスターだ”を止めてしまったから、車内はものすごく静かだ。
「なんで?」
「いや、なんか、疲れてるかと思って」
興輝は鋭い。誰に対してもそうなのか、私に対してだけなのかわからないけど、ものすごく鋭い。外へ出れば8.5割を嘘で固めて生きている私が、1割も嘘を吐くことができない相手“鬼藤興輝”。
「作っとくから入ってこい」
興輝より先に家に帰り、洗濯物を下げてお風呂を洗って、興輝を迎えに行って、興輝が夕食の支度をする間に私はお風呂に入る。それが今週始まった私と興輝の夜の生活スタイルだ。
「うん、ありがと」
遠慮なく先に入って、上がれば夕食だ。