洗濯物を干す女
☆洗濯物を干す女
「おはよー」
勢いよくチャイムを慣らせば、歯ブラシを咥えたままの興輝が私を出迎えた。
「半だぞ、半」
現在6時1分。
もちろん、早く来たのにはわけがある。
「うん、洗濯干してあげようと思って」
ちょうど脱水完了の合図をする洗濯機の中から洗濯かごにそれを移して階段を上る。
「悪いな、助かる」
素直でよろしい。私と違って。
気づくのが1日遅かったけど、松葉づえの興輝が洗濯かごを持って階段を上がるのは大変だろうと、昨日の夜に母と話していて気が付いた。そして今日は、多分その性格から毎日洗濯を回しているであろう興輝に代わってそれを干すべく、30分早回しできてみたのだ。
「OK、完了!」
通常であれば7時15分に家を出る私は起きてから家を出るまでおよそ30分という男子高校生顔負けの支度の速さだから起床は6時45分。でも、昨日からは6時半の興輝の送りに来られるように5時半という異例の早さで起きてみた。
「さて、支度はいい?」
玄関の鏡の前でネクタイを結んでいる興輝の代わりに一応の窓の戸締りを確認して、今日もカペラで駅まで向かう。
「やっぱりマニュアル車のほうがスピードの上りがいいね」
「燃費悪いけどな」
「でも、買い替える気ないんでしょ?」
「走る間はな」
私と興輝が幼稚園に入った年に興輝のお父さんが前のファミリアから買い換えたカペラは、まさか私たちに運転されるようになる日が来るとはきっと思っていなかっただろう。こっちだって、この車を運転する日が来るなんて、想像したこともなかった。
「はい、じゃあ、いってらっしゃい」
「おう、いってくる」
感謝を込めて軽く挙げられた手を確認して、私はカペラを置いて一度自分の家に戻り、日傘を広げて歩いて駅まで向かう。
「直井さん、おはよう」
ロビーでエレベーターを待っていると、後ろから声をかけられた。
「おはようございます」
朝から爽やかこの上ない笑顔を振りまいて私の隣に狭山さんが並んだ。
「昨日は本当に助かったよ」
「お役に立てて何よりです」
「今週はバタバタしてるけど、落ち着いたらお礼させてよ」
「別にそんなたいしたことしてないですから。じゃあ、また」
私は4階。狭山さんは5階だから、私はにこりと口の端を釣り上げるだけの笑顔で答えて先に降りた。
「ちょっと直井ちゃーん」
オフィスに入った途端、後ろからいつもの“結婚できない症候群”の重症患者たちに追いかけられる。
「おはようございま・・・」
「いまいま、ロビーで狭山さんに話しかけられてたでしょ?」
「なになに?どういう関係?」
「っていうかいつの間にそんな親しくなったのー?」
―――ただ挨拶されただけ。昨日仕事頼まれた関係。あんたたちが無駄な化粧直ししてる間―――
と、心の中では完璧明快に真実を即答してみるけど、それを口に出したらめんどくさい。
「たまたまあって挨拶されただけで、昨日入力した伝票のお礼言われただけで・・・」
にこりと笑って答えれば、彼女たちは盛大にため息をついて胸の前で手を合わせる。
「いいな~、私も狭山さんから頼まれたい」
「狭山さんってめったに女子社員に頼み事しないって聞いたのに~」
「よっぽど困ってたんだね・・・直井ちゃんってばタイミングいいなー」
興味のない相手からお礼と称して食事に誘われそうになった挙句に他の女からは羨望と嫉妬のまなざしを受け、おまけに朝礼前に騒がしいと上司から注意されるなんて、いい事なんかひとつもない。今日も退屈なお仕事の始まりだ。
「ねえねえ、今日のランチは?」
「カレーにしない?」
「いいね~」
まだ就業開始から1時間も経ってないのにもうランチの相談が始まる。彼女たちの一日は食べることと恋愛話をすること、他人のあらを探すこと、いい男と近づくこと、仕事に手を抜くこと、で構成されている。
「それにしても、昨日の合コンはずれだったねー」
「ほんと!直井ちゃん来なくて正解だよ」
「医者とか言ってさ、だっさい接骨院とかめっちゃちっちゃい皮膚科とかさ、あほなんじゃないって感じ!」
―――相手があんたたちだなんて、向こうにとってもはずれだよ―――
世の中なんてそんなもの。いったいどこに、こんながめついOL相手に合コンしてくれる“白い巨塔”張りの医者がいるというのだろう。そんなことにすらいまだに気づけない彼女たちが哀れでもありおかしくもある。そこまでして彼氏や結婚相手がほしいのなら、結婚相談所にでも登録してみたらどうだ?
「誰か会議室にお茶3つ持ってきて」
部長の声に、“結婚できないトリオ”はいち早く反応。だって、今日のお客様は確か、某証券会社のやり手営業マンって話だったもんね?
「はーい」
お茶3つ運ぶだけなのにどうして3人とも行ってしまうのか。ひとりひとつ運ぶんだろうか。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。まあ、3人まとめていなくなって静かになったからいいってことにするか。
「さてと・・・」
永遠に入力が終わりそうにないほど山積みの原票を事務的に順番に片付けることに今日も一日の時間を使う。これさえ入力し続けていれば、毎月同じ給料がもらえるのだから別に文句はない。生活に困りさえしなければ、仕事なんてそれでいいのだ。学生時代のバイトから今に至るまで、働くことに夢を見たことも、持ったこともない。少なくとも私にとって生きることの基本は働くことじゃない。
「直井さん」
お茶を入れるだけのはずなのに彼女たちが戻ってこないまま、私は一人で黙々と入力し続けていた。そんなしんと静まり返ったフロアで、急に呼ばれた名前。
「はい?」
振り返れば、社内きってのイケメン営業マンの姿。
「ごめん、また一つ、頼み事」
困ったように眉を下げて私に差し出された注文書の束を私は黙って受け取った。
「どれくらいでできるかな?」
「30分後に仕上げて持っていきます」
―――だから自分のデスクに戻ってていいですよ―――
なんていう言葉は、言わなくても伝わるだろうと思った。なによりも、このままここにいられたらやりづらいし、“結婚したいお茶くみ女”たちが帰ってきたら最高に面倒なことになりかねない。ランチタイム前の今の時間にこんなことが起きたら、今日の格好の餌食になること間違いなしだ。
「それくらいなら、ちょっと隣のパソコン借りてもいいかな?」
「・・・・・・」
予想外だ。うん、予想外。
社内きっての忙しさを誇る営業1課のエースがこんなところで30分何するっていうの?
「ところで、他の女の子たちはどこ行ったの?」
この言い方はいただけない。“女の子”ってなに?よく上司も同僚も“女の子”と私たちを呼ぶけれど、こんなところで働いている時点ですでに誰一人として“女の子”なんていう可愛い年齢ではない。だから私はこの呼び方が好きではない。大体にして、馬鹿にしてんのかって感じ。ちなみに“女子社員”もなし。だって誰も“男子社員”なんて言ってないじゃん。
「会議室のお茶出しに行ってます」
「3人とも?今日ってそんなに会議はいってたっけ?」
話していたら30分で終わらないから相槌を適当に打つにとどめて最速で入力する。いつもは今日のノルマが終わればいっか、・・・なんてスピードだけど、一刻も早く狭山さんに自分のデスクに帰ってもらうためには本気を出すしかない。
「・・・・・・」
無言になった私をどう扱っていいのかおそらく困っているのだろう、向こうも無言になって、隣のパソコンで何やら調べ物を始めた。
「ふぅ・・・」
集中力がいいほうじゃない私の限界は30分。そのぎりぎりですべての入力を済ませた。
「完成!」
渡された時と同じようにクリップできれいに止めて、書類を差し出した。
「ありがとう」
何かに驚いたようにぱちぱちと目を瞬いて不思議そうに私を見つめている。
「なにか・・・?」
「あ、いや・・・直井さん、ものすごく打つの早いんだね」
「ああ、入力するだけなら・・・」
「昨日もだけど、すごく助かるよ。どうもありがとう」
これまたほかの女子社員なら気絶ものの笑顔なんだろうけど、興味のかけらもない私に向けられても、もったいないだけだ。
「いえ、お役に立てて何よりです」
会社の中にいて、これほど便利なセリフもそうそうない。
「はは、今朝もそう言ってたね・・・また、頼んでもいいかな?」
―――あなたのように社内でイケメンと騒がれて注目されている人とはなるべく関わりたくないのでやめてください。面倒事は嫌いだし、あなたなら他に何人でも喜んで仕事引き受けてくれる女がいるでしょ?―――
っていうのも、心の中にとどめておく。会社の中では、というよりも、家を一歩出たところからはいつだって誰に対してだって、“楽しく明るい直井深”でいる。それが楽に生きるための最も有効且つ簡易的手段であることは、もうとっくの昔に学習済みだ。私が本当はこんな猛毒女だって知っているのは幼馴染の興輝と、高校時代からの親友である美希くらいなんだから。本音を言える相手もその二人だけ。でも、私の人生はそれで充分。むしろ、本音を言っても私を見捨てないでいてくれる相手がふたりもいることに感謝したいくらいだ。
「私で良かったら、いつでもどうぞ」
興輝と美希に“まるで感情がこもってない”言われているけどそれに誰も気づかない笑顔で答えると、営業課のエースはここぞとばかりににっこり笑って“ありがとう”と言った。
「じゃあ、またよろしくね」
「はい」
お茶くみ女子が戻ってくる前に出ていってくれるかと思いきや、不幸にも彼らはオフィスの入り口ですれ違ってしまった。
「きゃー!いまのなに?」
「なんで?なんで狭山さんがいたの?」
「なになに、直井ちゃん声かけられたー?」
昼休みまであと30分。今日のランチタイムの話題は決定だ。