送迎から始まる日常
☆送迎から始まる日常
「興輝ぃー」
勝手知ったる他人の家。なんて、他人だなんて思ったことないけど。
「いまいく」
大きな体を不自由そうに動かしてやっと玄関にたどり着いたその姿は、とても笑える。180を超えるがたいのいい男がスーツを着て、ネクタイをバシリと締めて、そして骨折している。玄関に立てかけられた松葉づえをこれまた不自由そうに使いながら私の軽自動車の助手席に窮屈そうに乗り込んだ。
「・・・やっぱり狭いね」
「いや、ありがとう」
本当は狭いだろうに、そんなことは一言も言わない。
「ねえ、あの車の鍵貸してよ」
鬼藤家の横の割合ギリギリの広さの駐車場にきっちりとおさまっているワインレッドのマツダのカペラ。興輝と私が幼稚園に入学した年、興輝のお父さんが買い換えた流行りの新車は、いまではめっきり見かけなくなり、どこの駐車場でも一目で見つけられるようになった。
「マニュアルだぞ」
「大丈夫だよ。マニュアル免許だもん」
「運転しづらいぞ」
「ぶつけないように気を付けるから」
「別に心配してない」
「じゃあ貸して」
駅までの5分のドライブ中に続いた押し問答の末、私は興輝のヴィンテージになりつつあるマツダのカペラの鍵を手に入れた。
「帰りもメールしてねー」
「いや、いい」
「メールしてねー」
断った後姿にもう一度言ってみたが、大きな背中はすたすた・・・のろのろとエレベーターへ向かっていった。
「メールしてねー、っと」
しつこいくらいにLINEにも入れて、私は一度家に戻り、自分の仕事に向かうべく、歩いて駅を目指した。
「直井ちゃーん、今日、ランチどこにするー?」
あちこちで雑多な話題が飛び交う昼休み間近のオフィス。私の仕事はなんてことはない、ただの事務員だ。日長1日つまらない情報しか映し出さないパソコン画面へ、これまた何の興味もない他人の注文を打ち込んでいく。その合間合間に隣の席の作業が遅い私より使えない同僚にくだらない合コンや男の話を持ち掛けられて、その相手をしながらやっとのことで1日は終わる。ついでにずっと昔からの習慣で“楽しく明るい直井深”を演じるために多少無駄な労力を使っているから、1週間が終わるころには必然的にくたくただ。たいした仕事はしてないのに。
楽しいのは昼休みだけ・・・なんて、とんでもない。その昼休みが一番の地獄だってことに、今日まで誰も気づかないなんて。
「んー、“ゲント”でワッフルランチでも?」
本当は、どこでもいい。あんたたちとなら、何食べたって不味いだけ。
「ええ~先週木曜もあそこだったじゃん。今日は“チェッリーニ”でパスタにしようよー」
「いいですよ」
―――最初から決めてるなら、訊く時間が無駄だし答えた時間も無駄―――
なんて猛毒は、外には吐かないで私の体内の毒沼に蓄積。
「じゃあ、いくよ」
昼休み開始まで、まだ5分あるのに上司が外出中なのをいいことに、彼女たちのランチタイムは私を巻き込んで、フライングで始まる。さあ、今日も最も長い1時間(と5分)の始まりだ。
「そうそう、販売課の三藤さん来月結婚するらしーよー」
「まじ?っていうかあの顔で私たちより先?」
「でも相手、相当年上らしいよ」
「あ、やっぱそうなんだ?」
「相手金持ちなんじゃない?」
「お金あったら三藤よりいい女買えるでしょー」
「それもそっかー」
―――そう言うおまえの顔だってたいしたことないうえに、この性格じゃあ売れ残り決定だって―――
―――相当年上の男にすら相手にされない自分に気づいてる?―――
―――“買えるでしょー”って、女は物か⁉―――
くだらない女へのくだらない突っ込みは、飽くまで心の中でだけ。
ランチタイムの1時間は、どこからどこへ繋がっているとも知れない割には確かな情報網から網羅されたどうでもいい情報目白押し。なに課の誰がなになに部長と不倫してて、どこ課の誰がどこどこ課の主任のことが好き。秘書課の山内さんはめちゃめちゃ美人なのに尻軽で社内中の独身既婚問わずほとんどの男と関係ありで、営業1課の狭山さんはものすごいイケメンなのに彼女もいないらしい。
私の無駄に良い記憶力は、覚えたくもないのにランチタイムに放出される大量の情報をいちいち記憶してしまうから厄介だ。どれもこれも、一瞬で忘れてしまいたい。
「ねえ、直井ちゃん、今夜、来れる?」
「えっ?」
忘れてるふりをしてみる。
私はいつもみんなの話を聞き流しながら一人ランチを楽しんでいるだけで、声をかけられるのは合コンの人数合わせの時くらい。
「ほら、先週言ったじゃん。人数足りなかったらきてって!」
そう言えばそうだったね。みたいな?
「あ、ごめんなさい、今夜は・・・っていうか、ちょっとしばらく無理かもしれない」
断りつつ私の脳裏には180センチを超える長身でスーツに身を包んだ松葉づえの男の姿が浮かんでいた。
「えーなになに?もしかして、彼氏でもできた?」
「きゃー!私の可愛い直井ちゃんが―!」
「ちょっと、いつから?」
何も答えていないのに女子高生もびっくりの騒ぎっぷり。それだけみんな、恋愛するのにも恋バナにも飢えている。毎日これだけ他人の噂話をしているのに、いい男がいないか、彼氏がほしい、結婚したい、自分も幸せになりたいと嘆くのに、彼女たちは一向にそう言ったものを手に入れる様子はない。まあ、かくいう私もその一人かもしれないけど。
「あ、いえ、ちょっと家族が骨折して、しばらく送り迎えすることになると思うから」
私の一言に、全員が一気に冷める。
“家族”私にとっての興輝を言い表すのにこれ以上適切な関係はたぶん、ない。
もしここで、送り迎えの対象が“家族”ではなく“幼馴染”の“男”だと、話は一気に盛り上がるのだが、あいにく私はそんな自分のプライベートを彼女たちのテンションの上昇剤に提供するつもりはない。
「あ、そろそろ戻らないと!」
「やっだー、もうこんな時間?」
「お昼だけが楽しいのに」
レジの店員に迷惑そうな顔をされながらも無理やりに個別会計にしてもらって、使ってないはずの体力をどっと使った気になって、私は会社に戻って念入りに化粧直しをするであろう彼女たちの少し後ろを一人、日傘をさしてオフィスに戻った。
「ただいまもどりました」
昼休みもあと5分で終わるというのに、オフィスにはあまり人がいない。結婚相手を求めて働いている女たちは一人残らずトイレで念入りに化粧直し中だから。私はといえば、朝ばっちりの日焼け止めの上に申し訳程度のファンデーションとほとんど書く必要のない眉毛、いやにばりっとと引かれたアイラインと割合濃い目のアイシャドー、まるで武器のようにばっちりのマスカラは家に帰ってお風呂場でメイク落としに流されるまで、もういじることもない。だって、何をしたってどっちにしろ、整形でもしない限りこの顔しかないんだから、化粧直すだけ時間の無駄というものだ。
「あ、直井さん!」
イケメンと噂の営業1課の狭山さんが私を見つけて走り寄ってくる。まあ、一般的に言うと割合に背も高くて、いかにも爽やかなスポーツマン(趣味はフットサルらしい)ではあるけれど、興輝を見慣れている私から言わせれば、若干中性的な柔らかい笑顔ともうちょっと鍛えれば?っていう感じが、あまり“いい男”の部類ではないように思われている。
「はい?」
「これ、すぐに入力してくれないかな?」
「はい」
私は渡された内容を打ち込む。学生時代にタイピングの早打ちで学年2位だった腕は今も健在で、おそらく、入力に関してはここでは随一のスピードを誇っている、はず。
「いや、参ったよ。戻ってきたら女の子誰もいなくてさー」
―――これくらい自分でやれよ―――
「すみません、ランチに行ってて」
入力している間に女子社員注目の笑顔と美声で話しかけられるも、残念ながら興味がない。むしろ、話しかけないで。
「いやいや、いいんだよ。みんなで楽しくランチに行ってくれて。でも、直井さんが先に戻ってきてくれて、ラッキーだったな」
「はい、入力終わりました」
原票を再びクリップに留めて差し出す。そのころになって、化粧直しをばっちり終えた“結婚したい症候群”の重症患者たちがばらばらと戻ってくる。
「ありがとう。助かったよ。今度お礼に食事でも」
「お気持ちだけいただいておきます」
彼がイケメンと名高い理由はきっと最後にさらりと付け足されるこんな一言のおかげでもあるのだろう。
「はは・・・まあ、そのうちお礼するよ」
―――結構です。これも仕事なんで―――
とか、思っていてもこれ以上彼との会話が長引くだけだから、心の中にとどめておく。
「やだぁ、直井ちゃんってばなに抜け駆けしてんの?」
「狭山さんに食事に誘われるとか、超羨ましー」
―――じゃあ、化粧なんて直してないでさっさと戻って来いよ。どっちにしろ、その顔しかないんだから、化粧直しなんて時間の無駄―――
という猛毒は外には吐かない。そんなことを言っていたら、あっという間に孤立して、何もかもがやりにくくなる。そんなことは、とっくの昔に学んできたのだから。過ごしやすい環境を手に入れるために、毒牙を封印して“明るく楽しい直井深”を演じているのだから、何があっても、演技をやめてはいけない。