出会う男
☆出会う男
洲鎌晴眞。
人のことは言えないが、このやたらと画数の多い名前の男は俺が唯一本気で信頼できると思ったことのある相手だった。基本的に人付き合いに器用な方ではないと自覚しているから、そんな俺の“友人”と呼べる相手は皆一様にそういうものにとても器用な相手だ。唯一の例外は深であり、だが、彼女は“友人”ではなく、俺の中ではもうずっと昔から“家族”と言える役割を果たしてくれているので、例外ではないのかもしれない。
高校入学を機に、深とは別の進路に分かれ、それまで毎日顔を合わせていたが、その頻度は週に幾度かに減っていた。だが、帰宅部でバイトをしていた深は何の予定もない日はたびたび部活にいそしむ俺の元へふらりと現れるのだった。俺に会うだけが目的で来る深は“明るく楽しい直井深”ではなく俺のよく知るただの”直井深”だった。そんな深を好きになったのが晴眞だった。
深と晴眞が初めて会ったのはたぶん、高校の入学式の日だった。
それは“出会った”と言うよりも、晴眞が一方的に“発見した”のかもしれなかったが。
『昨日迎えに来てた子、彼女?』
入学2日目の朝、晴眞にかけられた第一声がこれであり、俺と晴眞の最初の会話だった。
『・・・・・・』
相手から声をかけられるということ自体、俺の場合は滅多にない。中学時代、俺はほとんど常に、深を通して声をかけられていた。
『ねえ、彼女?』
その見た目からはおよそ予想外ともいえる流暢な日本語が目の前の男がハーフだということを教えていた。
『いや・・・』
俺は登校してきたばかりで、お互いに立ったままの会話だったが、俺は視線を下げてはいなかった。なぜなら、目の前にいる晴眞は、俺とほとんど変わらない身長で、日本人離れしたギリシャ彫刻みたいな顔をして、よく見れば左の瞳だけが不自然な色素を持った、その髪の毛も、染めたのではないと思える色素の薄い色をしていた。
『あっそ』
会話はそれだけだった。
そしてその後、剣道から転向してみようと入部した弓道部で、俺は再び晴眞と出会った。
「鬼藤、おまえ、結婚するんだって?」
昼休み。食堂で久しぶりに出会った同僚の一言に、俺はざるそばを吐き出しそうになった。
「は?」
「酒木がおまえが女と同棲してるから、もうすぐ結婚するんじゃねーかって」
数日前に食堂で顔を合わせた出張帰りの同僚のいけ好かない顔が思い浮かぶ。勝手に話を作らないでくれ。というか、どいつもこいつも女とくればすぐにそんな話に持っていく。まあ、世間の反応なんてそんなものかもしれない。もっとも傍にいる時間が長い“友達”が女であるといえば、たいていそんな反応が返ってくる。今日に始まったことではない。世間一般には、男女の友情は成立しないのか・・・もっとも、俺と深の場合は“友情”ではなくて“家族愛”のようなものなのかもしれないが。
「骨折が治るまで一緒に暮らしてるだけ。家族みたいなもんだよ」
「もう家族気分かよ」
「そう言う意味じゃない。とにかく家族としか言いようがない」
深は俺の姉でも妹でも、ましてや妻でもない。ただ、家族なのだ。ずっと昔から。
「年下?」
「同い年」
ちょうど誕生日はひと月違い。歳が違うのは1年のうちで1か月だけ。そしてもうすぐ、その1カ月が始まろうとしている。
深が団地の向かいの部屋に引っ越してきたのは、俺の5歳の誕生日の日だった。挨拶に来たとき、深は7つ年上の兄の足元に隠れるように引っ付いていた。
『うちの興輝と同い年だわ!今日、誕生日なの』
インターホンが鳴った後、にわかに騒がしくなった玄関の話声に聞き耳を立てていると、母がそう言って玄関から声高に俺を呼んだ。姉と父は俺への誕生日プレゼントの買い物に出かけて留守だったから、俺は、遊び途中のゲームを止めて玄関まで行った。
『興輝、お向かいに引っ越してきた直井さんよ。お兄ちゃんの典明くんは直梨の二つ年上で、妹の深ちゃんは興輝とおんなじ歳なんだって。ご挨拶して』
同い年だと紹介された深は、兄の後ろに隠れていて見えなかったから、俺は顔を精いっぱいあげて、深の兄と両親に挨拶をした。
それから数時間後、姉と父も帰ってきた、もう夕方だった。再びインターホンが鳴り、母が出て、俺は再度玄関に呼ばれた。
『こんばんは』
立っていたのはお向かいに引っ越してきたお兄さん、と、相変わらず隠れるように後ろに引っ付いている深だった。
『こんばんは』
なぜ訪ねられたのかわからずに、俺は挨拶だけ返した。
『ほら、深』
兄に引きはがされて、深は初めて俺の目の前に立った。ある意味、衝撃だった。幼稚園で遊ぶどの女の子とも違うきりっとした大きな瞳は、びっくりするくらいの強い光を放っていた。きゅっと音が出そうなほどに唇を真一文字に結び、真っ直ぐ俺を見つめて、無言で小さな包みを差し出された。
『深、ちゃんと言わないと』
『・・・・・・』
少し不機嫌そうな顔で、深はやっぱり無言で俺に包みを押し付けて、俺が反射的にそれを受け取れば、また兄の後ろに引っ付いた。
『ごめんね、深はちょっと恥ずかしがり屋さんなんだ。でも、今日は興輝くんのお誕生日だってさっき聞いたから、深がプレゼントを作ってきたんだ。もらってくれるかな?』
似ていない。まったくもって深とは似ていない穏やかさを固めたようなお兄さんは屈んで俺の瞳を覗き込んで、優しく問いかけた。
『ありがとう。あけてもいい?』
俺はお兄さんと、次いで後ろに引っ付いている深に問いかけた。
『うん、いいよ』
お兄さんが言い、深が無言で頷いたのを確認して、俺は小さな包みを開いた。中身はきらきらとしたビーズのミサンガだった。
『これはね、ミサンガって言うんだ。こうして、手首か足首に巻いて、引っ張ったりしないで、自然と切れたら、興輝くんのお願い事が叶うんだよ』
お兄さんの説明に、俺はこくこくとうなずいた。
『ありがとう。大事にする』
『どうもありがとう。じゃあ、楽しいお誕生日をね』
そう言って、お兄さんと、後ろに引っ付いていた深は帰っていった。
リビングに戻った俺は、姉に足首にミサンガを結んでもらった。幼稚園で怒られるかな、と思いはしたが、細いそれは、ちょうどよく靴下に隠れた。そして俺はそのミサンガに最初の願い事をした。
深ちゃんが僕とおしゃべりしてくれますように
深は当たり前に同じ幼稚園に通い始めたが、不思議なことに、一か月間、誰とも一言もしゃべらなかった。それがなぜなのか、いまも俺は知らない。その理由を、深に訊いたこともない。ただ、それは俺にとって、多分いいことだった。なぜなら、深が引っ越してきてから初めて家族以外で彼女の声を聞いたのが、俺だったから。
俺の誕生日からちょうど一月後、深の誕生日の日に、俺は旅先の海で拾った貝殻の瓶詰を深にプレゼントしようと家を出た。向かいの深の家のインターホンを押そうとジャンプした瞬間、ぱらりと音がして、裸足にサンダルだった足首から、ミサンガのビーズがきらきらと零れていった。
その数分後。
『どうもありがとう』
貝殻の瓶詰を受け取った深が少し微笑んで言った。
『さっきミサンガ切れて、お願い、叶ったよ。深ちゃんのミサンガって、すごいね』
それが俺と深の最初の会話。
以来、俺の誕生日にはいつも、必ず一本、深の手製のミサンガが添えられている。そしてそれは必ずいつも1年以内に切れて、俺の願い事を少なからず叶えてくれてきていた。ただ、誕生日が目前に迫った今日、去年もらったミサンガは、まだ俺の左足首にしっかり巻き付いていた。そしてそのミサンガに俺がかけた願い事はいま、叶わないほうが良いことになったにもかかわらず、限りなく叶おうとしていた。
どうか晴眞が深を迎えに来ますように。
「・・・・・・」
そして今、運命のような再会が果たされた。
今朝伊藤から、あんな話を聞いたばかり。昨日の今日どころか、今朝の今で、俺の目の前にはあのギリシャ彫刻のような顔で、不自然な青みがかった左目が俺を見つめていた。
「久しぶり」
「・・・・・・」
なんと返せばいいのか、俺はただ、黙ってその視線とあいさつを受け止めた。
「元気だった?」
「ああ」
「また骨折したんだ?」
「ああ」
何もなかったかのように始まる普通の会話。
「怒ってるんだ?」
「・・・・・・」
ただこの問いにだけ、俺は答えられなかった。
「今、どうしてる?」
俺のことではない。訊かれているのは深のこと。いっそ言ってしまおうか・・・“あいつは俺がもらった”と。
「ねえ、どうしてる?」
晴眞の左目は、宝探しのように楽しげに俺を見る。
「一緒に住んでる」
この一言は、嘘を吐かないことが信条の俺にできる、精いっぱいの防御だったのかもしれない。
「・・・その意味は、そういうこと?」
妙な色の左目はくいっと探るようにもう一度俺を見た。
深、一度も口にしたことはないが、5歳の誕生日にお前と出会えたことは、いまでも、俺のすべての誕生日プレゼントの中で、最も嬉しいことだったんだ。どうか、俺から離れていかないでくれ。




