最初に戻す男
☆最初に戻す男
深の髪の毛を切ったのは、決して掃除するのが大変だからという理由だけではない。まあ、もちろん、それも大いにあったが、もう一つの理由のほうが大きくて。それはきっと、ただの信憑性のない、ジンクスのようなものなのだろうけど、俺は戻したかったのだ。深が髪の毛を今までで最も短く切ったあの日に。
「なんか変な感じ」
「いや、そうでもないぞ」
化粧をした後、珍しく鏡を見ている深が言い、俺は返した。
「そうでもないって言うかさ、“似合ってるぞ”とか、言えば?」
「似合ってるぞ」
「心にもないこと言うのやめたら?」
言えというから言えば、そんな言葉が返される。
実際的に、ロングヘアーの深を見慣れてきているからなのか、肩にようやくつくというところまで短くなった髪型は、自分で切っておきながらなんだが、深に似合っているかどうかと真剣に問われれば、返事に困るものがあった。
「まあいいや。見てても伸びるわけじゃないし」
切り替えが早く諦めがいいのは深の長所だ。本来ならば、髪の毛を無理に切ったのだから、俺はもっと彼女に咎められるべきなのだろうが、特にそう言うこともない。ただ、週末に焼肉食べ放題に連れていけというのが、深なりの俺への仕返しらしかった。
「こんなに切って何か言われたらめんどくさいな」
「なにかって?」
「んー、“失恋したの?”とか?」
「高校生じゃあるまいし。大体にして、おまえの髪が短くなったことなんか、誰も気づかないかもしれないぞ」
「まさか、こんなに切ったのに?」
明らかに短くなった髪の毛先を指に巻き付けながら、深は訝しげに俺を見る。
「今日一日で誰が一人でも気づいたら、焼肉は俺がおごる」
「・・・誰も気づかなかったら?」
「おまえのおごりだな」
にやりと笑って言えば、深は一瞬だけ不満そうな顔をするも、気づかれる自信があるのか、納得したらしい。
「わかった」
「じゃあ、そろそろいくぞ」
「はーい」
「鬼藤先輩」
駅のホームで電車を待っていると、これまた思いがけない、懐かしい相手に声をかけられた。
「伊藤か」
「お久しぶりです」
高校生の頃と変わらない華奢な体にスーツを着て、あの頃と同じショートヘアに控えめな化粧。先日再会した高橋と仲が良かった後輩だ。
「私、時々駅で鬼藤先輩みかけてたんですよ」
「声かけてくれればよかったじゃないか」
「なんか、外だと鬼藤先輩話しかけづらいです」
話しかけづらい。は、俺の第一印象で最もよくあるものだ、と、いつか深が言っていた。確かに話し上手ではないことは自覚しているし、あまり知らない相手と打ち解けて話すことも得意ではない。それはきっと深も同じだが、深は“明るく楽しい直井深”を演じているので誰もそんなことには気づかない。ただ俺には、深のような演技の才能がないという、その違いなのだと思う。
「じゃあ、今日はどうして声をかけた?」
「骨折してたんで」
伊藤の答えは意味不明だ。部活をしていたころから伊藤は割と意味不明だった。高橋もその話口調や行動から“不思議ちゃん”と言われていたが、俺としては、高橋と一緒にいる伊藤のほうが常に意味不明だった。言動も考え方もどこかほかの後輩たちとは違っていて、それはなぜか、素でいる間の深を思い出させ、俺は他の後輩と比べれば、ほんの少しだけ、伊藤を贔屓していたかもしれない。
「骨折してたら話しかけるのか?」
「先輩、毎朝奥さんに送ってもらってるんですね」
伊藤も高橋と同じく、見事に人の話を無視して別の話題に進む。それは高校時代からあまり変わっておらず、当時はその礼儀のなさにたびたび怒りを感じて注意もしたが、いまとなっては微笑ましい。
「結婚してないって、高橋から聞いてないか?」
「最近高橋連絡とってないんで・・・そんなことより、洲鎌先輩って、いまどこにいるんですか?」
更に話題は別のところへ容赦なく飛ぶ。
「さあ、高校卒業してから、ほとんど連絡とったことないからな・・・世界のどこかにいるだろってくらいしか」
「私、成田空港で働いてる高校のときの同級生がいるんですけど、その子が先週、洲鎌先輩にそっくりな人見たって言ってたんですよ。だから、もしかしたら、鬼藤先輩には連絡とか、いってるのかなって思って」
伊藤が俺に話しかけたのは、俺が骨折しているからじゃない。あいつのことを訊きたかったからだ。これはただの勘だが、この前会った時に高橋が言っていた“洲鎌先輩のことを好きだった友達”というのはおそらく伊藤のことだったのだろう。
「特に何の連絡もないな」
「じゃあ、見間違いかな・・・洲鎌先輩が戻ってきてるとかなら、久しぶりに飲み会とか、どうかなって思ったんですけど」
話している間に電車が来て、俺と伊藤は乗り込んだ。
「まあ、連絡が着たらな」
「はい!楽しみにしてます!」
伊藤は今もあいつのことが好きなのだろうか。それともそれは、ただの憧れのような感情なのだろうか。最後に会ってから、もう何年も経っている。きっと伊藤があいつに会いたい理由は後者だろうが、深は違う。
数年ぶりに耳にした親友の目撃情報を、ありがたいとも嬉しいとも思えない上に、疎ましく感じた自分の心の醜さに、俺は愕然とした。
深を思うのなら、もう、来ないでほしい。来るのなら、もっと早く来てほしかった。この10年、一体何をしていたんだ?どうして約束通りにしなかった?どうして俺にさえ、いや、深にさえ、何の連絡もよこさなかった?
どう考えても、責める言葉しか思い浮かばない。
俺はきっと、おまえに会わないほうがいい。それが俺たちの友情という名の絆を保つ、きっと最後の方法だから。




