髪の毛を切られる女
☆髪の毛を切られる女
「直井ちゃんほんと髪の毛伸びたよねー」
私が地獄のランチタイムに参加しなくなってから1週間。相変わらず狭山さんは誰でもいいような入力を頼みにふらりと訪れては“結婚できないトリオ”に感嘆の声をあげられて、私は応じる気のない食事に誘われたりしながら、くだらなく毎日は過ぎている。
「そろそろ切ろうかと思ってるんですよ」
―――私の髪の毛のことなんか、正直どうでもいい。って言うか、触らないで―――
私は人に髪の毛を触られるのが嫌いだ。だから美容室なんて、よほどのことがない限りいかない。付き合った彼氏にでさえ、髪の毛をなでられることに抵抗を感じるほどだ。髪の毛を触られてもっとも拒否反応が出ない相手は、興輝。なぜそうなのかわからないが多分、子供の頃から触られているからだと思う。
小さい頃、私は気が強い割には泣き虫だった。近所のいじめっ子に喧嘩を吹っかけて負けては泣き、理不尽なことを言う先輩たちに突っかかって陰口を言われては泣いた。そんな影での私の弱さを興輝だけが知っていた。私が泣いている傍にきては、そっと頭をなでられた。年を重ねるごとに私の泣く頻度は減って、いまでは泣くことなんて、ほとんどないけど、それでもやっぱり、泣いた時に髪の毛をなでてほしいと思う相手は興輝だけだ。
だからだろうか、私の人生の大半は、ロングヘアーで過ごしてきている。切るとしても、10センチとか。肩より短く切ったのは、高校を卒業した時のただ1度きりだ。その時に髪の毛を切ってくれたのは、興輝だった。それ以来、私は興輝にしか髪の毛を切ってもらったことがない。美容室に行ったのは、成人式のときただ1度だけ。高校時代は仲が良かった美希が、中学時代は興輝のお姉さんが、小学生の頃は母が。それぞれ私の髪の毛を切ってくれていた。そして美希の結婚式以来、この2年ほど、髪の毛は1度も切られることなくただいたずらに伸び続けている。
「直井さん」
―――来た。また来た―――
「はい」
「これ、悪いんだけど・・・」
「今ちょっと立て込んでるんで、1時間以内にお持ちしますね」
「助かるよ」
大して立て込んでもいないし、30分で仕上げられる。でも、それを正直に告げれば、営業部のエースは30分間“結婚できないトリオ”との談笑でここに居座ってしまう。
昼休みまであと45分。仕上げて昼の間に机に置き逃げして来よう。
「おかえり」
「ただいま」
いつもと同じやり取りで、私は興輝がシートベルトを締めたのを横目で確認しつつゆっくりとアクセルを踏んだ。
「どうだ?弁当にしてから昼はちょっとは休めてるか?」
いつもは家に着くまでほとんど無言なのに、珍しく興輝のほうから話題が振られた。
「うん、おかげさまでとってもゆっくりのんびり休んでる」
あの日以来、興輝は1日も欠かすことなく私にお弁当を作ってくれている。大雑把で豪快そうに見える興輝は、案外と器用で気が利く男なのだ。そして器用そうで気が利きそうだと思われている私は、大雑把でてきとうだ。
「そりゃよかった」
「今日のお弁当のエビチリが美味しかった」
「まだ残ってるから、帰ったら晩飯に出すよ」
「わぁい!楽しみ」
他愛もない会話をして、駅から家まで、4つある信号に1度も引っかからなければ5分で着く。今日は、そういう意味でラッキーだ。これは私の心の中でだけのある種運試しのようなものだけど、この帰りの4つの信号にいくつ引っかかったかで今日の残りの時間が幸せになるかどうかが決まる・・・実際はそんなことは無意味なのかもしれないけど、取り敢えず1度も引っかからなかった今日は、ラッキーだってことにしておこう。
「じゃあ、お風呂はいってくるね」
「おう」
家に着くと、私は興輝を迎えに行く前にお湯を張っておいたお風呂に入り、その間に興輝は夕食の支度をする。それがここ最近の私たちのサイクルだ。最初は悪いと断ろうとしたが、“お前は俺のために時間を割いているのだからそれ以外のことは効率的に時間を使え”という興輝の先制攻撃を受け、黙ってそれに甘えることにした。
「ふぅー・・・疲れたぁー・・・」
口では“疲れた”なんて言って、体力なんか全然使ってないし、私の仕事はそもそもまったく体力勝負ではない。そのうえ、1日中小学生でもできそうな入力を延々とパソコンを睨みつけながらこなしているという単調作業の連続なのだから、こうして改めて口にするほど、実際は疲れてなんかいないのだ。でも、お風呂に入ればつい口をついて出てしまう。
「興輝、あがったよー」
あがったと声をかけても、無意味に長い髪の毛を乾かすのに、私はこれからさらに20分ほどをドライヤーに費やさなければならない。初めは洗面所で立って乾かしていたが、立っているのもだんだんと疲れてくるので、最近はドライヤーをリビングへ持ってきて、床に座り込んで乾かしている。
「深、その乾かし方何とかならないか?」
カウンター式のキッチンの向こうから、興輝が私に何か声をかけたが、あいにくドライヤーを使い始めた私には、その声はよく聞き取れなかった。
「え?なに?」
ドライヤーを止めて顔をあげる。といっても、すべての髪の毛を顔の前に持ってきて俯いて乾かしているから、私が顔をあげても興輝に私の表情は見えないし、私からは髪の毛の合間から興輝がなんとなく呆れたような顔をしているな、くらいにしかわからない。つまり今の私は、某ホラー映画のあの人みたいになっているわけだ。
「その乾かし方気持ち悪いぞ。普通に乾かせ」
「こっちのほうが早く乾くんだもん」
とりあえず興輝に言葉を返して、私はドライヤーの続きを始めた。
「うーん、あっつい!」
ようやくまあまあ、という具合に乾いた髪の毛でドライヤーを止める。これだけ長いと、さすがに完全に乾かすのは時間がかかりすぎる。まあ、取り敢えず地肌に近いほうは乾かして、下のほうは生乾きくらいのまま、残りは自然乾燥だ。
「ごはんできた?」
ドライヤーを洗面所に戻してリビングに戻ると、リビングの真ん中あたりの妙な位置に椅子を置いて、そこに座って興輝が私を見ていた。
「どうしたの・・・?」
「深、こい!」
“こい!”という、なんか犬に向かって言うような掛け声とともに、興輝の腕が広げられ、私は戸惑った。
「な、なに?」
「いいから」
尚も腕を広げたままの興輝に、私はどうしていいかわからずに、なんとなく、このシチュエーションからして、こうするのが妥当なんじゃないか、とか思って、興輝を抱きしめるべく、傍に近づいてその広い背中に腕を回してみた。
私が普通の日本人だったら、これは思いつかなかったかもしれない。ただ、この行為は、昔付き合っていたハーフの男を思い出させた。彼はよくわからないが、事あるごとに私に向かってこうして腕を広げ、抱きしめるのが好きだった。
「・・・よしよし・・・?」
“よしよし”という、今度は私が犬に使うような言葉を使う。
そして私が抱き付くと、興輝も私の背中に腕を回して私をぐっと抱き寄せた。これまでにないほどの至近距離でのこの行為に、私の心音は興輝に聞こえるのではないかと思うほどに高鳴り、早まった。そして興輝は息がかかるくらい近い耳元で、いつもより低い声で囁くように言った。
「おまえと暮らし始めてから、気づいたことがあるんだ」
興輝が相手なのに、不覚にもどきどきと高鳴り始めた心臓に自分で驚きながら、こんなドラマみたいな展開で来るの?この前三井にあんな話したから・・・?とか思っていたら。
ジャキリ
嫌な音がして、私は興輝の背中に回していた腕をはずして、恐る恐る振り返った。
「おまえの髪の毛を掃除するのが案外大変」
頷きながらにやりと笑った興輝の左手には30センチほどの私の髪の毛が握られていた。
「え?嘘?なに?」
あまりの出来事に悲鳴を上げかけた私をその場に置き去りにしたまま、興輝はどこかへ行ったと思ったら、食器棚の引き出しと冷凍庫をそれぞれ1度開け、すぐに戻ってきた。
「残り揃えるから、おとなしくしてろよ」
新聞紙が敷かれた床に座らされた私は、手渡されたスプーンとスーパーカップのチョコクッキーを見つめて固まった。
「ねえ、ご飯前なんだけど」
「おう」
「しかも、これ、切りすぎじゃない?」
「いや」
「ねえ、泣いてもいい?」
「ダメだな。めんどくさいから」
話している間にも髪の毛は容赦なく切りそろえられて、私は夕食前だというのに、スーパーカップを完食した。
やっぱり、信号に引っかからないジンクスは無意味だったらしい。それはジンクスでも何でもなくて、ただの偶然。なんたって今日、不本意にも私の髪の毛は切られたのだから。




