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見守る男


☆見守る男

「あー、飲んだ!」

 家に入るなり、着替えることもせずにソファーに身体を預けた深はそのまま眠るのではないかと思うように目を閉じた。1杯の水を渡せば、一度だけ目を開いてそれを一気に飲み干し、そしてまた目を閉じた。

楽しかったか?大学時代に戻った感じか?教授は元気だったか?帰ってきたらかけてやろうと思っていた言葉はいくつかあったのに、深が目を閉じたことで、それは無用のものとなった。

 タクシーで帰って来いと言っても、大丈夫大丈夫と調子のいい事しか言わない上に、本当に夜道を歩いてくるのが心配で、時計を気にしながらリビングで待っていると、23時ころ、家の門の開く音に気付く。思わず玄関を開けると、深と、背の高い男が一人立っていた。

 相手の男のことはすぐには思い出せなかったが、大学では割と有名人だった。何部だったかは忘れたが、割合強い運動部に所属して、高校時代からエースだったというその実力と、とびぬけて整った容姿で人気を集めていた男だ。

「お水おかわり」

 カラになったグラスを俺につきだす力もないのか、ぐったりと手に持ったまま、更には手から離して床に転がした。

「落とすなよ」

 呆れつつもグラスを洗ってもう1杯ミネラルウォーターを注いで持っていくと、深は眠ってしまっていた。

「深、寝るならせめて化粧落としてからにしろ」

 風呂に入るのはおそらく無理だろう。しかも、いまの俺では2階に運んでやることさえできない。どう考えても起きて自力で2階にあがってもらわなければ困る。

「んー・・・三井の馬鹿!」

 いきなり呼ばれたのは、多分、さっき送ってくれた男の名前だろう。

「深、寝ぼけたまま人を馬鹿呼ばわりするんじゃない」

「なにがわかるってのよ!」

 きっときつく目を見開いた深ははっきりとした意思を宿していて、俺はその目から視線を逸らせなくなった。

「素直って何よ?素直になったところでいい事なんか絶対ない!」

「落ち着け、取り敢えず化粧を落として今日は寝るんだ」

「・・・・・・」

 きっと俺を睨みつけた後、危なっかしい足取りで洗面所に向かい顔を洗い始めた。

今日の飲み会で何があったのだろう。馬鹿といわれた三井は、深と何を話したのだろう。ただ俺にわかるのは、あの三井という男が、今日のたった数時間で、深の何かを変えたということだ。それがいい意味なのか、悪い意味なのか、今の時点ではまだ何もわからないが、出かける前と帰ってきた後では、確実に深の中の“何か”が変わっていた。

「興輝、ほら、寝るよ」

 怒った口調のまま、深はバックもiPhoneもリビングに置いたままひとりゆらゆらと危なげな足取りで階段を上がっていった。

「おう、先に寝ろ」

 自分と深の使ったグラスを洗い、深のバックやiPhoneを拾って俺が寝室へ引き上げると、着替えないまま床に引いた布団に寝てしまっている深がいた。起き上がる意思はないだろうし、いまの俺では深を抱き上げてベッドにのせてやるのも無理だ。仕方がないから今日は俺が上で寝るか・・・。

「風邪引かないでくれよ」

 あちこちに丸まった毛布を広げてそっとその身体を包んだとき、深が寝ているわけではないことに俺は気が付いた。でも、声を殺して泣く背中に、俺はかける言葉を知らない。だから、電気を消して、黙って眠ることにした。


「おはよう」

「んー・・・」

 翌朝、日曜だから起こさずにいれば、11時過ぎにようやく起きてきた深は恐ろしく不機嫌そうな顔をしていた。

「朝飯は?」

「んー・・・」

 多分、何を訊いてもしばらくは“んー・・・”としか答えないのだろう。そう思って俺は話しかけるのをやめた。

「コーヒー淹れて」

 30分ほどが経過した頃、深がようやく言葉らしい言葉を発した。

「二日酔いでよく飲む気になるな」

 ぐったりと効果音が付きそうな具合でリビングのソファーに沈んでいる深に、俺はコーヒーを淹れた。

「運べないから取に来い」

「じゃあいらない」

 せっかく淹れたのにいらないといわれる。仕方がないからシンクやダイニングテーブルを慎重に伝ってこぼさないようにソファーまでコーヒーを運んでやった。

「ありがと」

 礼はいわれるが、しばらくしても、コーヒーはソファーのそばの床に置かれたまま、一向に飲まれる気配がない。まあ、香りを楽しんでいるということで良しとしておくか。おそらく、香りすら楽しまれてはいないと思うが。

「興輝」

「ん?」

 コーヒーが完全に冷め切ったころ、12時半を迎えて、俺は食べるのかどうかもわからない深の分までパスタの麺をゆでていた。

「もう、やめようと思う」

「なにを?」

 訊かなくても、答えはなんとなくわかっていたが、一応深の口からそれを聞くのが、大切なことのように思えて俺は訊いた。

「待つのを」

「そうか」

 周りはきっと、とっくにやめていると思っているだろう。ただ俺と深だけが、正確に言えば深だけが、ずっと待ち続けていたのだ。来るかわからない迎えをずっと待っているというのは、どんな気持ちだったのだろう。何度やめようと思ったのだろう。ただ、それでも深は待ち続け、俺は彼女が待つのをやめるのを待ち続けた。

「午後は買い物にいこっか」

「ああ」

「アイスなくなっちゃったし」

「あんだけ毎日食ってりゃあな」

 ゆであがったパスタにトマトソースを絡めると、1時間ぶりに立ち上がった深が、それを食卓へ運んでいった。



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