素直になれない女
☆素直になれない女
「7年ぶり!ほんと7年ぶり!毎年企画してて初!ほんと初!」
毎回の企画と司会を買って出ているらしい松本が必要以上に声を張り上げている。昔からお調子者で飲み会の企画はいつも任されていたが、その手腕は今も健在で、乾杯前から楽しくなることが分かっているような幕開けだった。
学生時代は安いチェーンの居酒屋でしか行われなかった飲み会も、あれから7年の歳月を経て、恩師の退職祝いを兼ねた今日は、日常では足を踏み入れないような、料亭の一室へと場所を変えていた。
「7年ぶりに全員そろうなんて、ほんっと初!もう、教授がどれだけ俺たちに愛されてるか、これだけでよーくわかります!」
松本の大げさな感激ぶりに、7年間1度も参加しなかったことに、少なからず罪悪感が生まれて思わず俯いた。
「直井!大丈夫!別におまえのせいだけじゃない!」
妙なところで鋭い松本に突っ込まれて顔をあげれば、松本は人差し指でテーブルの一番端を指さした。
「三井との連帯責任だ!」
教授の隣に座っていた三井を見れば、少し困ったように眉を下げて、あの頃と変わらない、女の子顔負けの綺麗な顔をしていた。
「さあ、乾杯するぞ!」
これだけ話してまだ乾杯していなかったことを思い出したように松本が高くジョッキをあげて、乾杯後、現役時代の風習そのままに中身を一気に飲み干した。
「直井、久しぶり」
座が開けてきてみんな自由に移動して、飲みすぎたと座敷の端にもたれて座っているとグラスを持った三井が傍に来た。その左の薬指にはシルバーのリングがはめられていて、もう何年も前に諦めたはずの恋を想い、私はそれを少し残念に感じた。
「久しぶり、三井も、初めてなんだね」
「うん、まあね」
そっと見上げれば、色が白くて、アルコールのせいでほんのり上気した頬。黒目がちの瞳と、長い睫毛。あの頃から大して歳をとっていないのではないかと錯覚するほど、きれいな顔立ち。ある意味中性的だと思うこの容姿だが、その実、三井の中身はとても男っぽいものだということを、私はよく知っていた。
「結婚、したんだね」
「ああ、うん」
「あの子と?」
「もちろん」
“あの子”というのは、三井のひとつ年下の幼馴染で、同じ大学に通っていた子だ。きらきらとした笑顔の眩しい、その心の優しさが表ににじみ出ているような、そんな印象の女の子だった。
どうして私が彼女と知り合ったかといえば、それは、私にとっては酷な偶然だった。
大学に入ってすぐ、私はゼミで三井と知り合った。三井はすらりと背が高くて、きれいな顔立ちで、その柔らかな物腰と優しくて紳士的な態度、それに時折見せるきらりと光る頭の良さで、付属高校からエスカレーターで上がってきたということもあって、最初から、女の子の憧れの的のような男だった。そんな三井を、私は好きになった。一年弱の片想いの末、バレンタインに帰ろうとした三井を呼び止めて本命のチョコレートとともに告白をしようとしたが、チョコレートを差し出した時点で、三井の答えは決まっていた。
『ごめん、受け取れない』
誰にでも分け隔てなく優しくて紳士な三井だから、告白は断るにしても、チョコレートくらいは黙って受け取ってもらえると思っていた私は、もう、どうしていいのかわからなくて、思わず食い下がってしまった。
『・・・私の、何が、ダメ?』
この言葉を言いさえしなければ、私のあの時の傷は、もう少し浅かったかもしれない。
『何もダメじゃないよ。直井は。ただ俺、好きな人がいるんだ』
三井に特定の彼女がいないことは知っていた。高校時代の同級生たちが言うには、告白されて付き合ったことは何度かあるらしかったが、三井は学業以外のほとんどの時間を部活のために割いており、結局は彼女たちにどちらが大切なのかと迫られて、部活を選んで恋人を振っている、と聞いた。私なら、そんなことはしない自信があった。でも、三井がだれとも長く付き合わない理由は、そんなことではなかったのだ。そして三井は、優しい男でも、紳士でもなかった。
入学した時からずっと好きだったといった私に対して、三井が言った言葉に、私は心底驚いた。
『俺は、いま好きな人、物心ついた時からずっと好きで、ずっと片想いだよ』
どんな相手と付き合っても最後には三井のほうから振ってしまう理由は、彼女たちとの付き合いに深入りする気がなかったからなのだ。なぜなら、本命の女の子は物心ついた時から、ずっと別にいたのだから。
それから数か月後、入学したての1年生らしき女の子が校内で道に迷っているらしい場面に遭遇し、私は彼女に声をかけた。幼馴染と待ち合わせをしているというその子を待ち合わせ場所まで案内し、私は知ってしまったのだ。彼女こそが、三井の本命の相手なのだと。
「いつ?」
「ん?」
日本酒をぐっと煽って、三井は私を見下ろした。飲めなそうにも見えるのに、三井はものすごく酒に強い。あの頃からそれは変わっていないようで、焼酎も泡盛もテキーラもストレートで澄ました顔で飲み干してしまうのだった。
「いつ結婚したの?」
「俺が大学卒業した年の10月」
三井の答えに、私は飲みかけたハイボールを吹き出しかけた。
「汚いな」
呆れながらもおしぼりと今度は焼酎を持ってきた三井を、私はまじまじと見つめた。
「だって、彼女・・・」
「うん、学生結婚」
「まじ?」
「本当は玲が大学卒業するまで待つつもりだったんだけど、計画が狂っちゃってさ」
きれいな顔して笑いながら話す三井は、優しくも紳士でも何でもない。ただ、自分の欲に正直な一人の男なのだ。“ただ”というより、“人一倍”。
「計画って?」
「ちょうどよく就職氷河期だったろ?だから、玲はぼんやりしてるし、100社くらい受けても内定もらえないと思ってたんだ」
幼馴染であり妻である彼女になんともひどいことを平気な顔して言い始める。
「なのにさ、夏休み終わってすぐ、一発内定もらっちゃって。俺の計画では100社受けて落ちた玲が就職できないってことになって、仕方ないから俺のところに永久就職しなよって、言う予定だったんだけどさ」
この三井のどこが紳士だというのだろう。話を聞いてれば、ただの悪魔じゃないか。
「で、どうやって結婚したの?」
私の記憶が正しければ、確かに三井の恋はあの時点では”片想い”だったはずだ。
「『就職してもいいけど、その代わり、大学卒業したら俺と結婚して』って言った。玲、彼氏もいたことなかったから、『いま俺と結婚しなかったら一生結婚できないよ』って、脅してみた」
笑いながら何杯目かもわからない焼酎を飲み乾した三井は本当に楽しそうに言った。
彼女はとても可愛くていい子で、うわさに聞く評判も上々だった。そんな彼女に彼氏ができなかった理由は、ひとえに悪魔である三井が裏工作をし続けてきたおかげなのだろう、と私は今になって気づいた。
「ひどい男」
「ははは、直井に言われるとはね」
「私、何かひどいことした?」
食って掛かった私を、三井はふと真剣な目で見た。
「今だから言うけどさ、直井、俺に本気じゃなかったでしょ」
三井の真っ直ぐな瞳は心の中まで見透かされそうで、私はその瞳を見つめて固まった。
「え・・・?」
「俺、知ってたんだ。直井には、待ってる相手がいるって」
思いがけない三井の言葉に、私は息が止まった気がした。
「だから直井の告白は断った。お互いに別に好きな相手がいるのに、付き合うメリットないだろ?」
それから三井は教授に呼ばれて、私のそばを離れていった。
「じゃあ、私は帰るね。楽しかった」
あまり遅くなると、興輝が心配するだろうと思い、幹事の松本に、2次会にはいかないことを告げ、ひとり駅に向かって歩き出すと、後ろから声をかけられた。
「どっち方面?送るよ」
こんな時ばかり、紳士っぽい三井がちょっとおかしい。
「三井が遅くなったら、奥さん心配するよ」
「今日は女子会とか言って、母親たちと旅行に行ってて帰ってこないから」
「だから来たんだ?」
「まあね」
送るといったのは、三井の親切心だと思うけど、帰り路が心配だからというよりも、三井は私に、大切なことを教えようとしてくれたのだろう。
「そう言えば、昔もよくこうやって三井に送ってもらってたね」
「ゼミの中では女は直井だけだしね。他に誰送るって言うのさ?」
言われてみればそうだ。男だらけのゼミの中で、みんなそれぞれに私を気遣ってくれていた。大概は酒に酔わない三井が、三井がいなければ松本が、松本もいなければほかの誰かが、飲み会の後は誰かが必ず送ってくれていた。
「俺さ、玲のことを話したの、直井が初めてだったんだ」
電車を降りて、駅から家まで、20分の暗い道のりで、三井が話し始めた。
「直井は絶対に玲をいじめたりしないと思ったし、強いと思ったから言ったんだ。ほかの女みたいに、嫉妬とか、妬みとか、そんなものに負けるほど、弱くないって言うか」
淡々と私を勝手に分析して、わかったようなことを言う三井の話を聞いていたら、私の中で、突然何かが切れた。その糸は、ずっと昔、三井に会うよりももっと前に閉じたはずの私の心の“開かずの間”に繋がっていたらしい。
「・・・三井に、私の何がわかるの?」
思わず立ち止まって振り返った私に、三井もそのままの距離で立ち止まった。声のトーンはいつもより、格段に低い、本来の私の地声。ここ十数年の中で初めて、私は家の外で“明るく楽しい直井深”を演じるのをやめた。
私も三井も動かない。ただ暗闇の中で、お互いにじっと見つめあった。何分かの末、三井がふっと息をついてその大きな瞳を一度閉じた。
「わかるよ。俺と直井は似てるから」
「どこが?」
「いつだって他人からもらう評価は本来の自分とかけ離れてるってとこ、かな・・・。直井は知ってるだろ、俺が“優しくて紳士な三井宗一郎”じゃないってことは」
“優しくて紳士な三井宗一郎”誰もがそう思って、女の子たちは一様に三井に憧れていた。でもその実、三井の中身は“ドSで腹黒い三井宗一郎”だった。三井自身はそれを隠そうとしていたわけでもなんでもなくて、ただ、その本来の姿を、幼馴染であり妻である彼女にしか見せていなかっただけ。三井の柔らかな見た目が勝手な三井の偶像を作り上げていたに過ぎない。
「まあ、大半は今日知ったけど」
「俺も知ってるよ。直井が“明るくて楽しい直井深”じゃないって」
興輝と美希以外の誰かに、これを見抜かれるなんて。
「玲も知ってるんだ。俺が優しくも、紳士的でもないってことは。それでも、玲は俺を愛してくれて、受け止めてくれる。直井も無理するべきじゃないんだよ。作られた直井じゃなくて、そのままの直井をはっきり見てくれる相手には、それを出してもいいんじゃないかな・・・俺が言うのもなんだけど、素直になるって、いい事だよ」
言いながら三井はゆっくりと歩きだした。
そのままの私をはっきりとみてくれる人
私はいつだって演じてきた。それは付き合った男にも同じことだった。いつだって”明るく楽しい直井深”でい続けた。だって、付き合ってくれる男はみんな”明るく楽しい直井深”が好きなのであって、“苛烈で毒舌家の直井深”のことを好きになりはしないのだから。その断片すら、私は絶対に見せなかった。
「なんで、気づいたの?」
しばらく黙って歩いてから、前を行く三井にようやく問いかけた。
「俺、一度だけ見たことあるんだ。直井が今みたいな低い声で男と話してるの。ほら、弓道部にがたいのいい、あ、鬼藤だったっけ?あいつと話してる直井見て、ああ、本来の直井ってああいう飾らない女なんだなって、思ったんだ」
大学の構内で、興輝と行動を共にすることは滅多になかった。学部が違ったし、避けているわけではなかったけれど、興輝といると思わず地が出てしまいそうで、“明るく楽しい直井深”でいるには、私のことをよく知らないうわべだけの友人といる方が楽だった。
「じゃあ、大学のときからばれてたんだ」
「でも、俺は本物の直井とのほうが気が合うと思う」
「男っぽいから?」
「それもあるかもね・・・あれ?家、こっちだっけ?」
「あ、今日はそこ右で」
直井家と鬼藤家の分かれ道で、三井の記憶にはない道を選ぶ。
「私も三井みたいに、幼馴染を好きになればよかったかな?」
「いるんだ?そう言う相手・・・もしかして、鬼藤?」
「うん、恋愛的な意味で好きだって思ったことは、一度もないけどね」
「相手はどうかな?」
「向こうもないよ。だって、私の待ち人の親友だから」
いつ迎えに来るともわからない相手を、私はずっと待っている。その相手のことも、相手との約束も、もしかしたら私が知る以上の彼を、興輝はよく知っている。だから、興輝が私に恋愛感情を抱くことはない。
「それってどうかな?いつ誰と恋に落ちるかなんて、わからないんじゃない?」
家を通り過ぎそうになった三井の袖を引いて止める。
「こんな家だったっけ?」
「ううん。でも、いまはここなの。今日はありがと」
「どういたしまして」
話していたら、玄関が開いて興輝が顔をのぞかせた。
「おかえり」
「ただいま」
それから三井を見て、“こんばんは”とふたりはあいさつを交わした。
「じゃあ、直井、またね」
「うん、奥さんと仲良くね」
「言われなくても大丈夫」
最後に興輝に会釈をして、三井は駅までの道を戻っていった。




