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風邪をひかない女

☆風邪をひかない女

「深、ちょっと手伝って」

 月曜の夜に興輝に呼ばれて2階へ上がると、興輝が大きな体を不自由そうにかがめて床に引いた布団を畳みなおして、廊下へ引っ張り出すところだった。

「なにしてんの?」

 手伝ってといわれてきたけど、さしあたって手伝うことが見当たらない。

「今更だけど、おまえ、今日から隣の部屋で寝ろ」

「なんで?」

 急に追い出されそうになる。

「夜中の咳がひどいから、俺、あんまり眠れてなくて、つまり、おまえも眠れてないだろ」

 興輝が夜中に咳こんでいるのは知っていた。それは時折ひどくて、きっと興輝はあまり眠れていないんだろうな、ということもわかっていた。でも、そのことでまさか、興輝が私の睡眠を妨げているのでは、と考えていたなんて、まったくもって思っていなかった。なぜなら、私が興輝の咳こみを気にするのは眠りに落ちる前の一瞬のことで、私自身はその後、興輝がどんなに咳き込もうと、翌朝6時に興輝に起こされるまで、まったくもって快適な睡眠をとっているからだ。

「全然、別に。ぐっすり眠ってるけど」

 私の言葉を聞いても、興輝は尚も布団を廊下に引っ張り出そうと苦戦する。布団を廊下に出せない原因は、ギブスで固められた自分の右脚だということに、そろそろ気づくんだろうか。

「風邪がうつるから今日から別々に寝る」

「うつんないよ。大丈夫」

 根拠はないけど、取り敢えずひとりでは寝たくない。暗いのが怖いとか、寂しいとか、そういうことではないと思うけど、ひとりでは寝たくない。というのが、私の正直な気持ちだった。

「おまえまで風邪引いたら俺が困るんだよ」

「駅まで送れなくなるから?」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ、どういう問題?」

 言い返したところで興輝がため息をついた。本当は助けているふりして、興輝に突き放されたくないのだ。だからこの骨折だって、傍から見たら変な同棲だって、私はラッキーだと思っている。興輝のそばにいる理由がある。それは私にとって、きっと何よりも大切なことなのだ。男としての興輝のことが好きだとか、抱かれたいとか結婚したいとか、そんな恋愛感情があるわけじゃない。ただ、興輝とつながっている“家族”という縁が切れないように、そのために必死にいつも何かを探している。興輝とつながっていられるための“何か”を。

「とりあえずヤダ。拒否する」

「深・・・」

「今日までここで一緒に寝てたんだよ?でも元気じゃん。大丈夫だよ」

「深・・・」

 呆れたように呼ばれる名前。私のわがままに、かれこれ25年も付き合っている興輝。お願いだから、私を遠ざけないで。私を“家族”の枠から追い出さないで。

「風邪引いても知らないからな」

「引かないから大丈夫」

 大きな意志のこもった瞳はすっと覇気を隠してもう一度呆れたように私を見た。外では絶対に見せないこの穏やかな興輝の部分こそ、私が興輝の“家族”でいる証拠。

「暖かくして寝ろよ」

 大きな掌に頭をなでられて、私は中途半端に廊下に引きずり出された布団を部屋に戻した。


「じゃあ、そろそろ寝よっか」

 お風呂も夕ご飯もとっくに終わって、いつもだったらこれくらいの時間から、私はソファーに寝転んでたいして興味のないドラマをながら見しながらビールの1本も飲んで、興輝は相変わらずいつになったらひと段落するのか知らないような、持って帰ってきた仕事を片付けるために、外ではめったにかけない度の薄い銀縁のメガネをかけてリビングのダイニングテーブル前のベンチに座ってパソコンに向かっているころだ。

「早すぎるだろ」

 時計は10時を少し回ったところ。

「風邪を治すには寝るのが1番だよ。早いけど、興輝に付き合って今日は早寝してあげる」

「そいつはどうも」

 でも結局眠る前に片付けたい仕事があるからとか言って、興輝が何時に寝たのか私は知らない。きっと今日だって、咳込んでろくに眠れなかったでしょ?でもね、私は眠れた。ぐっすり眠れたの。



四月三十日(木)

☆心配する男

『ごめん、今日、間に合わない』

 ちょうど会社を出ようとした頃、迎え時刻のLINEを飛ばせば、珍しく深から電話がかかってきた。

「おう、どうした?」

『ごめん、なんか長引いちゃってさ、まだ会社なんだ』

「タクシーで帰るからいいけど、おまえ、大丈夫か?」

 後ろの様子から、察するに、自分のデスクから電話しているのだろう。月末特有の、ばたばたとした雰囲気が伝わってくる。月末に加えて、明後日から始まるゴールデンウィークという長期休暇の予定が、珍しく深の仕事を圧迫しているらしかった。

『ねえ、駅前のいつもの店でご飯食べて帰ろうよ。で、ふたりでタクシーで帰るの。それだったら損はないでしょ?』

 いつもの店は学生時代から深とよく行っていた裏通りの小さな飲み屋。高校は違ったが同じ大学に進学した俺たちは、帰りに待ち合わせてよく飲んでいた。あの店にも、かれこれ半年は行っていない。

「おう、わかった。俺のほうが先につくかな?」

『ううん、多分私のほうが早いと思う。もうすぐ会社でれるはずだから』

 深のほうが30分ほど通勤時間が短い。いつもは深の上りが早いから、先に家まで帰って迎えに来る余裕があるが、今日はそこまでの時間はなさそうだ。

「わかった。じゃあ、あとでな」

『はーい』

 会社から電話しているだけあって、電話を通して聞く深の声はいつもより高く、“明るく楽しい直井深”を演じているんだな、と俺は一人納得した。あの店で俺と会う頃には、その演技は終わっていて、いつも通り耳に心地よい低さに戻っているはずだ。


「意外と早かったね」

 薄暗い店内に入り、久しぶりに会うマスターに軽く挨拶をして、最近定番となった骨折の理由を訊かれて答え、カウンターの深の隣に座る。

「まぁな」

 とりあえず運ばれてきた生ビールでグラスをあげるだけの乾杯をする。グラスのかち合う音が好きではない深との乾杯はいつも静かだ。

「忙しかったんだな」

「うーん・・・ちょっと帰り際にトラブルにあっちゃってね」

 深から仕事の話はほとんど聞かない。俺もほとんどしないが。俺にわかっているのは、深の仕事はデスクワークで事務職のように単調で、毎日似たような入力の連続で、同期なのか同僚なのかわからないが深が“結婚できないトリオ”と呼んでいる3人と日々つまらないと思いながら過ごしているということだけだ。残業することなどほとんどない。

「大丈夫だったのか?」

「うん、もともと私が起こしたトラブルじゃないしね」

 仕事の話をする深は、俺の知っているどの彼女よりもつまらなくて退屈そうで、なんだか、仕事のことを訊くこと自体が悪いことだったように思えてくる。

「そうそう、土曜日さ、夜出かけるから、ご飯いらない」

 週末も、まったく実家へ帰る気がないらしい深は律儀に俺に週末の予定を伝えてくる。

「そうか。あまり遅くなるなよ」

 帰りに迎えに行ってやれないからと、そう答えれば、深は飲みかけたビールを吹き出しそうになって笑う。

「やだ、興輝、お父さんみたい」

「老けてて悪かったな」

 いつもなら、深に“彼氏”と呼べる相手がいる間は別だが、飲み会帰りの深を駅まで迎えに行くのはここ数年ほとんど俺の役目だった。といっても、深が仕事関係以外で夜に飲みに行くというのは、久しぶりの話だ。何年か前に女友達が残らず結婚し、それまで毎晩のように楽しく飲み歩いていた深はぱたりと夜の外出をしなくなった。

「まあ、いいけど。でも、遅くなるかもな」

「誰とどこ行くんだ?」

 ついさっき父親のようだといわれたばかりなのに、またこんなことを訊いてしまう。

「大学のときのゼミ会」

「今でもそんなことやってるのか」

 俺にもうそういう仲間がいるにはいるが、みんな社会人になって数年たった今では、ほとんど会うこともなくなった。前回会ったのは・・・そう、一昨年の恩師の葬式のときだ。

「毎年やってるよ。しかも年2回くらい。卒業してから1回も行ったことなかったけど」

 ギネスビールにコーラを注ぎ足して自前のビアカクテルを作りながら言う深は、学生時代にファミレスでカルピスにファンタを混ぜていたころと何の変りもない。ただ、昔から大人びて見えたこの外見に、もう少しで年齢が追いつきそうだ。なんて、人のこと言えないくらいいつだって歳より上に見られ続けているわが身を棚にあげて思う。

「そうか。企画するのが好きなやつがいるんだな」

 この歳になってつくづく思うが、連絡というのは、取るべくして取らなければ、友人というのは、確実にその数を減らしていく。仕事や日常の忙しさにかまけていてはダメなのだ。そう気づいた時には、俺の場合、すでに手遅れだったが。

「うん。まあ、この歳になっちゃ来る人数も少ないんだろうけど。教授の退職祝いかねるって言うからさ、たまにはみんなの顔でも見てこようかと思って」

 深が少しずつ、いろいろなものを捨てて、前に進もうとしている。今までやらなかったことに挑戦し、何かを変えようとしている。

「まあ、楽しんで来い」

「うん、楽しめたらね」

外では未練や後悔など無縁で、悩みなど何もない、“明るく楽しい直井深”である彼女は、本当は過去にとらわれて、高校を卒業したあの日から、一歩もその脚を、前に出せないでいる。待っているのだ。その場所から自分を動かすことのできる唯一の相手が迎えに来るのを。それなのに、相手の男は未だ、世界のどこにいるのかすら、見当がつかない。

「でもきっとみんな結婚しちゃってるだろうなー。また私だけかな?」

「そうでもないだろ」

「意外とさ、え?って思うような人が結婚してたりしない?」

「おまえ、失礼だな」

 運ばれてきた漬物の盛り合わせを食べるわけでもなく皿の上で子供の落書きのような似顔絵を作りながら言う。それはどことなく昔飼っていた犬に似ていて、なんとなく食べづらくなっていた。

「でね、美女と美男が残ってるの」

 そう言ってぱっと顔をあげた深は、居酒屋ならではの暗めの照明のせいか、いつも以上にくっきりとその輪郭を見せ、きりりとアイラインを引かれたきれいな瞳はばちりと俺をとらえ、不覚にも、どきりとさせられた。だから言ってやった。

「おまえと俺だな」

「自分で言う?」

 いつも以上によく飲んで、よく食べて、帰りのタクシーに乗るころにはろれつが回らなくなってしまった深を、松葉づえなのに抱きかかえて玄関まで運んだ俺は、月明かりの中でその閉じられた瞳から、涙がこぼれているのを見た。




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