風邪をひく男
☆風邪をひく男
「いやな感じだ・・・」
今朝から、というか、多分正確に言えば昨日の夜からだと思うが、あまり調子が良くなかった。風邪を引いたのかもしれないと思いはしたが、原因が思い当たらない。特に寒かったとか、風邪をうつされただろうとか、そんなものは一切ない。だが、身体はとても正直に、確実に、その症状を俺に訴え始めていた。全体的にだるいし、関節が痛い。夜中に若干咳が出て、そのたびに深を起こしてしまうのではないかと気になったが、ふと見れば、子供みたいにぐっすり眠っていた。
深は昔からそうだ。眠るときも起きるときも、とてもはっきりしている。うたた寝をしているとか、まどろんでいるとかいうことがほとんどない。眠るときはぐっすりと眠り、起きるときはぱっちりと目覚める。だから一度眠ると、起こすのに少し手間取る。その覚醒はものの10秒で行われるのに、そのスイッチを押すまでが、意外と時間かかる。
「・・・・・・」
自販機で買ったブラック無糖の缶コーヒーを一口飲んだ瞬間、なぜか吐き出しそうになった。
「っ・・・?」
気づかないふりをしていた頭痛がだんだんと時間を追うごとにひどくなり始め、そろそろ頭が痛いと認めなければならなくなりそうなとき、時計を見れば、まだ10時半だった。
「鬼藤、午後のか・・・おまえ、大丈夫か?」
声をかけられて顔をあげた俺を、上司は驚いたようにみた。
「あ、はい」
「いや、大丈夫そうじゃないな・・・」
顔をあげた瞬間の視界が歪んで見えて一瞬だけ焦った。骨折は他人より多く経験しているが、その他の病気はあまり覚えがない。風邪だって、前回引いたのはいつだ?インフルエンザ?かかったことない。大体にして、小学校1年から大学4年の卒業まで、俺の出席記録は骨折した日を除いて皆勤なのだから。
「で、午後なんです?」
「鬼藤、午後の会議は大したことない。今日の午後より来週だ。だから、今日は帰ってくれ」
真顔で上司に言われ、一瞬冗談かと思ったが、どうもそうではないらしい。
「医務室で休んでいくか?」
俺の勘だと、いま眠ったら確実に起き上がれなくなる。
「お言葉に甘えて帰ります」
朦朧とした意識の中で、物事を正確に判断するのは難しいが、多分今は、信頼おけるこの上司の言う通りの行動をとるのが賢明なのだろう、と俺は結論付けて早々に帰ることにした。
「大学の裏通りからお願いします」
久しぶりに乗ったタクシーで、俺は自分がタクシーに乗りたくない理由を思い出した。
「お客さんがたいいいねぇ、何かスポーツでもやってるの?」
「・・・剣道と弓道を」
「お、武道派かぁ、足のケガも?」
「・・・剣道の試合中に」
タクシー運転手は家までの5分ほどの間にこうしてどんどん興味も意味もないだろう俺の個人情報を引き出しまくる。ただでさえ具合が悪いのに、運転手の相手までしていられない。基本的に愛想悪いはずの俺に話しかけてくれるその心遣いと勇気は素晴らしいが、いまはダメだ。
「ありがとうございました」
これほど長く感じる5分も最近では珍しい。降りた瞬間に倒れそうになりながら俺は玄関の鍵を開けた。
「・・・・・・」
眠る前に、深にLINEを飛ばして迎えに来なくていい旨を伝えなければと思いつつ、俺は2階に上がると深が戻るころには暗くなってしけり始めそうな洗濯物も気になって、結局アラームを15時に設定して休むことにした。
☆看病する女
興輝LINE:今日、迎え来なくていい
お弁当を作ってもらい始めて2日目のお昼。屋上でひとり平和な昼休みを満喫していたら、興輝から連絡がきた。
深LINE:遅くなっても寝ないで待ってるからいいよ。何時でも呼んで。
“迎えに来なくていい”真意はたぶん、残業で遅くなるから、私の時間を束縛しないための興輝の気遣いだと解釈した。でも、真相は全く別のところにあって。
興輝LINE:いや、先に帰ってる
意味、わかんない。
深LINE:意味わかんない。
そのまま返信。
興輝LINE:風邪引いて早退した
風邪引いて早退した
風邪引いて早退した
風邪引いて早退した
珍しすぎて3回も読み返した。風邪?興輝が風邪?ウケる!ものすっごいウケるんだけど!そう言われてみれば、昨日の夜中に咳してたかも?
深LINE:お大事に。何かほしいものあったら帰るまでに言ってね。
それだけ返したけど、その後興輝からの返信はないまま、私は帰宅した。
「ただいまー」
いつもは私が先に帰るから、門燈も点けてなくて真っ暗で鍵穴を探すのもちょっと苦労するけど、今日はちゃんと門燈が点いていた。こういうところに意外と気を回すのが興輝なのだ。
「おう、おかえり」
骨折してる上に風邪引いて早退してきたっていうのに、律儀に玄関まで私を出迎えてくれる。
「風邪引いてんでしょ、おとなしく寝てなよ」
「ああ、晩飯、作ろうと思って」
早退してきた割には元気じゃん。
「いいよ。っていうか、私が作るから。なになら食べられそう?」
とりあえず部屋着に着替えるべく2階にあがって、着替えて下に降りていくと、今朝干した洗濯物をソファーに座って畳んでいる興輝がいた。
「ねえ、洗濯おろしたの?危ないよ」
「まあ、大丈夫だろ」
「何のために私が毎日干してんのよ」
「感謝してる」
あまり会話がかみ合わないから、洗濯の話題はこれにて終了。
「で、夕食何にする?」
この家にきてから私が食事の支度をするのは初めて。いつも興輝に任せっきりだけど、私だって別に、ものすごく料理が下手なわけでも、何も作れないわけでも、ましてや洗剤で米をとごうと考えているわけでもない。
「あ、俺いらない。食欲ないから」
「それじゃあ薬飲めないでしょ」
「さっきちょっと食って飲んだから、今日はもういい」
「だったら寝てな」
「ああ、これ畳んだから」
「あのさ、何のために早退してきたわけ?」
興輝相手だから言いたいことは心にとどめずにバンバン口に出す。
「じゃあ、先に休むけど、戸締りとガスの元栓よろしくな」
「はいはい」
「寝る前に門燈消せよ」
「忘れそうだから今消す」
「寝る前にしろ」
「なんで?」
「真っ暗だったらあとから帰ってくる近所の人が困るだろ」
そんなこと言って、この近所ではこの家以外、どこも門燈なんてつけてないし、帰ってくるのだって、多分、興輝が一番最後だ。門燈を点けてることに誰からも感謝なんかされないのに、どうしてこうなんだろう。
「とにかく、寝る前に消せよ」
「はいはい」
「おやすみ」
結局最後の1枚まで洗濯物を畳んで、不自由そうに足を引きずりながら、興輝が階段を上っていくのを見送った。




