無言の盟約
無言の盟約
「奴の名前はランバトル──神威代理執行局の牙──爆裂宣教師の異名を持つ男だ。魔法薬にもっとも適応した個体だと聞いている」
「んな、化け物がいるとは聞いてないぜ」
「私も言っていない……奴とであって無傷とはたいしたものだな、蹄」
麗春の説明に蹄は憮然とした。
魔法薬はオードゥグ教のもっとも得意とする分野だ。神威代理執行官の一部は魔法薬で肉体を強化しているという。その最高峰が、アレらしい。
「オードゥグ教のフランチス枢機卿は自ら動けないが、代わりに奴が動く。頭が枢機卿で奴は手足といった所だ。奴と永の戦闘のとばっちりを食って壊滅した街は一つや二つではすまん」
──蹄の脳裏に昨夜の様子が浮かんだ。なるほどあの戦闘力では無理もない。おまけに巻き添えもお構い無しでは回りの被害は酷いものになるだろう。
「化け物だね。追う方も、追われるほうも」
「うむ。永も最初は倒そうとしていたらしいのだが、何せ刃物は通らん。そこで衝撃を与えて中身の方をどうにかしようとしたようだが、本人も頑丈でな。本人達はピンピンしているのに街だけが壊滅するという事態がしばらく続いた。さすがに最近では仕留めるのは諦めて逃走しているようだ。おかげで被害が少なくなった」
あれで少なくなったとは、ひでえ冗談だ、と蹄は思った。
公式には、局部的な竜巻が発生して加羅伊の街の一部が被害にあったということにしているが、あれを人間がやったなどと誰が信じるだろう。
「奴が出てきたのでは、見失うのも仕方ない。惜しかったな。残念ながらボーナスは出せないが、危険手当は出すように経理に言っておこう」
「そりゃ、どーも」
よっぽど金の問題ではないと言いたかった蹄だが、言っても無駄だと悟り、言葉を飲み込んだ。
麗春は報告書を眺めて、何事か考えている。その眼に異様な光を感じて、蹄は嫌な予感がした。
「奴を行動不能にしたのは本当か?」
「ん~、這い上がってこなかったから、そういう事じゃないのかな? 俺の報告書になんか不備でも?」
麗春は不気味に眼を光らせている。
蹄は思わず身を引いた。
「永に続いてランバトルをも戦闘不能にするとはな……奥の手は出していなかったが、それでもたいしたものだ……」
「アレでまだ奥の手があるのかい……」
桑原、桑原と心の中で唱える蹄であった。
「我々は永を追いかけるのに、資源、財力を惜しみなくつぎ込んできたつもりだが、どうしても劣るものがあった……人材だ。永に勝ると劣らぬ戦闘力を持つ者……オードゥグ教にはランバトルがいたが、それ以外の組織は人材に恵まれず、質を数で補おうとしてきたが……我々はそれを得たと思っていいな」
「……お嬢………さん………」
思わず声も引きつる蹄だった。
「俺があいつらの相手をするのかい? あの化け物達を?」
麗春は頷いた。
「お嬢さん! あんな化け物と一緒にしないでくれる? 俺は薬物強化も魔法義肢も使ってない、まっさらな普通の人間なんだぜ」
「安心しろ。その二人に技量だけで対抗できるのは、我々から見たら立派に化け物だ」
「………おじょおさぁん……」
声まで泣きそうな蹄であった。
「とはいえ、しばらくは動くな。奴と鉢合わせしたら面倒だ。奴も大人しくはしているだろうが……街にはオードゥグ教の教団員が溢れているからな」
局部的な竜巻の被害にあった──とされている──加羅伊の街には、まるでこの事を予測していたかのように、食料、医薬品、資材を持ち込んでいた神威代理執行局が、人道的会見により無料援助していた。
なにがあったか知っているのは一部の執行員だけだろう。何も知らずに教団員は心を込めて怪我人の手当てをし、炊き出しを行い、街の復興を手伝っている。
もちろん、魔道師ギルドからも援助は出ている。
恩は売れるときに売っておくものだ。
援助を受けた加羅伊の住人は、教団やギルドの厚意に感謝するだろう。
何があったか知っている当事者の蹄としては寒い限りだ。
「自分達で壊しといて恩を売るなんざ、阿漕もいいとこだぜ」
「それが政治というものだ」
「はいはい。俺はここで大人しくしてるけどさ、あいつ等はどうすると思う?」
街は混乱を極めている。それにまぎれて遠くに逃げられたら捕まえられない。
「永はしばらく体を休めているだろう。今日、明日くらいはな。再生は体に負担がかかる。爆裂宣教師の方も、人目をはばかるだろう。教会で掃除をするか、本部に収まっているだろうさ」
義肢を再生させるには激痛に耐えなければならない。永といえども消耗する。その直後に逃走をはかり、蹄とランバトルの相手をしたのだ、かなり疲労しているだろう。
しかし蹄は別のことが気になったようだった。
「掃除?」
「辻説法と掃除が奴の趣味だ」
蹄は思いっきり顔をしかめた。
「………なんの冗談だい、それは」
「奴は敬虔なオードゥグ信者だぞ」
くすくすと麗春が笑った。蹄は肩をすくめた。
「狂信者だろ?」
「そうとも言うな」
加羅伊の街は混乱していた。
昨夜なんの前触れもなく発生した竜巻は、街の一部を倒壊させた。
甲高い音を何度も聞いたという証言やら、人の言い争う声や高笑いを聞いたという証言もあるが、風の音を聞きまちがえたのであろう。
輝く物体が飛んでいるのを見たという証言もあるが、プラズマであろう。
唯一の救いは死者が出なかったということだが、建物の被害は深刻であった。
幸いなことに、魔道師ギルドやオードゥグ教、カトラス商会などが街の復興に全面的な協力をしてくれていた。
オードゥグ教などは、まるでこの事態があることを予測していたかのように、神威代理執行局が、事前に大量の物資を運び込んでいたことが助けになった。
神威代理執行局は万が一を考えて、このくらいの備えを常にしているらしい。
家が倒壊してしまった人達は大いに感謝した。
建物の修復、炊き出し、住むところを失った人々の仮設住宅作りと、被災地にはオードゥグ教の教団員、魔道師ギルドの職員、カトラス商会の職員などが溢れかえっている。
オードゥグ教の教女が被災者を励ましながら食事を差し入れていた。建物を修復しているのは、魔道師ギルドの構成員だ。事情をしらない一般の者は、まさに善意から働いているのだろうが、上層部は自分達で壊しておいて、さも善意ですといわんばかりに恩を売る。
(──蹄の言葉ではないが──偽善だな)
麗春はごった返す人波を避けて街のはずれまで行った。
そこは小さな林になっていた。麗春は立ち木を背にして腰掛けた。辺りに人はおらず、麗春は溜息をついた。
麗春は──永を追いかけたくはなかった。永が久遠の護衛をしている頃、永の手並みは何度も見た。
さすがに久遠の暗殺ともなれば、狙う相手も手練を送り込んでくる。密かに魔道師ギルドの内部に入り込んでいた。他の護衛は役に立たず、殺害されるか、曲者が入り込んでいることにすら気づかない有様だ。
それを永は一人で撃退していた。
久遠が寝ているその部屋で、久遠を起こすことなく、五人もの手練を倒したことさえある。さすがに永も無傷ではなかったが、血塗れになりながらも、久遠を守りきったその姿に畏怖さえ覚えたものだ。
どうやら暗殺者というものは、独自の進入路というものを知っているらしく、何度も進入されたほかの護衛は、永に何度もそれを教えろと迫ったが、永は頑として口を割らなかった。
組織──〝裁〟の掟だったのだろう。
麗春から見れば、永も蹄も、ランバトルも同じ人間とは思えない。魔道師ギルドという後ろ盾があるからこそ、対峙していられる。
しかし、それも絶対ではない。
永を追う組織の首領が暗殺されることが何度もあった。多くは、同じ目的の組織の潰しあいだが、確実に何件かは永の仕業だった。
恐ろしい、と麗春は思う。いつでも誰かに殺されるのではないかと、神経を張り詰めている。
それでも逃げ出すわけには行かない。
魔道師ギルドの通達なのだ。組織に寄って生きるものには、組織の決定に逆らうことなど出来ない。
「なぜ、麗春が久遠を苦しめる?」
麗春は驚愕とともに立ち上がって、声の方へ振り返った。
そこに美しい死神が佇んでいた。
「永!」
「麗春、私達を追いかけるのをやめてくれないか?」
麗春は一人でここまで来たことを後悔した。剣は持っている。しかし、永を相手にそれだけでどうなるものではない──永にその気があれば──いまこの瞬間にも首が飛ぶ。
「無理だな……魔道師ギルドはおまえ達を諦めない。そして──おまえが──わたしに手をかけないと知っている。その限りわたしがはずされることはない」
魔道師ギルドは最初から麗春を追手にしていたわけではない。最初はもっと年配で複数の責任者がいたのだが、小競り合いや暗殺に次々と倒れていった。
それで永をよく知る者として、アドバイザー的な存在で麗春がチームに組み込まれた。苦肉の策であったのだ。
そのうち、永が麗春を手にかけない──むしろ、何かあれば助けると分かり、魔道師ギルドは麗春を責任者にすえた。
「……誰がその決定をした?」
静かな声に、逆に麗春の血は凍りついた。
「何を……するつもりだ……」
「頭が変われば、考え方もかわる」
つまりは──麗春を責任者に据えた──あるいはその案を支持する人間を排除──暗殺するということだ。
「ばかな! 魔道師ギルドを敵に回すつもりか!」
永は不思議そうに首をかしげた。
「すでに敵だろう?」
麗春は息を飲んだ。
確かにそうだ。ギルドは永を追いかけている。追いかけて、久遠をとりあげようとしている。永にとっては敵でしかない。
そして永は──逆襲するための牙──〝栽〟仕込みの暗殺術──を持っている。
大人しく狩られるだけの獲物ではない。
麗春は言葉をなくした──返答しだいでは、永は本当にそれをやるだろう。
答えを得られなかった永は静かに告げた。
「考えておいてくれ。久遠は最後まで麗春のことを気にかけていた。自分は麗春の足枷になってしまうと。だから──もう自由になって欲しいと言っていた」
それだけ言うと、永は立ち去った。
永の姿が見えなくなると、麗春は膝をついた。全身に汗が噴出した。身体の震えがとまらなかった。わずかな対峙の間に全ての気力を使い尽くしたようだ。
久遠がその身を永に託した理由は、薄々気がついていた──自分では久遠を護りきれない。久遠に託されていたとしても、いつか、ギルドに久遠を渡していただろう。
永ほど──強くはない。
永は──やると言えば本当にやるだろう。元々殺人を禁忌とは教えられずに育った人間だ──それだけの腕もある。
魔道師ギルドはその危険性を考えていなかったのだろうか? 現場だけで片付くと?
麗春は戦慄した。
「わたしは……どうすれば……」
永は──途方にくれていた。
「どう──しようか?」
応えは無い。
いまだ培養球の久遠は眠ったままだ。
永は自分で目標を決めることが苦手だった。
組織のための道具に、そんなものは、いらなかったからだ。
〝裁〟にいた頃は、考える必要などなかった。どこへ行き、なにをするかは組織が決めた。自分はどうすれば目的を達成できるか工夫すればいい。命令の理由も動機もなにも考えず、目的を達成することのみが、悦びだった。
今は自分で考えなければならない。
最優先は「久遠とともにあること」。そのためになにをすればいいのか?
魔道師ギルドの首脳陣を全て暗殺するのは、困難ではあるが不可能ではない。
しかし、どれだけ殺せばいいのか、見当がつかない。殺しすぎれば恨みを買う。その匙加減が難しい。永がギルドの幹部に手を出さなかったのは、いちおう久遠が所属していた組織であり、多少なりとも縁があったからだ。カトラスの紅蓮を見逃しているのも、直系になにかあればカトラス商会が本気になるからだ。その程度の判断はできる。
だが、麗春が絡んでいるとあれば仕方ない。
とりあえず、麗春を責任者に置いておく考えの幹部から殺せばいいのかも知れないが、麗春は教えてくれなかった。
そこから調べるしかないだろう。どこの誰だか分かれば、暗殺はたやすい。〝裁〟がでてくれば多少むずかしくなる。
そんなことをつらつら考えていた永は、覚えのある感覚に顔を上げた。
複数の殺気──そこまではいかなくとも悪意──と気配。それは自分に向けられたものではない。しかし、そちらの方向には──
(麗春)
人の気配に麗春が顔を上げると、いつの間にか囲まれていた。
相手は五人ほど。人相のよくない、卑しそうな男ばかりだ。武器も服装もばらばらだが、全員そろいの長い外套を肩に引っ掛けている。
麗春は立ち上がり身構えた。剣に手をかける。
「あんた、魔道師ギルドのお偉いさんなんだってなぁ」
背は低いが横幅がある男が卑しい笑いを浮かべながら言う。
「悪いが、付き合ってもらうぜ」
首領格らしい体格のいい男が言った。
「お断りだな。どこの手の者だ?」
言い返しながら、麗春は冷静に考えていた。オードゥグ教関係は真っ先に除外──オードゥグ教関係者にしては、品性がなさすぎる。彼らに共通する敬虔な信者らしき真摯さがない。ごろつきを雇う組織は、多すぎてどことは言い切れなかった。
「力ずくできてもらうぜ」
首領格の男が嬉しそうに言うと同時に、麗春は象徴音を発していた。
魔法を発動させるのには様々な手順がいるが、麗春はこれを短縮させるための術を開発していた。剣の刃には呪文の代用となる文様を刻んであり、その柄に触れ、魔法を象徴する音ひとつで魔法を使う。本来の威力よりは劣るが、長い呪文の詠唱を必要としないだけに、使い勝手がいい。
麗春の回りに火の玉がいくつも生まれ、男達に襲いかかった──だがそれは、男達が慌ててかざした外套に触れたとたん、消えうせた。
「抗魔法布か!」
魔法を無効化する呪を織り込んだ布である──高価であり、ごろつきぐらいでは手が出ない代物だ。そんなものを支給するといえば──一番可能性があるのがカトラス商会だ。
「あの、狸が!」
麗春の脳裏には、紅蓮の営業用の笑顔が浮かんだ。紅蓮は自分用の手足を持たない。情報を持っているだけだが、これがなかなか性質が悪い。必要に応じて各地の支部の人間をけしかける。
その支部の性格にもよるが、地元の利がある。なによりも、紅蓮自身にはなんのリスクもない。各支部の人間は自分の財力や人材の限りを尽くして永を捕らえようとする。全滅したとしても、それは支部のことになる。紅蓮自身の腹は痛まない。
だが、それはときに紅蓮の思惑を超えた事態を引き起こすこともある。手柄に目の眩んだ支部の人間が交渉をぶち壊してしまうこともあるのだ。
これもそうだろうと麗春は考えた。
麗春は攻撃魔法を盛大にくれてやった。降りそそぐ火の玉を男達が外套で防ぐ。布一枚で防げるとはいえ、火の玉の雨は男達をひるませた。その隙に、麗春は逃げようとした。魔法を防がれるようでは、勝ち目はない。剣を持っていても、しょせん魔道師である麗春が複数の男達に敵うはずもない。
その背を向けた瞬間、布をかぶせられた。
「ああ!」
抗魔法布をかぶせられては、魔法が発動しない。布の上から飛び掛られ、麗春は転倒した。すぐさま布ごと縛られる。こういうことに慣れているのか、男達の手際はいい。布のわずかなずれから外は見えるが、騒いでも助けは来ないだろう。
「手間、かけさせやがって」
「おっかねえ、女だぜ。抗魔法布の支給がなけりゃ、黒こげだ」
男達が忌々しげに、罵った。首領格の男が刃物を突きつけた。
「大人しくきてもらおうか。その奇麗な顔に傷をつけられたくなければな」
麗春は唇を噛んだ。
「麗春をどうするつもりだ?」
いつの間にか木立の向こうに永がいた。男達が息を飲む。
「いつの間に」
「やっちまいますか?」
「いや、待て。近づくな!」
首領格の男が手下をとめた。
「長い髪に、女みたいな顔をした優男……おまえ、永だな」
首領格の男は、永から手下の影になるように微妙に立ち位置を変えた。むろん、麗春には刃物を突きつけたままである。
永がさりげなく位置を変えようとした。
「動くな! 女が傷物になってもいいのか! 殺せなくとも、目や指の一本なら、なくなってもかまわないよな」
永の動きが止まった。
「あんたがおっかねえ、相手だってのは、聞いてるぜ。ついでに、この女を守ろうとするってのもな。女を傷物にしたくなけりゃ、剣を捨てろ。できるだけ遠くに投げるんだ」
永は溜息をひとつついて、剣をとり、鞘ごと投げた。永の位置から攻撃しようにも、手下たちが邪魔になる。それを排除する間に男は麗春を傷つけるだろう。いうことを聞いているようにみせた方がいいと判断した。
背の低い男が投げられた剣を取り上げた。
「永ってこいつがですか? へへへ、おっかねえって、強そうには見えませんがね」
「命が惜しけりゃ、近づくなよ。一人で何十人も一度に殺せる凄腕だ」
首領格の男は警戒を解かなかった。
「一緒に来てもらおうか?」
永は頷いた。
「これはこれは、麗春さん、ならびに永さん。このたびは申し訳ございません。手違いでこのようなことになってしまい、わたくしとしても、大変心苦しく思います。わたくしとしては、できうるかぎり友好的にことを進めたかったのですが、なにしろ幾人もの考えがありますと、時にこのような行き違いもございます。処遇についてはなるべく早期に改善いたしますので、御不快かと存じますが、今しばらくの御辛抱をお願いします。重ね重ね、申しますが、これはわたくしの本意ではありません」
「──しかし、好機を逃す気もない。そういうことだろう」
紅蓮の口上を麗春がさえぎった。
「そのとおりです」
永と麗春は街の外れの屋敷につれてこられた。古い大きな屋敷だが、外から見れば木々が生い茂り薄気味悪いようだが、中は意外と手入れされていた。
おそらくは、公にできない仕事のときに使用するための屋敷だろう。
その一室に押し込められたのだが、麗春は椅子に座らされ、複数の刃物を突きつけられていた。永はそこから離れた場所に立たされている。二人の間には常に何人かが壁のように立っている。永がなにかしようとしても、邪魔になるようにとの配置だろう。武器は当然取り上げられている。
「できれば、麗春さんはすぐにでも解放してさしあげたいのですが、それは我々の命に関わります。永さんとの交渉が終わるまで、申しわけございませんが、こちらにいていただきます。さて」
ここで紅蓮は永に向き直った。
「このようなことになって、大変申し訳ございません。しかし、我々の調査によれば、まだモノは魔道師ギルドに渡っていなかったようですね。あなたが所持しておられる。どうでしょう、譲っていただけませんか? 我々カトラス商会は、その技術に興味があります。その代償として、我々は久遠さんを人間として認めるように働きかけますし、あなたと久遠さんが一緒にいられるようにいたします。もちろん、一生遊んで暮らせるほどの金銭もお渡ししますよ。そうですね、手付けとして──ぐらいでは?」
ここで紅蓮が口にした金額に、麗春と永を除く全員が目を剥いた。あまりにも莫大なものだが、それの価値を知る者なら、当然な額と思うだろう。
「魔法生物が孵化──というのも、おかしな表現ですが──した後、それが紛れもなく久遠さんであり、その技術を我々が獲得した後で、またそれに見合った金額をお支払いいたします。あなたの望みは、久遠さんと共にあることです。それがカトラス商会の保護下に入るというだけではありませんか。悪くない話だと思いますが、いかがでしょう」
「ことわる」
即決で永が断った。
「多少でも考慮の余地はないのでしょうか? この先、なんらかの援助はどうしても必要ではないかと、思うのですか?」
「久遠の意思だ」
永の応えは迷いがなかった。
久遠は自由になりたいと言っていたのだ。保護といえば聞こえはいいが、閉じ込めて監視するということだ。それは久遠の意思に反する。最初から考慮するに値しない。
「──では、仕方ありませんね。しばらく、この屋敷にとどまっていただきましょう。服を脱いでいただけますか?」
突然の申し出に、むしろ屋敷の男達の方が驚いた。
永は素直に上着を脱いだ。抵抗しても意味がない。
「服を手の届かないところにゆっくりと投げてください。そこのあなた、持ってきてください」
永は軽く手の届かないところに服を投げた。服はいやに重い音を立てた。紅蓮に言われた男が拾って届けたが、紅蓮はあくまでも永に近づこうとしなかった。
紅蓮が服のあちこちを探ると、小さな刃物や暗器、なにに使うか分からない小さな道具が出てきた。
永を囲んでいた男達に動揺が走った。丸腰だと思い込んでいた男は、実は武器を大量に隠し持っていたのだ。それを知らず、気安くそばにいた。実はいつ喉をかき切られても不思議ではなかったと知り、男達は思わず身を引いた。
「下もお願いします」
ズボンも脱いで同じように放る。
紅蓮が探るとやはり布の折り返しや、あちこちから色々出てきた。
「それもです」
下着一枚になった永に、さらに脱ぐように命じる。
永が一瞬、麗春の方に視線を走らせる。もちろん、紅蓮はそれに気がついた。
「ああ、これは配慮が足りませんでしたね。誰か、麗春さんを別室に。鄭重にあつかってくださいよ」
麗春についていた男が麗春を立たせた。
「おまえが、そういう趣味とは知らなかったな」
氷より冷たい麗春の一言に、紅蓮の笑顔が凍りついた。
「とんでもない! わたくしには、そちらの方の趣味はありません。わたくしは妙齢の女性の方が好みです。あ、いえ女性にこのような真似はいたしません。わたくしは紳士ですから。これは、あくまで保険です」
「どうだか」
必死に弁解する紅蓮に麗春は冷たく言い捨てた。
「れ……れい……しゅん……さん」
紅蓮がよろけた。その顔は直視するのが憚られるほど強張っていた。
打ちのめされた紅蓮を尻目に、麗春は先導するはずの男に先んじて部屋を出た。その一瞬に微かに笑みを浮かべたことに気づいた者は、ほとんどいなかった。
無言で一部始終を見ていた永は知っていた。麗春がそのような誤解をするような知性の持ち主ではないことを。分かっていてやった意趣返しだろうが、それをわざわざ教える必要を感じなかった。
冷たい言葉に打ちのめされた紅蓮は、それでも当初の目的を忘れなかった。
「服を脱いでください……女性は別室に行きましたので。ですが、異変があればどうなるか、分かりますよね」
永は従ったが、さすがにそれからはなにも出てこなかった。
「髪もほどいてください」
「……本当にそういう趣味ではないだろうな?」
「違います! わたくしは異性愛者です。ええ、どんな神にも誓えるほど、まっとうな異性愛者ですとも!」
声は半分泣いていた。しかし、前言を撤回する気はなさそうだった。
永はあきらめて髪をほどいた。髪から小さな金属片が転がり落ちた。
紅蓮が探ると、髪紐から細い金属の糸が出てきた。小さな山を作る隠し武器に、紅蓮が溜息をついた。
「ここまでしないと、武装解除もできないのですか?」
「不足だな。四肢を切り落とし、首を刎ねるがいい」
そこまでしなければ無力化したことにはならないと本人が言う。事実、麗春がしたのがそれに近い。〝裁〟の暗殺者が無害になるのは死体になったときだけだ。
紅蓮が苦笑いを浮かべた。
「分かっていますよ。その四肢──魔法義肢は武器になりますし、あなたは素手でも人が殺せる。無力化するには殺すしかない。生きた兵器。そういうものです」
永の身体の大半は、負傷により魔法義肢と交換されているはずだが、不自然なところは何もなかった。引き締まった長身はしなやかで、均整が取れている。それが久遠の作品というのなら、久遠の美意識は確かだ。彫像のように形よく、作り物であるはずの義肢にさえ血が通っているような色合いを見せる。本来の肉体と、義肢であるはずの部分の区別がつかない。
何も知らなければ、ただ美しいだけの肉体にしか見えない。
「あなたに手を出させない唯一の方法は、その気にさせないことです。いくら技術を持っていても、それを使う気にならなければいい。我々が今生きていられるのは、麗春さんがいるからです。あなた一人なら、なんとでも切り抜けられる。しかし、これだけの人数では、麗春さんに不慮の事故が起きるかもしれない。あなたは麗春さんに危害が及ぶことを恐れている。それだけが、あなたを縛り、我々を永らえさせています。ですから、麗春さんを今お返しすることはできません」
紅蓮が大きく息をついた。
「正直、不本意なのですよ。我々とて魔道師ギルドと事をかまえる気はありません。しかしあなたが手中にいる限り開放できない。手詰まりもいいところです。こんな綱渡りの状態は。どうかたをつけたらよいものか……気は変わりませんか?」
永は返事をしなかった。それは言葉にするまでもないことだからだ。
しばらく返事を待っていた紅蓮は、軽く肩をすくめた。
「では仕方ありませんね。新しい衣服を持ってこさせますので、着替えていただきます。その後、お部屋の方へ案内させますので、大人しくしていただきます」
永を監禁場所へ連れて行かせたあと、部屋を出た紅蓮は大きく息をはき、壁にもたれかかった。
紅蓮にとっても元〝裁〟の一人となんの障害もなく顔をあわせることは、肉を食う猛獣と同じ部屋にいたのに等しい。交渉相手に最初から脅えているところを見せるのは、商人として失格である。平気なふりをしていたが、やはり疲れきってしまった。
そんな紅蓮の様子にも気づかず、香昌が話しかけた。
「なぜ、品物を奪わなかったのですかな? 手の内に囲い込んでしまえば、どうにでもできるでしょう?」
「永さんは品物を所持していませんでしたよ。それよりも香昌さん、麗春さんをさらうとは、どういうおつもりですか?」
紅蓮にしては珍しく苛立ちがこもっている。しかし、付き合いのない香昌にはそれが分からなかった。
「あの時点では、魔道師ギルドに品物が渡ったと思われていましたからな。責任者を捕らえれば──」
「魔道師ギルドが麗春さんと引き換えに品物を渡すとでも?」
紅蓮がはっきりとした嘲笑を浮かべた。
「断言しますが、それはありえません。確かに麗春さんも重要な人物でしょうが、格が違いますね。『久遠』と麗春さんならば、魔道師ギルドは一瞬の躊躇もなく『久遠』をとるでしょう。あなたのしたことは、ただ魔道師ギルドに喧嘩を売っただけです。構成員──それも幹部クラスの人間に手を出しておいて、魔道師ギルドが放っておくと思いますか? 我々が築いてきた関係をぶち壊すおつもりですか? 麗春さんだけならば、お詫びの品とともにすぐにでも魔道師ギルドにお返ししたいところですよ」
自分のやり方を非難された香昌が不機嫌そうに顔をゆがめた。
「そう思われるならば、そうしたらいかがですかな?」
「死にたいのですか? あなた」
嘲笑と怒気をブレンドした笑みを張り付かせた紅蓮は憤りの元をぶちまけた。
「永を手元に置くことが、どれだけ危険かわからないのですか? 永が大人しくしているのは、麗春さんの存在が彼を縛っているからです。それがなくなれば、彼は我々を殲滅し、悠々と無人の屋敷から出て行くでしょう。返したくとも、返せない! 我々の命をつないでいるのが麗春さんだけです。しかし、このままでは魔道師ギルドとの関係悪化は免れません。この始末をどうつけるおつもりですか?」
「過大評価しているのではありませんかな? 見たところ、ただの優男にしか見えませんが。わたくしならば、品物をさっさと奪い、麗春とかいう小娘をギルドに送り返しますがね」
「──あなたは御存じない。あの男がどれだけ危険か! その優男が、魔道師ギルドやオードゥグ教、我々カトラス商会の追っ手を振り切りあまたの組織を殲滅してきたのですよ」
非難しながらも、紅蓮は心理的に香昌を見捨てた。どれだけ言葉をつくそうと、この男が永の真価に気づくことはないだろう。美女もかくやという美貌に目を曇らせ、侮っている。この男が永の実力を目にするときは、死ぬときだろう。
「考えすぎと思いますがね。組織が潰されたり手を出し辛かったのは、互いに牽制しあっていたためでしょう。魔道師ギルドへはかっこうの押さえができましたし、オードゥグへの押さえも手に入れました。後はあの男を締め上げてさっさと品物を──」
「──今なんとおっしゃいました?」
全ての表情が紅蓮の顔から消えていた。
「ですから、永を締め上げて──」
「──そこではありません。オードゥグへの押さえとおっしゃいましたよね? まさか、麗春さんにしたように、オードゥグ教の信者を、拉致監禁したというのではないでしょうね?」
「そのとおりですが、それがなにか?」
香昌が当たり前のように口にした言葉に、紅蓮は打ちのめされた。その場に膝をつき、両手をついて身体を支える。
「ああ、あなたはなんということを! ここにランバトルさんが来ているというのに!」
紅蓮は真っ青になり、最善の策を考えた。
(来る……あの男が来る……最悪の選択だ。もうこの支部はおしまいだ。しかし、他に飛び火するのは抑えなければ。ダメージを最小限にするには……)
紅蓮が答えをはじき出すのにかかった時間はわずかだった。弾かれたように立ち上がり、香昌に向き直った。
「わたくしは、魔道師ギルドとオードゥグ教への根回しをしなければなりません。すぐに采賀へ向かいます。後のことは香昌さんにお任せしますが、くれぐれも麗春さんとその信者の方を傷つけるような真似はしないでください」
「そうですか、それは残念です。品物は必ずや手に入れてみせましょう」
香昌は、表面上は残念そうに言ったが、内心では快哉を叫んでいた。これで手柄は独り占めだと。
「では、これで失礼いたします」
紅蓮には香昌の思惑など手に取るように分かったが、むしろ心の中で香昌を哀れんだ。それはあり得ない。紅蓮の中ではすでにこの支部はなくなったも同然だった。
紅蓮は加羅伊の支部がなくなったあとの対処をするために、一番近くの支部に行くのである。
今はなにより、ここを放れるのが先決だった。沈む船に残る鼠はいないのである。
だが、その紅蓮にしろ、舞台裏で動き回るもう一人の登場人物には気づかなかった。
その人物によりカタルシスは早まり、結局のところ紅蓮はわずかな時間の差で死神の手を逃れたのである。