百鬼夜行
百鬼夜行
その場には、いくつもの死体が転がっていた。あまりにも凄惨な状態に、顔を背けるものも少なくない。いまさら死体の一つや二つに動じるものはいないが、あまりにも凄惨な殺され方をしている。
「これは永の仕業ではないな」
ランバトルは死体のいくつかを検めて言った。
「しかし、永を追っていた者達です。永に倒されたと考えた方が自然かと……」
副官が口を出すが、ランバトルは冷静に否定した。
「永の手口にしては、おかしい。そちらの一撃で倒されている者は、間違いなく永の手口だが、これはあまりにも違いすぎる。永の手口は一撃必殺、余分な手間はかけない」
死体は全部で二十二体。そのうちの九体は致命的な一撃で命を奪われていたが──残りの十三体は文字通りバラバラにされていた。首、腕、足、胴体など、数箇所にわたって輪切りにされている。切られた胴体からは内臓がこぼれ落ち、臭気を放っていた。それが血臭と交じり合い、耐え難い臭気となっている。二体のゴロツキもそうだが、執行官も聖衣を避けた部分をきれいに斬られていた。
「我々執行官すら倒すものが、永の他にもいると?」
「そのようだ。ここまで切り刻むとは、容易ならざる相手だ。しかし──我々が急行していたというのに、これほど時間がかかる虐殺を許すとは……」
ランバトルは大きな間違いを犯していた。しかし、誰が信じるだろう、これだけの惨劇が一瞬にして行われたなどとは。
やがてランバトルは一人一人の名前を唱え、死者を送る祈りを捧げた。やがて全員が唱和する。
「一足先に神の身元へ逝くいい。神はそなた達の献身を忘れはせぬ……そなたたちの信仰、しかと見せてもらったぞ」
きっと、ランバトルは顔を上げた。
「永を探せ。紅蓮と麗春もこの街に来ているとの情報もある。魔道師ギルドとカトラス商会の動きにも気をつけよ。よもやとは思うが……これだけの手練だ、永を捕らえた可能性もある」
「はっ! 直ちに」
誰かが泣いていた。
あれは……久遠だ……左腕を失ったときの……病室で……
その時の刺客はかなりの手練だった。全ての武器を失っていたため左腕を犠牲にして、刃を受け止め、貫手で喉を抉って、何とか仕留めたものの、ギルド内で治療を受けるはめになった。
左腕は切断するしかなく、そのとき見舞いに来ていた久遠がベッドの横で泣いていた。
不思議な気分だった。依頼を果たすためなら、腕の一本や二本は仕方ない。それだけの強敵だったのだ。それよりも役目をまっとうできたのだから、悔いはない。
それなのに久遠は泣くのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、永……わたしのためにこんな……」
自分の身を案じる者がいるというのは、どうもおかしなものだ。〝裁〟の者なら、永の身を案じるのではなく、優秀な道具が使えなくなるかもしれないと憂いるだけだ。たとえ永が死んでも〝裁〟の者は誰も悲しまない。ただ、優秀な道具が一つ失われたことを嘆くだけだ。
久遠のそれが、それとは違うことが分かるから、永は戸惑う。
「役目です……それよりも、あなたが無事でよかった」
無くしてしまったものは、仕方ない。
「久遠、大丈夫よ。不幸中の幸いと言ってはなんだけど、永は魔法義肢が使える体質だったのよ。すぐ不自由もなくなるわ」
永のためというより、久遠の嘆きをとめるため、麗春が優しく告げた。
「本当、姉さま。永は元通りになるの」
涙をためた久遠が麗春を振り返った。
「ええ。だから、そんなに泣かないで。体に障るわ。永の魔法義肢はすぐに造らせるわ」
「わたしが造るわ。永がこんなことになったのは、わたしのせいだもの」
そうして久遠は永のため特別な魔法義肢を作り上げた。
それが最初。
それから何度も永は負傷した。
そのたび久遠は永のために泣き、永のための魔法義肢を作った。
そして永は久遠のために同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫です。久遠。またすぐあなたのために戦える。だから、泣かないでください」
「だい……久遠………また………える……」
「うなされてるみたいですぜ」
「仕方あるまい。再生の苦痛はかなりのものらしいからな」
魔道師ギルドの一室。そこに永は横たえられていた。
斬りおとされた腕や脚は再生の途中であった。切り口から巨大な芋虫か触手のようなものが伸び、そこだけが別の生き物のようにうねっている。
「……あんまし、見場のするもんでもないなあ……苦しんでる旦那は妙に色っぽいんだけどよ」
「……そういう趣味なのか?」
「全然。女一筋ですぜ。そっちの方は」
「そういうことにしておこう」
永は苦痛のあまり意識を失い、過去の記憶の中に意識を飛ばしている。
それだけの苦痛だということだ。
「……これって永のためだけの特注品だろ?……なんで、魔道師ギルドがその欠陥に気づいたんだい?」
麗春が苦い顔をした。
「特注品でも、その資料は残っている。再現……いや、まったく同じものを作ろうと思えば作れる」
蹄は口の端に人の悪い笑みを浮かべた。
「作ったんだ……それでどうした? 誰に何の目的で作ったのか知りたいなあ」
麗春が眉をひそめた。
「……分かっているだろう、貴様……」
「多分ね。旦那の性能を確かめようとしたのかい?」
「……永を追わせるために、魔法義肢を仕える体質のものに試した……結果ははかばかしいものではなかったが、同時に欠点も分かった」
「道具は使う人間次第だからな……そいつはどうなった?」
長い沈黙の後、麗春は答えた。
「死んだ。永と違って、そいつには耐えられなかった。苦痛から逃れるために、自ら命を絶った」
「怖いねえ……人体実験って言うんだぜ、それ」
くすくすと蹄が笑った。怖い怖いといいながら、むしろ嘲るような笑い方だ。蹄が話題を変えた。
「品物を持っていなかったんですけど、どうしやす?」
永は蹄の手によって検査されていた。大量の武器は取り上げたものの(あまりの数に蹄は思わず歩く武器庫と呼んだ)目当ての魔道生物は発見できなかった。
「いま、宿を当たらせている」
永の外見は目立ちすぎる。一度でもその姿を見たものは忘れないだろう。宿をしらみつぶしに当たっていけば、泊まっていた所はすぐに分かる。
永が持ち歩いていないとなれば、麗春にはそこしか思い当たらなかった。
「宿なんて、そんな目立つ所に隠すかねえ」
「そこにはないと?」
「こいつも玄人だ。大切なもんを宿なんぞにおいてあるわけがない。どこかに隠してあったら、見分けられんぜ」
持ち物の中にないと分かれば、すぐさま捜索される宿の部屋などに置いてあるはずがないと蹄は主張した。宿の部屋など盗難の恐れもあるからだ。
「ではどこに?」
「……さあね。どっかの地面に埋めてあるか、どっかの家の屋根裏床下、石畳を剥ぎ取って下に穴を作って隠し場所を作る──考えればきりがない。玄人ってのは、そういうもんだ。自分にしか分からんように隠したとしたら……どうしやす?」
麗春は少し考え込んだ。
「物に触れることで過去の記憶を読める術を使える者がいる。手配してもらおう」
「尋問は? 本人に聞くのが一番手っ取り早いと思うけどね。」
「無用だ。〝裁〟の者が尋問に屈すると思うか? なによりも、まともになった永など、恐ろしくて近寄りたくもないな」
「同感。馬鹿なことをいいました」
蹄は自分の失言に舌を出した。不意打ちならともかく、真っ向勝負は遠慮したい。
「ある程度再生が進んだら、また斬ってもらうぞ。正気になられたら、この程度の牢屋は空き部屋も同然だ」
「はいはい」
部屋の外から、ノックの音がした。
「麗春様、おいでですか?」
「なんだ?」
「カトラス商会からの使者だという方が、面会を求めています。紅蓮と名乗っていますが、いかがしましょう」
麗春は舌打ちした。
「奴か。早々に来るとはな」
「どうなさいます」
麗春は溜息をついた。
「カトラス商会を軽視するわけにはいかん。会うが……少々時間がかかると、言っておけ。それでもいいなら会うとな」
「はい。そのように」
役員は頭を下げて戻っていった。
「奴って? 顔馴染みかい?」
「紅蓮──カトラス商会の創始者の直系の一人だ」
カトラス商会──大陸全土に支店を持つ巨大な会社である。
その特徴は、ゆりかごから棺桶までというほど、幅広い品揃えを誇っている。魔法技術も取引する品物の一つで、自社開発にも余念がない。
ある意味魔道師ギルドの競争相手でもあるが、ギルドに対する資金提供もし、魔法技術の共同開発を行うこともある。
商社でありながら、各国にも顔が効く。なぜならば、財力、武力など、その実力は軽く一国を超えるからだ。彼らがその気になれば、小国の一つや二つ、日干しにできる。
紅蓮はその中枢を担う一族の一人であった。
「どこからか、例の品物のことを嗅ぎつけてくる奴が多くてな……紅蓮は数少ない最初の頃からの追手の一人だ」
麗春は溜息をついた。蹄は別のことに気づいてしまった。
「数少ない?」
「……そう、嗅ぎつけた組織は多い。それこそ一時は雲霞のごとく沸いて出たものだ」
「……聞くの、ものすげー嫌なんだけど……なんで過去形なわけ」
「大抵の組織はすぐ手を引いた。壊滅させられた組織もある………」
「……旦那がやったわけ………」
麗春は少し考えるようだった。改めて言葉を選ぶ。
「そういう組織もあるが……それだけではないな。追いかけてる組織同士が潰しあったこともある」
とても嫌なことを聞いてしまった、と蹄は思った。麗春の口ぶりは、何かを隠している。
「……何を隠してるんだい? 正直に言ってもらわなきゃ、こっちが困るぜ」
麗春はもの凄く嫌そうな顔をした。それでも言っておくべきだと判断したのだろう、重い口を開いた。
「永を追いかけている者も様々だということだ。紅蓮のカトラス商会と、オードゥグ教の神威代理執行官、この二つは特に我々と同じ時期から追いかけて──担当員が生き残っている数少ない組織だ」
生き残っているという言い方が、凄く嫌だった。それだけ命がけだということだ。
「まあ、その二つは、俺にも納得できるれどねえ」
カトラス商会もオードゥグ教も魔法関係には馴染みの顔ぶれだ。特に魔法生物がらみとあっては、オードゥグ教は必ず出てくる。
その目的は、抹殺だろう。
「蹄、おまえも来い。荒事になるとは思わないが……保険だ」
「はいはい、仰せのままに」
麗春は紅蓮との会談に臨むべく部屋を出た。蹄も後に続き、閉ざされたドアにはすぐに鍵がかけられる。
しかし──このとき紅蓮が来なければ──麗春が部屋を出るのがもう少し遅ければ、彼らは望みのものを手にすることができただろう。はだけた永の衣服、腹部の辺りから光が漏れた。縦一直線にそれが広がり──永の腹部から培養球が転がり落ちた。
永は腹部の一部を魔法義肢(目や臓器の類も習慣的にそう呼ぶ)で補っていた。その一部を変形させそこに隠していたのであった。
その培養球の中には、人形の魔法生物がいた。灰色の長い髪を水中に広げ、愛らしい少女の姿をしたそれの背には、透明な蜻蛉の翅がついていた。瞳を閉じたままのそれは目覚めのときを静かに待っていた。目覚めるときはまだ先だ。
今無理にそこから出れば、それは生まれることさえ叶わない。だから静かに眠っている。目覚めるときを夢見ながら。
それでも外の様子がまったく分からないわけではないのだろう。
もし、その培養球の中が液体で満たされていなければ、閉じられた瞳から涙を流しているのが分かっただろう。
それは泣いていた。
愛するものの苦しみを感じ取り、誰にも気づかれずにただ一人静かに泣いていた。
「姉さまに言われたの」
きっぱりと、不思議そうな顔をした久遠は言い切った。
その瞬間、永の頭の中は白紙になった。
麗春からの依頼で久遠に告白したのは本当だ。久遠が永に好意を持っていることに気づいていた麗春が、先のない久遠のため、少しの間だけ、久遠を愛しているふりをして欲しいと、夢を見させてやってくれと、依頼されたのだ。
依頼自体はたいしたことではない。
優しくして、耳に心地よい言葉を並べれば良いだけだ。
場合によっては寝室をともにすればいい。もっとも、それだけは体に負担がかかるからだろうが、麗春にあらかじめ禁じられている。
〝裁〟の一部がよくやる手だ。
相手の寵愛を得て懐に入り込み、『仕事』をする。
問題は、永がその手の教育を受けていないことだろう。そちらの玄人には及ばないものの、人並みに演技くらいはできるだろうと了承したのだが、初っ端から見切られようとは。
しかし、真実を言うのは不味いだろう。
こうした場合、どうすればいいのか、永は教育を受けてはいないが、貧しい知識を総動員して考えた。
「いいえ、久遠。そうではありません」
「いいのよ、嘘つかなくても。気にしていないから」
久遠は満面の笑顔で言い切った。
……これは、どう判断するべきだろうか?
永は戸惑った。
久遠が不愉快になるとばかり思っていたからだ。
それを宥めることばかり考えていたのに、上機嫌で笑われてしまったら、この先どうするべきか、永には即座に考えられない。
「永みたいに、奇麗な人と付き合えるなら、経過なんか気にしないわ。姉さまに感謝しなきゃ」
普通、気にするのではないだろうか?
想像を超える事態に、永はなにをしてよいのか分からなくなった。
(女心は分からない……修行不足ということか……久遠が喜んでいるのなら……依頼は果たせていると思っていいんだろうな……)
永はそう判断した。
久遠は瞳を輝かせて、永に言った。
「ねえ、永。抱いて」
それは麗春に禁じられている。正直に告げるべきか、適当にごまかすべきか、永は迷った。どちらの方が、久遠の機嫌を損ねないのだろうか?
もはや永には予測できない。
「抱き上げてって、言った方が分かりやすかった?」
くすくすと笑う久遠の表情を見れば、わざと間違えるように言ったのだと分かる。
永は安堵した。禁止事項を守れる。
「失礼します」
永は久遠を横抱きに持ち上げた。
久遠は──同じ年頃の少女に比べ、異様に軽かった。
「素敵、素敵。こういう風に、抱き上げてもらうのが、夢だったの」
抱き上げられた久遠はご満悦だった。はしゃぐ久遠は先ほど悪戯を仕掛けたとは思えないほど無邪気だった。
久遠はいつも自分の足代わりになる魔法生物の上に座っていた。久遠の軟弱な脚は、その軽すぎる体重さえ支えきれない。
そのために作られた特別製の魔法生物。魔法を付与してあり、わずかに浮き上がって自走する。
久遠の回りには、そうした久遠を助けるための魔法生物がいくつも作られていた。
魔法生物は久遠が生活していくのに必要だった。
間近で永の端正な顔を見た久遠は溜息をついた。
「永は本当に奇麗ね」
他愛のない率直な感想だったのだろうが、永はわずかに顔をこわばらせた。それは本当にわずかで、熟れないものなら永が表情を変えたことさえ気づかなかっただろう。
しかし、久遠はあっさり気づいた。
「奇麗って言われること、嫌いなの?」
「……使い道がありません」
これだけならば、何の意味かよく分からないだろう。
永は暗殺組織〝裁〟の人間だ。
生まれはよく分からない。
〝裁〟の人間が任務のさい、情を通じたときにできた子供か、組織が買ったか、浚ったかした子供なのだろう。組織の人間は大体そうだ。それはたいしたことではない。
永は〝裁〟によって育てられ、教育された。子供の頃、〝裁〟の人間は名前を持たない。大体、身体的特徴からあだ名がつけられる。
男も女も分け隔てなく、それとは知られずに暗殺者の修行を受けさせられる。最初、それは遊びを模しているので誰も気づかない。
様々な知識と修練。その中でゆっくりとふるいにかけられる。
荒事に向いた者。
暗殺の手はずを整える者。
相手を信用させて懐に飛び込んでから仕事をする者。
里に居つき、仕事に必要な道具を生産する者。
そして──何の役にも立たないと判断された者。
最後の者だけは、他の者の教材にされる。現場に立つ前に、教えられた技の効果を試すのに使われる。人の命を絶つ技術のだ。
やがて一人前とみなされた者だけに名前が与えられる。
永は、飛びぬけて優秀だった。そのため荒事に回されたが、もう少し技量がなかったら、相手に取り入る方に回されただろう。
永の顔を見るたびに指導者たちは溜息をついたものだ。
女に生まれていたら、一人で何人分もの働きをしただろうと。
男でもそういう趣味の者を引っ掛ける役割をするものがいるが、永の腕はそちらに回すのが勿体無いほどのものだった。
そうすると、自然と永の容姿は生かされなくなる。もったいないにもほどがある、とよく言われたものだ。
幸い、永にはすぐ久遠の護衛という仕事が来た。手練でなければ困るが、護衛対象を怯えさせても困るという依頼だ。
手練でありながら、護衛対象を怯えさせない──この依頼に〝裁〟は久遠と歳が近く、美貌の永をつけた。腕は間違いなく、間違っても警戒させない外見だという理由で──様々な事情で永はここにいる。
「? それって女の人だったら使い道があるってこと? そうね──たとえば、目標を悩殺しといて二人っきりでお話がしたいわ、とか呼び出して暗殺するとか、取り入って妾とかになってじわじわ毒をもって病気に見せかけて暗殺するとか?」
「……」
聡いのも考えものだ、と永は思った。
久遠の言った手口は、〝裁〟で実際に使われている。とはいえ、少し考えれば誰でもわかることなので、わざわざ口を封じなくともかまわないだろう。
何よりも久遠は最重要護衛対象だ。この程度のことで害してよいはずはない。
「ねえ、この近くにお花がたくさん咲いている場所があるんですって。行ってみたいわ。きれいな鳥の声も聞こえるそうよ」
「……申し訳ありません、久遠。外出は許可できません。体に障ります。花はわたしが取ってまいりましょう。鳥も、奇麗な声で鳴くものを手配します」
久遠は悲しそうな顔をした。
「違うわ、永。そういうことではないの」
「……分かっています。けれど久遠、私にはそれしかできません」
久遠は笑った。笑いながら、瞳に涙をためている。
「神様は意地悪ね。わたしからいろんな物をとりあげて、代わりに才能だけを与えて……それで帳尻を合わせたつもりなのかしら。もうすぐくる死を、必死に引き伸ばしているだけ」
久遠の一生はそう長くはない。
魔法薬でもたせてはいるが、じわじわと死の影が忍び寄っている。
神は久遠に才能を与えたのかもしれないが、代わりに、ごく普通の幸せをことごとく奪っていった。
「わたしの足は、立つことさえできないのよ。立って外に出る。ただそれだけのことが、わたしには出来ない……悔しい……こんなわたしのどこが恵まれているというの……」
久遠の嘆きを聞きながら──永は無力感に襲われた。
人の命を奪う方法なら、いくらでも知っている。
怪我をしたときや、病の治し方なら、そこいらの医者と同じ程度の知識はある。
それでも──久遠には何もしてやれない。
本職の──永より遥かに優れた医者でさえ久遠の体は治せない。
いつか来るその日を引き伸ばしているだけだ。
──自分は何も出来ない──久遠の涙をとめる術も知らない──ただこうして、ささやかな希望を叶えるだけ──
あまりにも軽すぎる久遠の重みに、永はただ途方にくれた。
「これは、これは、麗春さん。このたびは私どものために時間を割いていただき光栄です。ご無沙汰しておりましたが、わたくし、このたびカトラス商会の代表としてまいりました。私どもカトラス商会は、魔術師ギルドとの友好な関係を重視しております。この訪問も、決して魔術師ギルドに仇なすものではないとご理解いただきたいと思っております。わたくし個人としてもその方針は守っているつもりです。麗春さんとも個人的な友誼を結びたいと常々考えておりますしだいで。
麗春さんは相変わらずお美しい。しかし、若く美しい女性がそのように武装するのは、いかがなものかと。いえ、似合っていないわけではありませんが、麗春さんならば、我がカトラス商会の取り扱っております最高級の絹のドレスこそ、相応しいかと。後で贈らせていただきます。貴女のように美しい方が着飾らないなど、以ての外です。まして、そのように美しい髪を切ってしまわれるなど、犯罪にも等しい行為ですとも。よろしければ、鬘なども贈りましょう。もちろん、飾りの細工物や靴なども最高級のものを贈らせていただきます。よろしければ、流行の形に結い上げてみませんか? 貴女には最高級の装いこそ、相応しい。その後は食事になど招待させていただきたく存じます」
「──話の途中ですまないが」
「何でしょう」
たとえ話の腰を折られても、紅蓮の愛想は全開だった。特上の笑顔で麗春に問い返す。
「この社交辞令はいつ終わるんだ?」
「麗春さん……」
さすがに少し寂しそうな顔をした紅蓮だった。
会見には支部の一室が使われた。麗春が椅子に座ったとたん、紅蓮の長話が始まったのだが、これも挨拶のひとつと麗春は割り切っていた。ほうっておくと、いつ本題に入るのか、見当がつかない。交渉にしろ、商人である相手のペースに乗せられるのは、不利だと経験で分かっている。
「わたしも忙しい。さっさと本題に入ってもらいたい」
取り付く島もない麗春の様子に、紅蓮は一度咳払いをした。しかし、営業用の笑顔に曇りはない。さすがの商売人根性である。
「この度はめでたく望みのものを手に入れられたとか。おめでとうございます」
「知らないな、何のことだ」
「貴女が二年も追いかけていたものです。我々も欲しかったのですが、貴女の手に渡ったのなら、しかたありません」
「わたしは何も手にしていない。どの間者だ、そんなデマを流したのは。いったい、カトラス商会はどれだけの諜報員を魔道師ギルドに入り込ませている?」
この問いに紅蓮は全開の笑みで答えた。
「魔道師ギルドがカトラス商会に忍び込ませたのと同じくらいだと思います」
「では、一人もいないな」
「さようです」
相手の言葉が真っ赤な嘘だと知り尽くした、いかにも空々しく、寒い一幕であった。
「我がカトラス商会は、魔道師ギルドが進めるであろうプロジェクトに出資したいと思っております。つきましては、その権利についてご相談いたしたく──」
「──プロジェクトとは、どの計画のことだ? 魔道師ギルドでは常にいくつもの計画が同時進行している」
カトラス商会が魔道師ギルドに出資することはよくある。そうして開発された技術はカトラス商会にも権利があり、共同開発技術としてカトラス商会も扱うことが許される。
「これは失礼いたしました。我々が出資いたしたいのは、不老不死の研究です」
「魔道師ギルドではそのような計画はされていない。デマだろう」
「では──魔法生物に意識を移し変える技術──といえば、お分かりになりますか?」
さすがに麗春は眉一つ動かさなかったが、反応が遅れた。
「そんな技術があるとでも? わたしも初耳だ」
「お惚けにならなくとも、けっこうです。わたくしもこれが、あの、久遠の研究でなければ、一笑にふしていたことでしょう。けれど──あの久遠なら──それまで巨大な部屋ひとつ分もの大きさであった魔法動力発生器を、掌に乗るほど軽量小型化し──魔法義肢を感覚まで伝えるほど進歩させ臓器や器官の代用品まで造り上げ──魔法生物の生体部分に魔法を付与するなどという──奇跡の天才久遠、貴女の妹君ならば、不可能も可能にしたとしてもおかしくありません」
紅蓮は舞台俳優のように朗々と語りかけた。それはカトラス商会が永を追いかける理由でもある。
「麗春さん、貴女は若く美しく、才能に溢れていらっしゃる。疑問の余地もないほど、すばらしい方です。ですが、この世の中でどれだけの人間が自分に満足しているか分かりますか。いつまでも、若くありたい。もっと美しくなりたい。逞しくなりたい。人の欲は限りがありませんな。わたくしどもは、そのような方を顧客に持っております。どのような体でも思いのままとあれば、どれだけの方がそれを望むのか──魔法義肢のように体質で使えない方がいるとしても、かなりの需要が見込めます」
魔法生物に意識を移せる──即ち理想の体を作り、そこに意識を移せるとなったら、自分の体に不満を持っている人間はそれを望むだろう。
カトラス商会が求めていたのは、その技術だった。丸ごと手にするのが無理ならば、少しでも権利に食い込もうとする。
だが、そうなると魔道師ギルドでも散々議論されたある問題が浮上する。
「──だが、それは人といえるのか?」
魔道師ギルドでは、それを人間として認めなかった。人間を原料とした魔法生物として認知したのだ。
「それを決めるのは、貴女ではありません」
紅蓮は初めて狡猾な素顔を垣間見せた。
麗春は軽く眉をひそめた。なぜ、永に言われたことを、この男に言われなければならないのかと。
「わたくしどもの顧客には黒を白といえる権力者が何人もおられます。あの方々が人だと言えば、人になります。真実はどうでもよろしい。世間に認知させればよいのです」
王侯貴族を顧客に持つカトラス商会だからこそ、言えることだった。確かに、カトラス商会が働きかければ、魔道師ギルドの決定さえ覆せるだろう。
「なるほど──だが、魔道師ギルドはそのような研究をする予定は今の所ない」
「さようですか──ですが、覚えておいてください。我々カトラス商会はそのプロジェクトにいつでも出資いたします」
「そうか、そういえば由々しき噂を聞いた」
「何でしょう?」
「カトラス商会の者が、ある人物が持っていたものを欲しがり、取引を持ちかけた。ところが件の人物がどうあっても取引に応じない。そこで力ずくでその品物をとりあげようとしているというのだ。デマか?」
「デマです」
紅蓮は即座に笑顔で応じた。
「商売は信用が第一です。力ずくなど、商売とは言えません」
その力ずくをすでに何度も実行している身で、飄々と言い切る。
どこまでも面の皮の厚い、と麗春は心の中で罵った。
「それは結構。取引相手がいきなり強盗に早代わりするのでは、恐ろしくて商売をしようという気も起きなくなるからな」
「その通りです。そのような噂は商売敵が流したのでしょう」
どこまでも白々しい嘘を爽やかに言い切る紅蓮だった。
(この、ど狸が)
麗春は心の中で紅蓮を罵ったが、表面上は穏やかに会見を終えた。
会見を終えると、すぐさま別の用件が入った。
部屋を出たとたん、支部員の一人が耳打ちした。
「オードゥグ教のフランチス枢機卿が、通信での会見を求めておりますが」
麗春は舌打ちした。
「いったいどれだけの間者がいるんだ、どこもかしこも、情報が早すぎる!」
「やっぱ、内通者がいるわけ?」
「当然だ。この件だけではなく、大きな組織は互いを見張りあっているようなものだ。間者に気づかれぬように何かするのは、大変だ。その情報も正確とは言い難いときもある」
蹄は肩をすくめた。
「お偉いさんも、大変だねえ。なんだい、あの紅蓮ってのは。お喋りにもほどがあるぜ。男のお喋りは嫌われるってのに──なに?」
蹄は自分をじっと見詰める麗春の視線に気がついた。
「──そうか──誰かに似ていると思ったが、アレか」
麗春は一人で納得していた。頷くと、蹄に背を向け通信室に向かった。
「ええ、お嬢さん、俺みたいにいい男が、そういるわけないでしょ。誰に似てるっていうんだい? ねえ、てば、ねえ、聞いてる?」
気がつくと全ての苦痛は消えていた。目の前には透明の培養球が転がっている。
「久遠!」
永は培養球を拾い上げた。
なにが起きたのか、永には分かった。久遠が永の苦痛を沈静させ、魔法義肢の再生を促す魔法を使ったのだ。
「……また……目覚めるのが遅れる……」
永が久遠の復活を信じるのには、眠っているはずの久遠がときおり手助けをしてくれるのが原因だった。久遠としての意識がなければ、こんなことはしない。
しかし、それは同時に安定させるための魔力を別の方に使うということであり、そのたび久遠の目覚めは少しばかり遅れる。
「久遠……すまない」
永は培養球を抱きしめた。
久遠は応えず、培養液の中で浮かんでいる。ただ、その口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「神の御心に反するものを引き渡していただきたい」
「唐突だな、枢機卿。おまけに意味不明だ」
枢機卿と麗春は通信映像を介して、話し合っていた。魔法による通信で、麗春の前には豪奢な椅子に腰掛けたフランチス枢機卿の立体映像がある。ずいぶん離れているようで、時々映像が乱れては再び映像を結ぶ。
フランチス枢機卿は聖職者というよりは、軍人といわれた方が納得できるような逞しい体躯の持ち主だ。端正な顔は厳しく引き締められ、鷹のような目と、鷲鼻が、慈悲よりは、厳しくとがめる表情がよく似合う。
なにを間違って聖職者になどなったものかと、麗春などは思うのだが、枢機卿に上り詰めた所を思うと、案外聖職というのにも、軍隊と通じる部分があるのかもしれない。
フランチスの方にも同じように麗春が映されているだろう。
蹄は映らない所に密かに控えている。
通信を開始すると同時に、枢機卿が開口一番言い放ったのが、引渡し要求であった。
「魔法生物のことだ!」
「気は確かか、枢機卿? まさか、魔道師ギルドの所有する、魔法生物全てを引き渡せとでも? そんな無茶が通ると思っているのかな?」
麗春は涼しい顔で言い切った。枢機卿が何をさして『神の御心に反するもの』というのか分かりきっていたが、知らぬふりをするほうが賢いやり方だ。
「言っておくが、そのような無茶は通らない。ギルドの所有する魔法生物は莫大な数だし、注文で造っている品物もある。どう購うつもりだ? 金だけでは無理だぞ。依頼主との兼ね合いもある。魔道師ギルドと、得意先の権力者、全てを敵に回すつもりか?」
立派な恫喝であった。麗春でもこの程度の脅しはやる。
「人が変じた魔法生物のことだ!」
「人が魔法生物になる? 失礼だが枢機卿、お気は確かか? それとも、その歳でボケたか? そんなことがあるはずがない」
「とぼけているのは、そちらだろうが! 久遠だ! あの、悪魔の天才が造り上げた、魔法生物を引き渡すがいい! 人間は神に創られ、魔法を使うことを許された──」
「──神は鳥に飛ぶことを許し、魚に泳ぐことを許した。
そして人は神より魔法の力を使うことを許された。
人の子よ。この力はそのままでは何も出来ない。研究し、研鑽しなさい。この力はやがて全ての生き物に許したものと同じことができる。
しかし人の子よ。忘れてはならない。命を生み出すことは、神にだけ許された業である──オードゥグ教の教えの一節だったな」
麗春は、もしこれが教女の説法であったのなら、信者が増えるだろうと思われるほど美しい声で一節を唱えた。
「さよう。我が教団の教えを諳んじておられるようだ。ならば、分かるだろう。神に愛されし人間を、神の意に反する魔法生物に変える技術など、あってはならないのだ!」
「繰り返すが、フランチス枢機卿、人間が魔道生物になることなどありえない。人と見誤る魔法生物もな。そもそも、魔道生物が──知性と呼べるほどの知能を持っていないことをご存知か?」
「な……に?」
フランチス枢機卿の顔が呆けた。
「その様子なら、ご存じなかったようだな。魔道生物は、生体を維持させるための条件付けはできるし、ある程度の命令も教えられる。しかし──知性──とくに人間に匹敵させるような人格──思考能力とでも呼ぼうか? それがない。単純な思考はあるが、人間に匹敵するほどのものは誰にも造れない。枢機卿はなにか勘違いをなさっておられるようだが、人と間違えるほど思考力のある魔法生物は存在しないのだ。どこの誰に吹き込まれたのかは知らないが、存在しないものを渡せといわれても困るな。もう一度情報を吟味されることをお勧めする」
「思考……力がない? …本当か?」
「わたしを疑うのかな?」
久遠なき今、魔道師ギルドの魔法生物の権威は麗春である。魔法生物を嫌うあまり、魔法生物について調べようともしなかった枢機卿が意義を唱えられるはずがない。
「ならばカトラス商会に訊ねてみるがいい。商品については詳しく教えてくれるはずだ。そちらも何かと付き合いがあるはずだ」
カトラス商会に訊ねても同じことを言うと、自信たっぷりに麗春は嘲笑した。
自分の半分も生きていない小娘にやり込められ、枢機卿は満面に朱を注いだ。
麗春は冷笑を浮かべて話題を変えた。
「そういえば、オードゥグ教について、由々しき噂を耳にした」
「我が教団にですかな?」
「教区でもない所で、教徒でもない人間を、魔法生物を所持しているという理由で追い回しているというものだ」
ひくっとフランチスの顔が引きつった。紅蓮に比べれば、実に分かりやすい。
「どこでそのような根も葉もない噂を……事実無根ですな」
「それはよかった。魔道師ギルドには魔法生物の所有者も多いし、魔法生物の所有者は王侯貴族に豪族、権力者ばかりだ。もし、それが事実なら、宗教弾圧を受けかねない。オードゥグ教もそんなものを敵に回したくはないだろう」
わなわなとフランチスが震えた。
「そういえば、魔道師ギルドの噂も聞きましたぞ」
「どのような?」
「人に渡した魔法生物が、出来がよかったので返せと追い掛け回していると」
「それは、なんとも不名誉な噂だな」
麗春は鼻で笑った。
逆襲のつもりなのだろうが、あまりにも稚拙だ。
「用件はそれだけか? 私も暇ではないのだが?」
「よかろう、そちらがその気なら、こちらにも考えがある」
枢機卿は一方的に怒鳴って通信を切った。
「せわしいない奴だ──何を笑っている?」
部屋の一角で蹄が声を殺しながら笑っていた。腹を抱えて、苦しそうにのた打ち回る。
「ひっひっ、ひい、可笑しいっ! 最高っ! あんたらが、永に下手に手を出さないのは、そういう理由かい」
麗春は不機嫌な顔をした。
蹄の指摘が的を射ていたからだ。
永一人を追い詰めるためならば、どの組織もあらゆる手を使っただろう。しかし、各組織が睨み合っている現状では、あからさまに永を追いかけることが出来ない。
一つの組織があらぬ疑いをかけて追い回そうとすれば、別の組織がそれを暴いて社会的信用を地に貶める。
そんなことが何度もあったのだ。
おかげでどの組織も表立っては永を追いかけられない。
「痛いことを言ってくれる。しかし、我々はいわば詐術に引っかかったのだ」
「詐術というと?」
「──死期が近づいたと悟った久遠は、永と二人きりになることを望んだ。我々は久遠の最後の頼みと思い許可した。久遠と永は生活の手助けをする魔法生物とともにある場所に移り住んだ。そして二月後、永から久遠が死んだと連絡があった。遺言に従い、その遺体は処理したので渡せないと。我々はそれを信用した。そして、久遠の遺言の一部に、今までの礼として、久遠の遺産の一部と、培養中の魔法生物を永に譲るとあった。我々はそれを久遠の遺志と思い履行した」
「それが問題の魔法生物かい?」
「そうだ。そして私が久遠の遺品を整理していたとき、その魔法生物に関する資料が出てきた。最初は信じられなかった。久遠が──あの子が自分を造り変えていようとは──永が遺体を渡せなかったはずだ。久遠は自分の体そのものを徹底的に作り変えて生きながらえようとしていたのだ」
「そして成功したのか?」
麗春は苦渋に満ちた表情をした。
「まだ分からん。本当に生体が安定できるのか。再生されたそれが、久遠の人格を備えているのか。だからこそ、我々はそれを取り返そうとしている」
「──取り返して、どうするんだい? その魔法生物が久遠としての人格を持っていたら、魔道師ギルドはそれを久遠として認めるのかい?」
資料に基づき、魔道師ギルドは問題のものを──そこまで肉体改造をしたものを──人として認めるのか、極秘裏に会議を行っていた。結論は、否。
「無理だな。魔道師ギルドはそれをすでに魔法生物だと認定した」
「自分達の都合のため、だろう?」
蹄が喉で笑った。
「──どういう意味だ?」
「分かってるくせに。それが魔法生物なら、今後どんな発明をしても、権利を主張できない。どんなにこき使おうと、苦情も無視できる──そういうことだろ? だから、誰かさんは、逃げてんじゃねーの?」
「……」
麗春は反論できなかった。その可能性は確かにある──もしも、魔法生物が久遠そのものであれば魔道師ギルドは──
通信室のドアが乱暴に開けられた。
「大変です! 永が逃げました!」
「何だと! そんな馬鹿な! まだ、再生は終わらないはずだ!」
「どうしやす?」
やる気のない蹄の言葉に、麗春の怒号が答えた。
「どうも、こうもない! 蹄、永を捕らえろ!」
投げやりに蹄が答えた。
「はいはい。行くことは行きますがね、こっちの獲物は知られてるし、取り逃がすことも考えておいてくださいよ」
「うむ、危険手当と、捕獲した際は特別ボーナスを出すように経理に言っておく」
「……お嬢さん……金の問題じゃ、ないんだけどねえ……」
蹄は肩をすくめた。言っても無駄だと悟ったからだ。
すでに闇がその慈悲深い手で世界を被っていた。魔道師ギルドでは密かに永の追跡が行われていたが、それは人目を憚るものであり、あまり人手が出せない。
ことは隠密に行われなければならない。
それをいいことに夜陰に紛れ、永は屋根の上を密かに駆けていた。
密集した建物の上ならば、ある程度の穏業を修めたものならばそこを道として使える。
真っ当な人間ならば道や家屋の中には気を使うが、屋根の上まではそうは気がつかない。
音もなく疾走していた永は、微かな音と煌きを捉えた。永は横跳びにそれをかわした。
屋根の一部が、キンという甲高い音とともに切られた。
「あれま、やっぱ二度目はかわすかい」
いつの間にか追いついていたのは蹄だった。
「その眼、特別製かい? 俺の鋼糸が見えるのかい?」
永の左の目はいつの間にか色を変えていた。永の眼は深い藍色だが、左の眼はいつの間にか赦光を放っていた。
「まあいいや、やるだけやってみようか?」
蹄の指先が繊細に動いた。
ほとんどやる気のない口調とは裏腹に、蹄が繰り出す攻撃に永は戦慄した。
蹄が操る鋼糸は一本ではなかった。全部で十本。それだけでも脅威だというのに、一本につき一つの攻撃ではない。うねりくねり螺旋を描き、一本が複数の攻撃を行う。前後左右、あらゆる角度から無数の攻撃が来る──真っ向勝負は遠慮したいとは、戯言もいいところだ──まさしく神技といえるほど、蹄の技量は凄まじい。
しかし、それを迎え撃つのは一振りの剣──攻撃する側が神技なら──迎え撃つ方もまた神技。
角度一つ間違えば、剣を絡め取られるというのに、それを全て弾き返す。
たとえ眼が特別製の義眼で、鋼糸が見えているのだとしても、あまりにも凄まじい。
弾き返された糸が、無関係の建物を切り刻んだ。屋根材が、煙突が、断ち切られ、深い切れ目を入れられる。
「一度に十本だと……化け物め!」
「なんで、あたらねえんだよ! 化け物かよ!」
期せず同時に同じ言葉で相手を罵っていた。
蹄の攻撃に永は足を止めざるを得なかった。走りながら交わせる攻撃ではない。
蹄もまた、死力を振り絞られずにはいられなかった。少しでも攻撃が緩めば、剣の一撃が来る。足を止めるには、攻撃の数は減らせれない。
回りの建物が削り取られるように、被害をこうむる。
永遠に続くのではないかと思われた攻防も、眩しいまでの輝きと、けたたましい笑い声で中断させられた。
「うわっーはははははは、ついに見つけたぞ、永! いざ、尋常に勝負せい!」
それは、魔法光に包まれた鎧を着込んだ巨漢だった。
純白のそれは胸に刻まれた紋章を見るまでもなく材質で、聖衣と同じ性質ではないかと予測できるのだが、あまりにも大きく重そうだった。
その背に背負われているのは、スイカほどの大きさの、オードゥグ教製の魔法動力発生装置ではないだろうか。魔道師ギルドでは掌に乗るほどコンパクトかつ無音だが、オードゥグ教ではこの大きさが小型化の限界だった。稼動音があたりに響き渡る。
手にする巨大な矛も、ただの矛ではない。けたたましい音を立てている。
後光と稼動音に加えて本人自体が騒々しく高笑いをする、これほど隠密という言葉を徹底的に踏みにじる登場もないだろう。
二人の暗殺者はしばし呆然とした。
隠密を常とする彼らには、想像を絶する光景だった。
もともと傷ついていた屋根材が、その重みに耐えかねて砕けている。
少なくとも、屋根の上にのるにはあまりにも不似合いな姿だ。
「な……なんだ……ありゃあ……」
呆れたように呻いた蹄は攻撃を忘れていた。
永は苦虫を噛み殺したような顔をして呻いた。
「爆裂宣教師……」
「友達かい? 相手は選べよ」
「誰がだ!」
永は珍しくも怒鳴った。
「うわっーはははははは! 永よ、魔道師ギルドから自力で脱出するとは、たいしたものよ。しかぁし、この神威代理執行官ランバトルが来たからには、そなたも、神の意に反するものを作り上げた魔女も最後と知れ!」
蹄が無邪気に微笑んだ。
「悪いけど、邪魔なんだよね~。おっさん、どっか逝って♡」
ギンっという耳障りな音がした。
「うおう!」
ランバトルが驚愕の声を上げ──蹄が眼を剥いた。
「き、斬れねえ!」
ランバトルの全身を鋼糸が戒めたが、蹄の鋼糸をもってしても、ランバトルの鎧は斬れなかった。
プロテクター部分の素材は仕方ないとしても、その稼動部──肘や膝などの完全に被えない部分──さえ斬れない。通常の聖衣なら、そこから斬ることができるが、ランバトルの聖衣は斬れなかった。
よくよく見れば、薄い魔法光の輝きが鋼糸をくいとめていることに気づいただろう。
蹄は慌てて鋼糸を解いた。そうしなければ、軽量の蹄の方が鋼糸に引き摺られる。
ランバトルが初めて蹄に顔を向けた。顔は兜で覆われ見えないが、激怒していることは、雰囲気で分かる。
「むう! 今のはそなたの仕業か!」
ランバトルにしてみれば、体の自由を奪われた程度のことだが、実は殺されかけたという自覚はない。
「大方、魔道師ギルドの手の者であろうが、永との勝負を邪魔するのであれば、まずそなたから片付けてくれるわ!」
ランバトルは蹄に襲いかかった。
矛の一撃を大きく跳んでかわした蹄だが、その身代わりに屋根が轟音を上げて崩れた。
ランバトルの矛は高速振動することで破壊力を増す特別製らしい。
まさに、爆裂という名に相応しい破壊力である。
「おのれ! ちょこまかと!」
爆裂宣教師は見るからに重量武器である矛を軽々と操り、蹄を攻撃するのだが、そんな大降りの攻撃を食らう蹄ではない。
ひょいひょいとかわすのだが、その度、足場にしていた建物が破壊された。
もともと永と蹄の戦いの巻き添えを食って、切れ目を入れられていた部分もある。爆裂宣教師の攻撃に耐えられるはずもなく、崩壊していく。災難なのは、無関係の中の人間だ。
蹄は足場を変えつつ、呆れた。
「なんつー防御力と破壊力……」
どれほどの破壊力もあたらなければ意味がない。爆裂宣教師の攻撃は蹄には脅威ではないが、避ける事の出来ない建物には被害甚大だ。
乗り移る建物、乗り移る建物、全てを破壊しつつ爆裂宣教師は驀進する。このままではどれだけの被害が出るものか、計り知れない。街そのものが崩壊してもおかしくない。
かといって、鋼糸が通じなければ、蹄になす術はない。永の剣とてあれを斬れるかどうか。その証拠に斬りかかっていない。
「歩く迷惑……」
蹄は思わず呟いた。
「おのれぇぇぇ! 猪口才な! そこを動くなああぁ!」
爆裂宣教師が矛を大きく振りかぶり──その懐に永が飛び込んだ。矛を振り下ろそうとするその腕を掴み、爆裂宣教師の力を利用して、魔法義肢の暗殺者はそれを投げ飛ばした。
足元の屋根材が重みで砕けている所を見ると、かなりの重量のはずだ。
投げ飛ばされた爆裂宣教師は、自重で屋根材を砕き──落ちる──悲鳴と轟音がした。悲鳴はランバトルのものではなかったから、住人のものだろう。二度目の轟音は、二階の床を突き破ってさらに下に落ちたものか。
痩身に見える永だが、力技も得意らしい。斬れなければ、衝撃をというわけだ。
「最後まで騒々しい奴……」
この高さから落ちたのだ。自重を考えると、聖衣はもっても、生身の方が耐えられないだろう、と蹄は考えた。
しかし、永は背を向けて逃げ出そうとしていた。
「旦那、逃がさないよ。邪魔者は消えたし、ゆっくりと──」
「──あの程度で奴がどうにかなるなら、苦労はしない!」
「うわっーはははははは! さすが永! 某を投げ飛ばすとは、たいしたものよ!」
件の爆裂宣教師が自分があけた穴から這い出してきたのを見て、蹄は呆れかえった。
なんという頑丈さ。死なないまでも、気を失うか怪我ぐらいする衝撃であったはずだ。
「に……人間じゃねえ……化け物かよ、あんたは……」
「神の御加護だ!」
きっぱりと爆裂宣教師は言い切った。
その隙に永は走り出していた。
「待てえぇぇ! 某と勝負いたせ!」
怒号とともに、爆裂宣教師が信じられぬ速さで走り始めた。後光にも見える魔法光が作用しているのか、その体はわずかに浮いている。永と爆裂宣教師の間に蹄がいた。蹄など眼にも入らぬように、爆裂宣教師は辺りを破壊しながら進む。
「やってられるかぁぁぁぁ!」
キン、という甲高い音とともに、聖衣と魔法動力発生装置を繋ぐ連結部分が断ち切られた。唯一魔法光に覆われていなかったそれが断ち切られたとたん、爆裂宣教師は失速し──落ちた。屋根と床をいくつがぶち抜きながら落ちていく轟音がした。
おそらくは、いくらか魔法で軽量化されていたのだろう。動力がなくなったとたん、もとの重量に戻ったのだろう。
「か……片付いたか?……」
さすがに今度は這い上がってこなかった。しかし、蹄も永を見失っていた。
「何なんだよ、こいつは……ひでえ冗談だぜ……まったくよ」
永の再生が予想以上の速さで終わったこと。一本の剣で自分の攻撃を凌ぎきるほどの、化け物並みの技量。おまけの爆裂宣教師とやら。全てが悪い冗談だと思いたい出来事だった。
「お嬢さんにどやされるかねえ」
蹄は情けない顔をして肩をすくめた。