愛染ちょうちょ【プロローグ】
愛染ちょうちょ(あいぞめちょうちょ)
女/20歳/161㎝/鬼人族
感情があると辛い事の方が多いと感じ自ら感情を殺した(というよりは封印)。夢見がちなところがあり願いが叶えば人並みの感情を取り戻せると信じている。
両親の過度な無関心の元に育った。たまに見せる彼らの怒りは激しく、左腕と背中に消えない傷を負った。付き合っていた恋人がいたが、その人にも裏切られ今のような状態に。
願いは【自分だけを変わらず永遠に愛してくれる男性が欲しい】
物心つく前から両親は家にいなかった気がする。
共働きの二人はとても忙しそうで、ちょうちょが寝た後に帰宅しちょうちょが起きる前にはもう出勤していた。もしかしたら家になど帰って来てはいなかったのかもしれない。そう思う事も多々あったが、冷えた朝食と夕飯代が毎日置かれていることからその可能性は消え安堵と共に孤独がちょうちょを蝕んだのであった。
そんな状況下で育ってきたちょうちょであったが、外では悲愴の色を全く出さなかった。人間関係も良好で、彼女が常に孤独の中にいることに気がつく者はいなかった。悲愴の色を出さなかったのは何も強がっていただけではない。彼女は誰かと会話を交わしたり無邪気に遊ぶことが心の底から楽しくて、深い深いところにある闇を無意識に覆い隠してしまっていたのであった。
いつも家にいない両親。だが、流石に一度も顔を突き合わせたことが無いわけではない。盆休みや正月など、大抵の人間が会社から休みを貰うシーズンには家にいることもあった。
あった、のだがやはりちょうちょの悲しみは増幅するばかりであった。ちょうちょから話しかけないと会話は無かった。折角の貴重な会話も、興味無さげな返答で終わることが大半であった。
或る時、ついにちょうちょはこう訴えた。
「もっと家にいて欲しい」と。
腐っても彼女にとっては親である。別段変わった願いでも無かった。寧ろ当然の訴えだったとさえ思える。
だが、その言葉はいつも彼女に無関心な両親の怒りの琴線に触れてしまったらしい。
「誰の為に働いていると思っているのか」
鳴り響く怒号、宙を舞う家具、そして----ちょうちょの身体に残った、消えない傷痕。
心だけでなく肉体にも傷を負ったちょうちょは、いつの間にか高校生にまで成長していた。彼女自身、よく死のうと思わなかったなと高校の入学準備をしながら溜息をついたものである。相変わらず誰もいない家の中、誰にも祝福されることのない新品の教科書の匂いだけが空しく漂っていた。
そんなぬるま湯で揺蕩うような絶望の日々の中、運命の転機が訪れた。高校に入学したちょうちょは相変わらず「普通」に振舞っていたのだが、そんな彼女の深淵を見透かした少年が現れたのだ。その少年は入学して同じクラスになったクラスメイトで、雨が激しく地面を叩く六月頃の或る夕方、ちょうちょに向かってこう言い放ったのだ。
「お前ってなんか暗いよな」
ちょうちょは心底驚いた。明るく何処にでもいる平凡な少女を演じているつもりであったし、周りの評価もいつもそうであった。今まで彼女自身の真偽を誰かに問われたことはない。なのに、この少年は出会ったばかりのちょうちょのそれに気がついたばかりかずかずかと踏み込んで来たのだ。
「笑顔とか、いつも曇ってない?」
ざあざあとノイズのような雨が世界を叩く音だけがやけに耳に留まる。話したところでどうなるというのだろう。普通を演じていない自分とは、自分、とは。ちょうちょはそれすらも思い出せなかった。
彼は何で私の世界を壊すのか。
「うわっ、睨むなよ!怒らせるつもりじゃなかったんだ。その…嫌なら無理に話さなくていい」
少年は歯切れ悪く言うと、顔を真っ赤に染めながら手を差し出した。
「その、愛染を守りたいっていうか」
好きなんだよ。
ざらついた雨音が消え去った。顔が一瞬にして燃え上がってしまったかのように熱くなる。彼はちょうちょの世界を壊した。壊して、新たな世界を創造したのだ。ちょうちょは震える手で恐る恐る彼の手を取った。
そうして二人は幸せな未来へと歩んで行けたら、どんなに良かったことか。
「別れよう」
彼から別れを切り出された。疲れたと言われた。ちょうちょを受け止めきれなかった自分が悪いのだと、ひたすら謝られた。ちょうちょは頭を下げる彼を虚ろな目で見ていた。耳にはあの日の雨音が不快にこびり付いて離れない。
嫌だと泣きながら懇願した。必死に縋った。でも、無駄だった。彼にはもう何も届いていない。あの日ちょうちょを守ると誓ってくれた優しい表情は涙で歪んでいた。救いの手は、しつこく纏わりつくちょうちょに、ついに振り下ろされて。
彼も自身の行動に驚いたのだろう。情けなく涙を零し続けながら、逃げるようにちょうちょの前から走り去って二度と戻って来ることはなかった。
あの日から、ちょうちょの世界にはもう彼しか存在していなかったのに。
二度崩壊したちょうちょの世界が自己再生することは無かった。彼女は気がついてしまったのだ。感情があるからこうなるのだと。寂しい、悲しい、そんな気持ちは全部全部消し去ってしまえばいい。
正しいとか間違っているだとか、他人の物差しはいらない。ノイズはふつりと切れて、とうとう彼女からは大切な何かが抜け落ちてしまった。
----そしてとある雨の日、愛染ちょうちょは路地裏へと迷い込む。
捨て切れなかった最後の願いを求めて。