第十六章
「どうし、なにが、なんで……あおい?」
「お母さん」
何故。
何故我が子の笑顔が、こんなにも遠い?
白い影が、増えた。
「ちっ」
影は、一番の恐怖の対象である男性――伏見藤俐を中心に襲う。そこに萱島の意思は介在しない。自動的に、恐怖の対象を攻撃するだけ。
そして影は影であるがゆえに、対象は絶対に逃げられず、いずれ致命に至る――
それが『反転する全ての世界<Continues>』であり、発動した以上は敵か自分を呑みこむまで、解除されない―ー筈だったのに。
「『ここにいるよと叫ぶ声【Spotlight】』」
また。
光が影を焼いた。
“それ”をしているのが守ろうとしていた自分の子供であることを、萱島は認識しても理解できないでいる。
「どうして」
呟く。
「いつから、どこから……?」
何が本当で、何が偽りだったのか。
伏見藤俐は雨宮紗緒を背中から刺し、敵対したはずだ。
敵の敵は味方の理屈で、一時的な共闘姿勢をとったはずだ。
伏見藤俐が敵を刺した時の表情の歪み――
アレがあったから、辛うじて自分は信用したのに。
アレも演技だったのか。
「お母さんは」
葵が、自分の疑問を察したように、寂しそうに答えていく。
「お母さんは、気付く機会があったはず。わたしが、天使様を刺そうとして……それが無理だったところを、見ていたから」
(この羽根は自動的に、わたしの意思にすら関係なく、わたしを守る)
思い、出した。
完全な不意打ちだったにも関わらず、水の羽根が硝子片を粉々に砕いたところを、自分もハッキリ見ていた。
それを覚えていたなら、天使が無抵抗に刺されることがどれだけおかしなことか。
全部、全部、茶番だったのか。
「葵、あなたは」
いったい、いつから。
「最初から。お母さんの前からいなくなった時から、ずっと――天使様の言うとおりに」
母親である自分より、天使の悪意ある微笑に付いていったなら。
「……あおい、あなたも……わたしを、おいてくの?」
萱島響子は、気付かない。
子供がその笑顔の下に何を隠しているのか。
何を、願ったのか。
「わたしを、見てほしかった。愛さなくていいから、見てほしかった」
どんな想いで、母親が傷付く様を見てきたのか、何一つ気付かなかった。
「そろそろいいか? いい加減この影鬱陶しい」
「ひっ」
この期に及んで、子供より恐怖の対象を見てしまう自分がいる。
また、自分は奪われる。
「負けだよ、先生」
伏見藤俐は無慈悲に告げる。
「雨宮が時間を稼いだ。俺のスキルが発動する条件を満たす為の」
その声には感情がない。同情も、勝利の高揚も何もない。
「俺のスキルは、相手プレイヤーの根本である、《願い》と《絶望》のカタチを解析し、正しく定義することで発動条件を満たす」
敵はただ、淡々と説明する。
「そして《願い》と《絶望》を歪ませる、《討伐案内者》を切り離す」
萱島の足元から伸びた白い影から、〝何か〟が盛り上がった。
「スキル発動――『Fから始まる領域決定【All in F】・第三段階〈Fall in real〉』」
それは、萱島響子の《絶望》から生まれた《願い》だった。
質量のない、ただ赤子を抱いて笑うだけの影。
「や、めて」
せめてもの抵抗で影に手を伸ばすが、影には実体がなく、故にただすり抜けるだけ。
だけど影の中に、異物があるのがわかる。
赤子だけ、明らかに黒い。〝そこだけが写真のネガのように反転している〟。
藤俐はその部分を、優しく手に取る。
「あ、あ、あ、あ、」
膝をつき、取り返そうと手を伸ばすが、ただすり抜けることを繰り返すばかりで、《プレイヤー》として致命的なモノが、失われていく。
「普通は、この影ごと破壊したり、切り離される。ピンポイントに《討伐案内者》だけを取り上げるなんてできない。だから《願い》にまつわる記憶が壊れたり、場合によっては精神にもダメージが来る。だけどな」
藤俐は繊細な手つきで、《討伐案内者》を取り出す。
「このスキルだと、《絶望》も《願い》も壊れない。ただ《ゲーム》という舞台から降りるだけ。何もかも覚えたまま、《討伐案内者》によって支えられていた《願い》だけが崩れ、事象は戻る」
《討伐案内者》を取り出された影は、反転していた全ての世界は、もう元に戻っていた。
「……わかるだろ? もう」
影が、萱島の元に戻る。
「もう《願い》は終わってるってことが」
《討伐案内者》によって行われていた現世への不自然な干渉が、一つ消えた。
光は白く、影は黒かった。
静寂。
「…………」
茫然としたまま、視線が定まっていない。
だがやがて、その視線は我が子へと向いて――
「見ないで」
《討伐案内者》によって歪められていた心が、〝正常に戻る〟。
「来ないで、見ないで、私に愛されようなんて思わないで、近寄らないで、い、いや、いや、いやあああああ!!」
そして子供を、自分を散々傷付けてきた“男”を、拒絶する。
「気持ち悪い、なんで!? なんで勝手にお腹の中に住み着いたの!? 身体を作り変えてまで、エイリアンみたいに!!
私はあんたなんか望んでない!!
あんたなんか、産むんじゃなかった!!」
――気持ち悪い。
葵は、泣かなかった。
ただごめんなさい、とだけ、呟いて。
そして萱島の意識は、そこで途切れた。
†
「……ごめんなさい。わたしが勝手に判断しました」
紗緒が水で首を絞め、気絶させたのだと、その言葉でようやく分かる。手を振って、かまわないと意思表示だけをした。
後味は凄まじく悪い。
どうして、『苦難を乗り越えて親子でハッピーエンド』なんて、そんなお花畑な可能性を僅かでも望んだのだろう。
こうなるのはわかっていた筈だった。
現実ではどうにもならないほどの《絶望》を抱いたからこそ、《願い》は生まれ、それを《討伐案内者》が叶えていたのだから。
《討伐案内者》が消え、《願い》が維持できなくなったら、あとは《絶望》だけが残るなんて、単純な引き算で、子供でもわかる。
その子供は、空恐ろしくなるほど無表情だった。
葵に、母親に拒絶された子供に、何を言えばいいのか、わからない。
その子供に、紗緒が近づく。
「おい」
「大丈夫です」
見るものすべてを安心させるような、優しく完璧な〝作り笑顔〟を浮かべて、紗緒は葵に話しかける。
「わたしとお母さんの《ゲーム》、見てた?」
「…………」
頷く。そっか、と紗緒は葵の頭を撫でた。
「強かったよ。《願い》を守るために、あなたを見ようとするために、一生懸命だった」
ゆっくりと葵の身体を抱きしめ、背中をトン、トンと優しく叩く。
「《願い》を抱いたのはね、葵ちゃんを愛したかったからなんだよ」
それだけは信じてあげて、と。
空々しい、欺瞞に満ちた言葉だった。
真実と事実と現実のみで勝負する藤俐には、絶対に言えない言葉だった。
それは卑劣で狡猾で、嘘や騙すことを厭わない天使だから言える、その場限りの誤魔化しの言葉だった。
ぽろ、ぽろ、と、涙が幾筋が流れる。
紗緒はポケットからハンカチを取り出し、優しく拭いていく。
「色々と訊きたいことはあるけどな」
遠くから、微かにどよめく音が聞こえてくる。
「見つかったみたいだ。引き上げないとヤバい」
「そうですね。わたしも背中の怪我、本格的に治療しないといけませんし」
紗緒の背中から流れる血の量は決して少なくなかった。それも、自分の罪だ。
ここまでしないと、男性不信である萱島は、決して自分を信用しないだろうと思った。
「羽根の調子は悪くありませんし、飛んでいきましょうか。先生のケアもしないといけませんし」
「ケア、か」
「ええ。だってもう、先生はプレイヤーじゃありませんから」
プレイヤーじゃ、なくなった。
萱島にとって、それは幸せに繋がるとは思えない。だけど。
「先輩は自分の《願い》に反する《願い》を潰した。ただ生き残る為じゃなく、《願い》の意味をかけて戦う姿は、本当にカッコよかった」
天使の表情に衒いはなく、本気で、陶酔するようにそう言っていた。
親子は既に、水球に包まれ、天使の衛星と化している。
「ねえ先輩」
不意に、天使が――雨宮紗緒は、恋する少女の顔に戻って問う。
「わたし、上手くできましたか?」
息を吐く。天使の激情と悪意を振り撒くさまは、“演技だとわかっていても”極度の緊張を強いられた。
こちら側としてはいつ本気で裏切るかわからないし、場合によってはそのまま萱島と共闘も勿論あっただろうと思う。状況がどう動くかわからなかった。最悪の選択かもしれない。
それでも藤俐は。
自分の《願い》を曲げたくなかった。
だから、萱島の《願い》は許せなかった。
「答えあわせが終わってから、採点してやるよ」
天使が微苦笑を浮かべ、藤俐を水球で包む。
水の中でも息ができるという不思議なこの場所は、正直なところ、居心地は決して悪くはなかった。
目を閉じる。すると心の中に、萱島の《討伐案内者》が、居場所を作ったのがわかった。
(こんなことは、言いたくないけど)
言葉とは裏腹に、女性の声は優しく、穏やかだった。
(キョウコはあのままじゃ、死ぬか壊れるまで《願い》に縛られていたと思う。だから、ありがとう)
女性の《討伐案内者》は、やはり穏やかに。
(あなたは可能性を残してくれた。もしかしたら、キョウコが《絶望》を私たちに頼らず乗り越える未来が、あるかもしれない。だから、ありがとう)
そんな上等なもんじゃない、と言い返そうと思った。自分の《願い》を都合よく解釈されることは、《願い》に反するから。
だけど、気絶した萱島の顔を見つめる子供の姿を見ると、何も言えなくなった。
天使と衛星は飛翔し、《ゲーム》は終了する。