第十五章
「ねえ先輩、先生」
すっ、と取り出したのは、見覚えのある――
「これ、けっこう便利なんですよ」
瞬間。
天使の姿が、掻き消えた。
「!?」
「あのハンカチか。面倒くせえな、ホント」
ハンカチは持ち主がいなくなって、はらりと落ちた。
萱島は意味が分からない、という顔をしている。
「葵が、入っていた……あのハンカチ……」
「未来のネコ型ロボットのポケットよりは容量狭いけどな。ただあれを思い出すなら」
「――異空間への入り口は、一つとは限らないんですよ」
声が、萱島の背後から這い寄ってきた。
中空から白く細い腕が出て、萱島を背中から抱きしめる。
血と水と髪の匂いが絡まり、声もどこか扇情的に、未熟な色香を感じさせた。
「さっき触れられた時に、先生に出入り口をくっつけておきました」
どこか自慢げな、どこまでも愉しそうな声。
「異空間の入り口は任意で決められます。元の持ち主が使えば容量ももっと大きく、出入り口ももっと多く設定できますが、これだけでも十分」
『反転する私の世界<Still you>』をすり抜けてくると予想していなかったのか、萱島は唐突な出来事に動けないでいる。
逃がすつもりはないとばかりに、萱島を抱く腕に力が込められる。
死の予感しかしなかった。
「ねえ、先生」
だけど天使は、
「葵ちゃんがお腹にいるってことを知った時って、どんな気分でした?」
死より悪質な悪意を振り撒く。
ヒ、と萱島の喉の奥で、恐怖が音となって漏れた。
「な、にを?」
天使は母親のお腹を撫でながら、最悪の禁忌にやすやすと触れていく。
傷口に指を突っ込んで掻き回すような、ただ痛みを与えるだけの言葉。
「無理矢理にされて、愛していた婚約者に捨てられて、それってどんな気分でした?」
「残ったのは愛のない相手との子と、慰謝料だけ」
「ねえ、捨てられたことを知った時、どんな気持ちでした?」
悪意に呑まれて、藤俐は言葉を紡げない。
「――そんなこと聞いて何が愉しいの!?」
萱島はがくがくと震えている。
ヒステリックな金切声は激しい呼吸と共に、発した本人をこそ傷付けている。
「わたし、先輩のことが好き。大好きです」
声音は気分が悪くなるほど甘く、甘く、甘い。
「殺すのも、殺されるのもいいなって思ってます。でも、捨てられるってどんな気持ちなのかなって。どのくらい傷付くんですか? どのくらい痛いんですか? 面白そうなら、それも選択肢に入れようかなって考えているんですよ」
破滅的に倫理の破綻した言葉だった。
萱島は過去の記憶が反響して、動けない。
「ねえ先輩」
天使は甘えるように、ねだるように、こちらを見る。
「“あんな女より私と遊びませんか”?」
「『反転する全ての世界<Continues>』!!」
怒鳴るように切り捨てるように、スキルが叫ばれた瞬間。
人間以外の“風景全ての色が反転していた”。
(――感覚に異常をきたしたか?)
(いや、違う。トーリの身体自体に作用しているスキルはない)
エルヴィンが断言する。だがこの光景は何を意味している?
影は白く、光は黒く、赤は緑に青は橙に。
背筋に悪寒。
「ぐっ……!?」 間一髪で攻撃は避けた。だが攻撃のタネがわからない。どこから攻撃されたのか、何が攻撃してきたのか。補色の世界は距離感も何もかもを侵食し、現実を把握させてくれない。
ちら、と天使の方を見るが、何故か天使は攻撃を受けている様子がなかった。コンテナの壁にもたれかかっている。余裕なのか、体力が限界にきているのか、それが攻撃を受けていないことと関係があるのか。
また死角からの攻撃「……っ!」拳で背中を殴られた程度の衝撃だったが、『第二段階<First other is nowhere>』が解けてしまう。
解放と同時に、天使の翼が展開する。
「やっぱりこれが一番馴染みますね」
一番厄介なスキルが戻ってしまった。あからさまに舌打ちしてやる。
「背中刺してやったのに、ずいぶん元気そうだな」
「痛覚は閉じてますからね。なんだかんだで急所も外れていたし、この《ゲーム》だけなら問題ありません。それよりは、先輩のスキルが解けた事の方が嬉しいですかね。いや、残念なんですけど」
本気で複雑そうだった。藤俐としては共感を拒絶するしかない。
「どうやらこのスキル、無差別みたいですよ」
天使は平然としている。精神構造がおかしいのはわかりきっているが、改めて思う。こいつは頭おかしい。
「なんでお前は攻撃されてない?」
天使はきょとん、とした。わかりきったことを訊かれて困惑した顔は、少しだけ風花が自分の言葉を選ぶ時の顔に似ている気がする。
「本気で言ってます?」
「この攻撃がお前からではなく萱島の『反転する全ての世界<Continues>』からなのはわかるけどな」
「充分じゃないですか」
充分、なのか。本当に?
だがとにかく『反転する全ての世界<Continues>』を解かないと、何も終わらないし始まらない。それだけはわかる。
「先生、どこに行ったんでしょうね?」
天使の嬲るような言葉がなくても、とっくに気付いている。
萱島の姿は、スキル発動と同時に消えていた。
†
「う、ぐが、おえっ、げえええ」
吐きすぎて胃液しか出てこない。萱島響子はスキル発動と同時に『反転する全ての世界<Continues>』の範囲内の何処かに飛ばされた。
違う、何処かではない。目の前の敵より、優先するべき《願い》を思い出した、それだけ。
「あおい」
《ゲーム》が始まる前は、確かに抱きしめていたのに。
吐いた胃液が『反転する全ての世界<Continues>』に吸い込まれ、極彩色の色となる。その光景も吐き気をさらに喚起させる。
(…………!)
《討伐案内者》の声も遠く、聞こえない。萱島は今、本当にたった一人だった。
『反転する全ての世界<Continues>』の発動条件は、精神的外傷を記憶から掘り起こすこと。
あの天使のせいでPTSDが発露してしまい、今は自由に動けない。
そして誰も助けに来てはくれない。
来ても手を払うだろう。恐怖から。
無理なのだ。
かつて愛した人も、恐怖の対象となってしまった自分には。愛と恐怖が『反転』してしまった、この世界では。
だけどそれでも、自分には守らないといけないものがある。
「葵」
「……お母さん」
愛しい、我が子。
間違いなく、自分の子。守るべき、存在。
愛するべきモノ。愛さないといけないモノ。
見捨ててはならないモノ。
見捨てたら、同じになるから。
だから自分は、愛したいと《願った》。
「葵、もう大丈夫だから」
髪はボサボサで、顔色は白を通り越した灰色じみていて、もはや幽鬼のような、生気のない顔で、それでも母である自分はそういうしかない。
「……うん」
子供は、母親の言うとおりに、《願い》通りに、恐怖の対象ではなく愛されるために、髪型から服から性別まで変えられ、それでも頷いた。
「お母さん」
萱島葵は、何もかもが反転したこの世界で。
《ゲーム》が始まって、初めて。
「ありがとう」
笑顔を、見せた。
「『ここにいるよと叫ぶ声【Spotlight】』」
「え?」
現れたのは、一条の“光”だった。
光は音もなく、四方から襲う“白い影”を、焼き尽くす。
「……あおい?」
「お母さん」
子供は、いつの間にか。
最後に見た時より、ずっと大人びて、母親《自分》を見ていた。
「もういいよ、お母さん」
白い影は次々と、無限に親子を襲う。
その影を、子供は淡々と焼いていった。
「これで」
子供は、笑顔のまま。
「これで、お母さんを、助けられるんだよね? 天使様」
「言っとくけど、こいつは天使とは対極に位置する全く別の何かだからな? あと一応、仕上げは俺になるから」
「先輩、酷くないですか? わたしは上手くやったと褒められていいと思うんですよ」
現れたのは、恐怖の対象。プレイヤー。敵。
敵?
「頑張りましたね、葵ちゃん」
敵――
敵、敵、敵――
何故この世界に、敵がいる?
何故私の子が、敵と親しげに話している?
混乱した、千切れかけた心を必死に繋ぎとめている限界状態の精神では。
今何が起こっているのか、わからなかった。