第十四章
『第二段階』を展開する条件は揃えた。
条件は単純。そのスキルを一度見ること。
そして分析すること。
(『第二段階』、展開――!!)
圧倒的な情報量が、藤俐の脳髄に流れ込んでくる。氾濫した河川のように、それに向かってひとり裸で飛び込むような無防備さで、藤俐はひたすら分析する。
「ぐああ、が、は、あああああ!」
処理しきれない情報量が脳を焼く。頭蓋の中で電流を流した有刺鉄線が蛇のように暴れまわるような、激しすぎる痛み。脳の配線がぶちぶちと焼き切れていく感覚。やはり、少女の《討伐案内者》は、あの天使の羽根を司る《討伐案内者》は、強すぎた。
First other、プレイヤーにとっての《討伐案内者》、《ゲーム》において初めて触れ合う他者。その繋がりを弱めるこのスキルの効果は、相手スキルの弱体化だ。
「がっ、はっ、はあ!」
げぼ、と胃液が喉にせり上がり、喉を焼いた。それでも暴れまわる情報が少しずつ弱まっていく。分析が、終了していく。
(施錠!)
分析を終え、『第二段階』が顕現する。
ぎちぎちぎちぎちぎちぃ、と錆びた金属が擦り合うような音。
「なっ!?」
天使の表情には驚愕。美しい透明な不定形の羽根に、無骨な禍々しい鎖がひたすらに巻きつき、拘束する。
家庭科室では相手スキルの情報量も分析も僅かでしかなかったため、僅かに軌道を逸らす程度しか使えなかった。
だが今は持てる力と時間、全てを最大限に使った。
「くっ」
天使の笑みは消せないが、余裕はない。それでも墜落していく身体をぎりぎりのところで元に戻した。
(完全に無効化どころか、まだ飛べるようだね)
エルヴィンにも疲れが見える。エルヴィンは元々《討伐案内者》の中でも情報の操作を得意としているらしい。電子世界でハッキングやクラッキングを行うのが得意なのも、そういう面から来ているようだ。
本来『第二段階』が最大限に発現すれば完全に無効化も可能なのだが、少女の羽根の《討伐案内者》はエルヴィンより遥かに格上の相手だった。飛行能力、そしておそらくは弾丸などの威力も落ちているだろうし巨大な水の塊を落とす等という荒業も不可能だろうが、そもそもスキルが生きている時点で桁外れだ。藤俐の予想としては完全に飛べなくなると思っていた。相手が予想を上回った形になってしまった。
そして『第二段階』の弱点は時間がかかることと、身体への負担が大きいことがある。もし藤俐が他の副スキルを持っていたとしても、それは使えない。少しでも気を抜いたらすぐさま施錠は解除される。暴れ馬の手綱を離して玩具では遊べない。発動中は殆ど丸腰になり、身体も過剰な情報への負担の為に動かせなくなる。
対して相手はスキルは使えなくなるものの、動けはする。副スキル等は普通に使えるし、そうでなくてもこの状態の藤俐に一発素手で殴る程度の衝撃を与えるだけで、『第二段階』は解除される。そしてあとはタコ殴りで藤俐の負けは確定だ。使い勝手が非常に悪いスキルではあった。
藤俐一人ならば、まず勝てない。そんなスキルだった。
きゅいいいいいいん、と高い耳鳴りのような、不快な音が鳴り響く。天使の背後から影が迫る。
「あら、大変」
言葉や表情の余裕とは裏腹に、天使は先ほどまでとは格段に遅くなっている。萱島が身体能力の限界を超えて跳躍する。空気を裏返して推進力にしているのだと一拍遅れて気付いた。ピンボールのように空気の一部を裏返し、真空を生み出して、その衝撃で身を運ぶという荒業も荒業に、天使は逃げず水の弾丸で応戦する。萱島は推進力を殺さないよう、水の弾丸への防御は最小限に、何度も空気を裏返す。
そして萱島の手が、天使の羽根に触れた。
「『反転する私の世界』、『反転する私達の世界』!」
右手にはピンポン玉大のマーブル模様の球体、それが羽根の中に吸い込まれる。同時に穴が開いた。自動的に修復が始まるがその前に萱島が“何か”を羽根の中に突っ込む。初めて天使から笑みが消え、右の片翼を根元から切り落とした。ばしゃんと水が落ちる。そして改めて再生。『第二段階』は発動中なので鎖が巻きついた、歪な羽根のままだが、それでも一から再生。
再生を確認することもなく天使は追撃しようとするが、何故か身体をよろめかし、頭を抱えた。萱島は追撃せず、そこから空気を裏返し、距離を取ることを選んだ。こちらに飛んでくる、というか落ちてくる。藤俐の三メートルほど前でまともな姿勢も受け身もとれずにただ落ちた。
「がっ! はあ、はあっ! ……っ!!」
萱島は息もろくに整わずにいた。今の一連の動きは、所詮常人でしかない人間の運動神経では当然無理のある動きで、空気を裏返す衝撃も相応のダメージを与えている。着地の衝撃はアスファルトを裏返し、抑えたようだがそれでもダメージは大きい。
「へえ」
天使は頭を降ったり手足を妙なふうに動かしている。傍から見ていると不気味な動きだ。
「面白いですね、これ」
天使は合格を与える傲慢な教師の瞳でこちらを見ていた。
「“上下左右がひっくり返っています”。羽根も封じられ、更にはダメージを与えられてしまいました。よく気付きましたね? まあ普通は気付いても対抗策なんて講じられないんですけど。その点、先生は運が良かったんでしょう」
「どういうことだ?」
萱島のダメージは思っている以上に大きいようだ。会話で時間を稼ぐしかない。
その意図を察して尚且つ、天使もそれに乗ってきた。天使の方もダメージは少なくない、はずだ。表情からは余裕しか読み取れないが。
「まず、基本的に。わたしの羽根は、この羽根が操れる水の範囲は、この羽根が生み出したものに限られています」
それは藤俐も気付いていた。
無限に水を操れるなら、家庭科室には水道がある。その水道の水を操れば、更なる物量で押すこともできたはずだ。あの羽根から生み出される水も、相当の質量はあるにせよ、無から有を生み出すとなると、無限はあり得ない。
更に萱島が付け加えた。
「あの時は、そこまで頭が回らなかったけど。あなたは切り離された水も操れなかった。羽根から生み出した水であっても、切り捨てるか、不純物が混じるとただの水になる、そう思った」
思った以上に萱島は観察力がある。藤俐にも理解できてきた。
この場所を指定した、その理由。
「本当ならあなたの羽根が傷付くなんてないんでしょうけど、私の『反転する私の世界』はあなたの水の羽根に穴を空けられる。そこから塗料を流し込んだ。思った通りあなたは羽根を修復できず、切り落とすしかなかった」
壊された倉庫の中には、大量の塗料の缶があった。他にも羽根を汚そうと思えば、いくらでも材料は転がっているだろう。
萱島はもし藤俐が共闘しなかったとしても、一人で戦えるよう、準備を整えていたのだ。
天使はそれがたまらなく嬉しそうに、喜んでいる。
「今わたしに起きているのは、先生の主スキルのまた別の側面ですね。これは、感覚に作用するんですか?」
「『反転する私達の世界』……手で触れた相手の五感全てを反転させる。視覚や聴覚は上下左右が反転し、嗅覚も真逆の匂いに感じ、触覚も熱さや冷たさを反転させる。味覚はわからないけど、多分反転しているでしょうね」
内心、萱島を真正面から敵に回さなくて良かったと冷や汗を掻いていた。そんな状態になったら、一歩前に出るのも難しい。だから少女は今、動けないでいる。
ただ同時に、それだけのスキルの効果ならば、直接触れなければ発動しないという以外にも、リスクがあるはずだ。例えば、
「先生も同じ状態になる、とかですかね?」
天使が余裕を保っている理由。萱島が追撃しない、できない理由。
それは同一だった。
威嚇の為か、『反転する私の世界』をありったけ出現させる。藤俐も『第二段階』の手を緩めない。
それでも天使の余裕は崩せなかった。
「そろそろこの羽根だけ、というのも、飽きてきたところだったんですよ」
天使はまだ、たくさん副スキルを持っている。
“それ”を見せることができるのが嬉しくてたまらなくて、天使は無邪気に笑った。