第十三章
午後十時。指定した時間がやってきた。
ちなみに紗緒はどの方角に何キロぐらいの場所にいるかを察知するスキルはあっても、絶望的に方向音痴だった。どうもこのあたり、演技でも何でもなく本当に少女の弱点らしい。藤俐は少女から示された方角と距離からGPSで位置を確認し、途中までタクシーを使ってあとは徒歩でやってきた。葵も一緒にいる。
萱島がいるのは、貸しコンテナや貸し倉庫が置いてある広大な敷地だった。無論、フェンスが張ってあるが、そこは少女の羽根で乗り越える。
敷地面積は広いが、コンテナや倉庫が壁となって、死角は多い。隠れることは簡単に出来そうだ。
時刻になったため、藤俐から萱島に電話をかける。すぐに繋がった。
「どこにいる?」
『貸倉庫よ。B-8番の。鍵は壊してあるから』
当たり前だが、借主でも貸主でもないらしい。そんなことを考えている余裕もないのだろう。
少女は愉しそうに、少年は不安そうに、そのコントラストを藤俐は複雑な想いで見つめる。
Bの番号の倉庫はかなり広く、大きかった。学校の体育館ぐらいはある。それが十棟。企業向けの貸倉庫なのだろう。その中から、一つだけ明かりが漏れている倉庫があった。番号を確認して、間違いなくB-8であることを確認する。
罠を警戒しながら、扉を開けた。
「うっ」
むわっとした、塗料の匂いが鼻に突く。別の薬品の匂いもあるのかもしれない。
ごちゃごちゃとした荷物の中、ライトの中心に、萱島響子は立っていた。
「お待たせしましたね、萱島先生」
期待に急く想いを隠そうともせずに、少女は舌なめずりをしながら呼びかけた。
「葵は?」
「無事ですよ。ほら、お母さんのところに戻ってあげて」
紗緒が葵の背中を押す。葵は一瞬戸惑ったが、すぐに駆けて母親の胸に飛び込んだ。
「お母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「いい、いいから……! 今は何も言わないでいいから……!」
「さて、と」
少女は親子の感動の再会には興味は無いようだった。
「遊びましょう、先生。そういう約束でしたよね?」
轟、というあの洪水のような圧倒的な音が、少女の背中から聞こえてくる。
不定形の羽根が展開されようとしていた。
ズチュ
「……え?」
藤俐はそうなる前に、
少女がこの場の主権を握る前に、
目の前の敵プレイヤーに集中する隙をついて、
少女の背中を、
持っていた
ナイフで
突き刺した。
――刺した。
(~~~~っ!!)
「……先輩?」
きょとんとした、何もわかっていないような、幼ささえ感じる声。
それはまるで自身の身体から溢れ出る赤の液体の意味を理解できない子供のようで。
「俺は俺の《願い》を優先する。それだけだ」
その言葉を聞いた雨宮紗緒は、完全に崩れ落ちた。
「……ぁ、ぐ」
痛い。痛い。
喉が一瞬で干からびる。吐き気ではない何かがこみ上げて、喉を圧迫する。全身がねばねばした汗を噴き出した。足ががくがくと震えそうになる。だけど、耐える。耐えなければならない。
それでもナイフ越しに伝わった少女の鼓動も溢れた赤い液体に塗れた手も収縮してナイフを離そうとしなくなった筋肉の動きも骨に当たったゴツゴツとした感触も、全てが痛く、痛く、――痛い。
「……約束だったな。こいつを倒せば、風花の安全とこいつのジュエルは俺のものになる」
萱島は、覚悟を持って、藤俐の血に塗れた手から目を逸らさなかった。
その視線も、藤俐は痛くて痛くて、逃げ出したい。
無理だと心が叫んでる。
無抵抗の相手を背後から刺す。
そんな卑劣なやり方しか選べない自分。
心が、犯されていく。
《絶望》に。
《願い》に。
「……ふふっ」
少女の身体が、揺れた。
「敵に、なることを……選んだんですね? 先輩」
「――伏見君、避けなさい!」
少女は一瞬で水の羽根を展開し、傷ついた身体のことを一切無視して飛翔し、襲い掛かる。
《ゲーム》が、始まった。
「~~~~っ、くっ!」
転がるように身を投げて、荷物に隠れる。萱島も反対側の荷物に隠れ、水の羽根の弾丸の射線を遮り、警戒しているのが目の端に映った。
人を刺した、たったそれだけの事が藤俐の心を苛んでいる。だけど切り替えなければ、この《ゲーム》を制することができなければ、それすら無意味になる。早まる鼓動を意図して無視する。
少女の背中の傷は浅くはないはずだ。今動けているのは、水の羽根の機動力任せで、本人の身体能力は格段に落ちているはず。治癒のスキルも持っているが、それは主スキルではない。一瞬で回復は不可能。できるとすれば、藤俐がやったような痛覚の遮断や止血がせいぜいだろう。
今最優先するべきは、萱島との合流、そして意思疎通の手段を得ることだ。
スマホを取り出す。萱島が着信音を消していないという初歩的なミスを犯さないことは祈るしかない。
トゥルル
『はい』
「一旦合流する。A-9の倉庫前でいいな? 通話は繋げておけ」
手短に言ってポケットにスマホを戻す。
少女は痛みの為か、それともこちらが弄した策を出すのを待っているのか、空中で浮遊したまま動こうとしない。
ガガガガガ、と耳をつんざく連続した破砕音が鼓膜を痛いほどに揺らした。ただ衝撃は思ったよりも来ない。
直接身を乗り出したりはせず、スマホのカメラを使って様子を見る。少女は藤俐ではなく萱島の方を先に始末することに決めたようだ。
「あはっ、どうしよう、愉しくなってきちゃった♪」
少女の心底から愉しそうな笑声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
痛みを感じているのかどうかはわからない。だけど明らかに動きは鈍っている。
なのに少女は楽しい玩具で遊ぶように笑えている、それが不可解で不愉快で、共感を拒絶する。
(明らかに遊んでやがる)
少女の余裕は気に入らない。だが、今はその余裕を利用させてもらうしかない。
隙をついて、藤俐は倉庫を出る。
†
多少迂回して指定した場所にやってきたが、萱島はまだ来ていない。音が聞こえるので生きてはいるだろう。
Aの倉庫は個人向けで、コンテナといった方が近い。その分密集していて、外に関しては死角はBの倉庫よりも多かった。
(警報装置は止めてきたよ。しばらくは気付かれないはずだ)
エルヴィンが自身の仕事を淡々とこなしてきたことを告げた。今はこの淡泊さがありがたい。
ひときわ大きな爆裂音が藤俐の身体にまず振動として伝わった。
(派手にやってるなアイツら)
(アオイは大丈夫なのかい? 『第一段階』を最大限にかけているとはいえ、物理的な攻撃を凌げるわけではないんだけどね)
(あのガキには伝えているからな。上手く逃げてるだろ)
今、葵には『第一段階』をかけ、特に少女の意識から外れるようにしている。ただ『第一段階』はあくまでバリアではなく、フィルターでしかない。意識や感覚に対しては強く作用しても、物理的なことに対しては弱い。意識して狙うことはできなくても、余波が傷付けることは十分にあり得る。
《ゲーム》が始まったら『第一段階』をかける、だから安全な場所まで逃げて隠れておけと藤俐はあらかじめ指示しておいた。
葵には、死んでもらっては困る。
(音が止んでるね)
藤俐もとっくに気付いていた。特に聴覚を研ぎ澄ます。
ぱしゃん
「!?」
音のした方を見上げた。少女は高く飛び、辺りを見下ろしている。こちらに気付いている様子は、無い。
(見失っている、のか?)
角度的にはギリギリ見えるか見えないか。だが夜で、倉庫の置き場に満足な照明は置かれておらず、単純な視力だけではそう簡単には見つからないだろう。少女は相手の位置を知る副スキルを持ってはいるが、それも割と大雑把なものだ。密集した障害物の中からピンポイントで見つけることはできない。副スキルは主スキルとは違って精度は落ちるものだから、少女がそう見せかけているという線はないはずだ。
押し殺された足音が聞こえた。
「遅いぞアラサー教師」
「生徒指導に時間がかかったのよ」
萱島は疲労と緊張を見せつつ、小声で答えた。
共闘する姿勢であることをわざわざ確認する暇はない。
「これ持っとけ。インカムだ。ジャックに差してアプリ開けばわざわざスマホを耳に当てないですむ」
藤俐も耳にかけながらアプリを起動する。アプリは事前にインストールするように指定しておいた。エルヴィンもハッキングして確認しているので問題はない。
「お前、雨宮を殺す覚悟はあるのか?」
「他の方法がない以上、それしかないでしょう?」
押し殺した無感情な声は、藤俐でなくても無理をしているのがわかる。
こんなことを愉しめるのは、普通じゃない。何かが欠けていないと、失くしていないとできない。
「いったん離れるわ。雨宮さんの羽根を壊さないと」
「どうやって」
「……考えてはいる。あそこに届けばだけど」
少女は高く舞い上がっている。そのままの意味で、雨のように弾丸を降らせられたらひとたまりもない。こちらの防御手段は多くない。
「『反転する私の世界』はあそこまで届く前に、弾丸に落とされる。まず、羽根に『反転する私の世界』を届かせないと、羽根を壊すことはできない」
「あいつがあそこにずっといるなんてことはないと思うがな」
少女はしばらく見渡していたが、事態が動かないことに飽いてきたのか。
右手を上に掲げた。
羽根からしゅわしゅわと炭酸のように小さな泡が生まれ、掌の上で集まり、大きくなっていく。
「……なに、あれ」
「天使様はスケールが大きいなやっぱアイツ馬鹿だわ逃げるぞ!」
萱島も危険性に気付きその場を離れる。掌の水球は、五メートル大になっていた。五メートルの水球は、Bの倉庫の一つに落とされる。
轟音、そして衝撃。
地震のように、地面がぐらぐらと揺れる。それ以上は目で確認せずとにかく走り、距離を取る。
水球は体育館の大きさはあった倉庫の屋根を完全に壊し、余波でその他の倉庫にも多大な損害を与え、溢れ出た水が藤俐の足元まで届いた。
「くっそめんどくせえ!」
足首までしかなかったが、引いていく水の勢いは馬鹿にできず、連発されるとそのうち引きずり込まれる。
インカムが生きていることを確認する。
「生きてるか?」
『……え、ええ。多分、見つかって……ないと思う』
「だろうな。じゃないとおしゃべりの時間なんかねえよ。あとお前、いちいち呆けてたら確実に死ぬぞ」
覚悟は決めているだろうが、覚悟を実行する胆力が萱島にはなかった。経験と言ってもいいかもしれない。藤俐もどっこいどっこいだが、これはむしろあの少女の方が異常なのだ。
「俺がアイツの羽根を弱らせる。弱ったのを見たらお前のタイミングでやれ、いいな」
『どうやって』
説明する気も暇もなかった。
『第二段階』を発動するための準備に入る。天使が気を変えてしまわないうちに。