第十一章
紗緒は敢えて家を空けることにした。伏見藤俐は、自分の愛した人は、どういう選択をするだろう?
家から逃げるかもしれないし、逃げても無駄だと開き直った覚悟を決めるかもしれないし、もしかしたら攻撃してくるかもしれない。
ただ現時点では、自分と組むという発想はなさそうだなとは思った。
別にかまわない。まだ今回の《ゲーム》は終わっていないのだから。
(楽しみだなぁ)
驚くほど浮かれている。《ゲーム》の、敵プレイヤーの《願い》を壊した時のあの破滅の音を聞いた時はまったく別種の、幸福感。
ファーストキスの時の、血の紅を塗った唇を舐めた時の感覚を思い出す。
自然と口角が上がっている自分に気付き、口元を押さえた。それでも高揚は止まらない。
ポツン、と冷たい感触。
「あ」
ぱらぱらと、雨が降ってきた。
ぴろりろりん♪
スマートフォンから、チャットメッセージの着信音が鳴った。雨を避けるためにコンビニに入り、画面を確認する。親友の、風花からだ。
『どうだった?』
『まだ返事はもらえてないですけど、告白はしましたよ』
『返事してないの? 藤俐』
『意外だね。藤俐は割とすぐ判断するんだけど』
『どう? 上手くいきそう?』
『うーん』
『上手くいくかと訊かれたら、結構分が悪いですけど』
『かまいません』
『藤俐先輩が考えてくれることが、わたしは嬉しいんですから』
しばらく、着信音はならなかった。
雨が激しくなっていく。傘を買って帰ろうかなと財布と相談していた時、また着信音。
『あのね、紗緒』
『風花はね、藤俐のことを考えている時の紗緒は』
『すごく楽しそうに見える』
『本当に好きなんだなってわかるから』
『応援したいし、してるつもりでいるんだけど』
『でもね』
またしばらく、着信音が止んだ。返事を書くべきか悩んだが、その前に着信音の方が先に鳴った。
『紗緒がね、藤俐に好きになってほしいようには、見えないの』
『だから藤俐も悩んでいるんじゃないかなって思う』
思わず感嘆してしまった。
風花は、自分の唯一の親友は、何も知らないはずなのに鋭い。
『紗緒は、藤俐に思ってさえもらえれば』
『それがどんな気持でも構わないのかもしれないけど』
『風花はね、それは違うと思う』
『風花は藤俐と紗緒、二人に幸せになってほしいの』
『紗緒はそれ、考えてる? 藤俐のこと、自分のこと、大事にしてる?』
打ち返そうとして、だけど何も言葉が出なかった。
風花の言葉は真実を突いている。
そしてそれに、哀しみを覚えていない自分も、自覚している。
そんな自分が、これだけ心配してくれる親友に返せる言葉なんて、ないと思えた。
『ごめんね』
『変な事言っちゃった』
『上手くいくといいね』
『だけど、どんな返事でも』
『藤俐は絶対、真面目に考えてるはずだから』
『だから、それだけは大丈夫』
『だから』
『はい』
『風花さんの心配は、すごくうれしいです』
嘘ではなかった。
ただ、それ以上に今浮かれている気持ちが冷めてしまったことが不快だった。
だけど、自分にとって風花の役目は、そういう部分だ。
簡単に破滅を選んでしまう自分への戒めを、何も知らないけどだからこそしてくれる風花を、紗緒は紗緒なりに大事にしている。
『大丈夫です』
『先輩の意思を、尊重しますから』
『そっか』
『ごめんね、時間取らせて』
『上手くいくといいね』
『はい』
『ありがとうございます』
スマートフォンのアプリを終了させる。
更に雨が激しくなってきた。
しばらく雨を、見つめ続けた。
†
「お前の母親からだ」
女児の格好をした少年に告げた。少年は固まる。
「出るか?」
「……いえ」
「そうか」
少年は拒否した。少年は何を願ったと、あの少女は言っていたか。
今はこれ以上、少年にかけるべき言葉はないように思えた。
通話を、タップする。
「もしもし。誰だ?」
わかってはいたが、問いかける。
『萱島です。いきなりごめんなさい』
よそよそしい、硬い声。相手はやはり萱島だった。
『単刀直入に言うわ。一旦手を組まない?』
「手を組む?」
話の流れは予想できる。だが今は聞く。
『私は葵を返して欲しい。雨宮さんは《ゲーム》をすれば返すというけど、そんなの信用できない。そして私達が私達であるために、私達は負けるわけにはいかない。雨宮さんを殺してでも勝たないといけない』
感情を押し殺した声。押し殺しすぎて、血を吐くような、どす黒い声。
怒りと恐怖の凄まじさが、聞くだけでわかる。
『伏見君が協力してくれたなら、雨宮さんのジュエルはあなたに譲るわ。私達はただ、親子でありたい、ただそれだけなの』
「それだけのために、息子を娘に変えたのか?」
反吐が出そうな嫌悪感が、声に纏わりつく。
『…………』
沈黙が落ちた。藤俐はさらに追い打ちをかける。
「子供の声も聞かずに“私達”なんてぬかすなよ。勝手に同一化するな。子供はお前のぬいぐるみじゃ」
『私は葵を愛したいと願っただけよ!!』
通話越しの慟哭が鼓膜を破りそうになる。相手の感情が決壊していく。
「私は母親だから葵を愛さないといけないの!! どんなことをしても拒絶なんてしたりはしない!! 捨てたりなんてしない!! それだけはしない、してはいけないの!!」
一息に叫んで、また沈黙が落ちた。
今の絶叫は確実に葵も聞こえたはずだ。
葵は、自分の性を母親に否定された子供は、今の絶叫をどう聞いたのだろう。
『……雨宮さんのジュエルは譲る。これは本当。信じてとしか言えないけど』
萱島は息を切る。絶叫とは一転、意図して無感情に、
『舞形さんのことは知ってるわ、伏見君』
予想はしていた。高等部の教師なら自分と風花は、色んな意味で問題児だから。
「風花はプレイヤーじゃない。雨宮もそのラインは越えてないはずだけど、それより堕ちるのか?」
傷をえぐられたかのように、声が詰まった。多分、お互いに。
『……わかって、とは言えない。でも私はあなたが舞形さんを大事にしてるのと同じぐらい、葵を取り戻したいの。今さら《願い》をなかったことにはできない。どんな手段も選ぶつもりはない』
ふう、と息を静かに吐く。マイクに拾われないように。
「こちらの条件は雨宮のジュエルと風花の安全、そちらは萱島葵の無事の保障。それでいいな?」
『……ええ』
信用できるのか、とは問わない。
藤俐はまた連絡をとると言って、通話を切った。
「葵」
少年は西洋人形のように愛らしく、感情を圧し殺している。
「お前はこれでいいのか?」
少年は、何も答えなかった。